キリスト教の誤り
 
 キリスト教はさまざまな誤りを説いているが、もっとも大きな誤りはキリストの贖罪説である。この宇宙は神の法則、因果律によって運営されており、自らが播いたタネは自らが刈りとるという法則から見て、イエスが人類の罪を償うために磔になったというのはまったくの誤りである。

 シルバーバーチはこのように言っている。

 
バイブルには事実でないことが沢山のべられています。いかなる人間も自分以外の者のために代わって苦しみを受けることはできません。自分の成長を管理するのは自分一人しかいない・・・・・他人の成長は管理できないというのが摂理だからです。贖罪説は神学者が時代の要請にしたがってでっち上げた教説の一つです。自分が過ちを犯したら、その荷は自分でそれ相当の苦しみを味わわなくてはなりません。そうやって教訓を学ぶのです。もしも誰かほかの者が背負ってあげることができるとしたら、過ちを犯した本人は何の教訓も学べないことになります。

 懺悔についてもシルバーバーチは、罪を告白しただけでそれまでの罪が許されるなら、いままで真面目に生きてきた人との公平が失われることになり、そんなことがあるはずがないと断罪する。

 
傍若無人の人生を送った人間が死に際の改心でいっぺんに立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染み込んだ汚れが、それくらいのことで一度に洗い落とせると思われますか。無欲と滅私の奉仕的生活を送ってきた人間と、わがままで心の修養を一切おろそかにしてきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。”すみませんでした”の一言ですべてが赦されるとしたら、はたして神は公正であると言えるでしょうか。いかがですか。

 わたしが最近知り合った若者は、
「キリスト教って便利がいいなぁと思っていた。だっていくら悪いことをしても、懺悔して謝ったら許してもらえるのだから」
と、言っていたが、そうなのである、キリスト教は信者を獲得するために、おいしい話や都合の良い教義をこさえて人を勧誘するのである。

 先日も街中をキリスト教の街宣車が走っていたが、その惹句には、キリストは人を罪から解放する、と書かれていたが、自分が犯した罪は自らが支払う以外、誰であれその罪を解放することなどできないのに、よくぞぬけぬけと嘘を書くものである。

 ヒトラーのような大量殺人を行った者でもキリスト教に入信すれば、その罪は解放されると言うのだろうか。

 宗教家の恐いところは多くの人が固定観念の持ち主だからだ。むろんそうでない人もいるだろうが、中世のキリスト教では、地動説を支持したジョルダノ・ブルーノはローマ教会の圧迫を受け火刑に処せられ、ガリレオも宗教裁判で迫害され、もっとひどいのは多くの人が「魔女裁判」にかけられ殺されたことである。

 魔女か魔女でないかを判断する「水審判」なるものは、魔女らしき人間を縛って水中に入れ、沈んだ時は無罪、浮かんだ時は有罪とし、有罪の時は火あぶりの刑にした。どっちにしろ縛られた人間は助からない。こんな不条理を平然と受け入れるところに、固定観念に捉われた者の恐さがある。これを「病」といわなければなんというのか。

 アレクサンドリアの女性哲学者であったヒュパティアはキリスト教徒の洗礼を受けることを拒んだところ、魔女の烙印を押されて、キリスト教の総司教キュリロスの部下である修道士たちに教会に連れ込まれ裸にされた後、生きたままカキの貝殻で骨が見えるまで肉を削ぎ落とされ殺害された。キュリロスは死後、異教徒を追放した功績者として教皇レオ13世より「教会の博士」として聖人の列に加えられた。

 教皇もキュリロスもキリストを崇めながらやることは、神の摂理或いはキリストの意に反する行為であることを察知できない固定観念論者でしかなかった。神の摂理である、親切、寛容、同情、奉仕のいずれにも反する行為であり、また彼らが信奉するキリストも愛と慈悲と憐憫と寛容を最高の徳と位置付けたのに、ヒュパティアの殺害方法は残忍極まりないもので、キリストの位置付けた徳の全てに反することを微塵も感じないというその精神が恐ろしい。その精神、その行為は現代の「イスラム国」と全く変わりないのである。当然、教皇とキュリロスとその部下の修道士たちは死後、暗黒のオーラで我が身を包み何百年も悶え苦しむのである。

 蛇足ながら、君が代の斉唱を強制する石原元都知事や大阪市の橋本元市長はキュリロスの精神年齢と一緒だと言える。愛国心というものは自らが発露するもので強制して植え付けられるものではない。まして、歌っているかどうか口もとチェックする校長はキュリロスの部下の修道士と一緒である。こんな連中が都や市のトップにいるのだから、人間の脳構造は中世の時代からさほど進化したとは言えない。石原元都知事や橋本元市長はキュリロス同様固定観念にとらわれて自分の事が分かってないのである。
 キリスト教最大の誤りは、西暦553年のコンスタンチンノーブル会議で輪廻転生の思想を削除したことである。キリストは「一人ひとりが自分の運命に責任がある」といって、「ただ神のみが人を裁ける」、と主張していたにもかかわらず、教会は、人の運命を教会の支配化に置くために輪廻転生の思想を聖書から削除したのである。

