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地震の話し(7) -- 須磨その2 --


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おじさんに付き添って避難所(近くの小学校の体育館)に行く。
足の踏み場のないほど人があふれている。一世帯に対して大体たたみ2畳分ほど。
おばさんはその中央部から少しはずれた所にいた。
「落胆」「意気消沈」「絶望」どういう言葉で表したらいいのだろう。
肩を落として気力を失い、夢遊病者のような姿でオレが来たことにも、
別に驚くでもなく、喜ぶでもなく、不思議だとも思わず....

ここに被災者の決定的な差を見た。
西宮の親戚はおばさんと