 キリストが輪廻転生を説いたことは間違い無く、教会がそれを否定して、それ以来人類がダメになってしまったという。

 キリストはもともと、教会や宗教を作ることには反対していたという。なぜなら彼は教会や宗教が将来堕落して、人々の自由や真実を知りたいと願う心を抑圧することを知っていたからだという。中世の魔女裁判などがその最たる例と言えよう。

 そして、キリスト教は都合の良い部分だけを利用して、イエスを神に祭りあげているが、そのことについてシルバーバーチはこう言う。

 
誤解され、崇められ、今や神の座にまつり上げられてしまったイエス、そのイエスは今どこにおられると思われますか。カンタベリ大聖堂ではありません。セントポール寺院ではありません。ウェストミンスター寺院でもありません。実はそうした建造物がイエスを追い出してしまったのです。イエスを近づき難い存在とし、人類の手の届かぬところに置いてしまったのです。単純な真理を、寓話と神様を土台とした教義の中に混ぜ合わせてしまい、イエスを手の届かぬ存在としてしまったのです。

 キリストは決してこの宇宙を創造した神などではなく、我々と同じ神の一分霊で、ただ我々と違うのは、人類最高といってもいいぐらいの高い霊格の持ち主で、我々のような低い霊格の持ち主とは月とスッポン天地雲泥の差があるということだ。

 そして、シルバーバーチはキリスト教の教義やドグマ(独断的論理)・儀式・ステンドグラス・祭壇・法冠といったものを批判し、こういったものが宗教とどんな関係があるのかという。聖水すら何の意味もないと言う。中でも、教義による束縛を特に批判する。

 
教義による束縛は地上世界の病苦の一つです。疾病よりも大きな害悪をもたらします。身体上の病気による苦痛など物のかずではありません。なぜなら、それは魂の病気だからです。霊に”目隠し”をしてしまうのです。

 
人間はなぜか、神の叡智を見えなくする教義に好んでしがみつきます。不思議なことに、牢の中に閉じ込められている方が幸せと思う人がいます。自由とは、自由の有難さが分った者だけが手にできるのです。

 私は教義も儀式も作法も説きません。神の愛が子らを通して顕現しようとしている事実だけを説きます。いかなる書物や巻き物、ドグマ、特定の指導者や権威、あるいは学識さえも絶対と思ってはなりません。聖遺物を信仰の対象としてはなりません。神の摂理に従うことだけを心掛ければよいのです。それが宇宙でもっとも大切なものだからです。それが唯一絶対の権威なのです。

 宗教とは何かと問われれば私は躊躇なく申し上げます。・・・・・いつどこにいても人のために自分を役立てることです、と。神学などはどうでもよろしい。教義、儀式、祭礼、教典などは関係ありません。祭壇に何の意味がありましょう。尖塔に何の意味がありましょう。ステンドグラスの窓にしたからどうなるというのでしょう。法衣をまとったからといってどう違うのでしょう。そうしたものに惑わされてはいけません。何の意味もないのです。

 教義による束縛とは、一つ例を上げると、キリスト教信者は、日曜日に教会にいかなかっただけで罪を覚える。教会に行く行かないよりも、人の為に奉仕することの方が大切だと、シルバーバーチはいう。

 
主よ、主よ、と何かというと主を口にすることが信仰ではありません。大切なのは主の心に叶った行いです。それが全てです。口にする言葉や心に信じることではありません。頭で考えることでもありません。実際の行為です。何一つ信仰というものを持っていなくても、落ち込んでいる人の心を元気づけ、飢える人にパンを与え、暗闇にいる人の心に光を灯してあげる行為をすれば、その人こそ神の心に叶った人です。

 地上では特定の神を信じれば救われ、反対にその組織が崇拝する神を崇拝せねば救われないと説く宗教がありますがそのような事はありません。神とは自分が崇拝されたからと言って喜ぶような人間的存在ではありません。もしそうであれば神の公正が根源から崩れてしまいます。邪悪で利己的な人生を送った者が、神を崇拝したからと言って素直で利他愛に富んだ人生を送った者を差し置いて神の恩恵に浴することがありえましょうか。

 神を崇拝し自分は選ばれた一人のつもりになり、宗教的行事に傾倒している人間よりも、転んだ人に手を差し伸べ、飢えた人にパンを分け与え、悲しみに打たれている人に励ましの言葉を掛ける無神論者の方が遥かに神に近く尊い人物です。

 宗教に教義、経典、教祖、礼拝堂、賛美歌は必要ありません。宗教とは利他愛の実践、一言で言えば「サービス」これにつきます。大切なのは利他愛の実践であって、神を信じるかどうかは関係ありません。神を信じるからと言って神から寵愛される訳でもなく、また神を信じないからと言って罰せられることもありません。

 神を崇拝しているからと言って、その人物の魂が高いランクに属している訳ではありません。地上界には無神論者でも素晴らしい霊格を備えた人物もいれば、毎日賛美歌を歌い「主よ主よ}と唱えていても霊格が幽界付近(霊界で最下層の位置)に属している人もいます。また霊能力と霊格の高さは関係ありません。霊が見えるか、霊の声が聞こえるかは霊格とはなんら関係ありません。
人類は破滅する
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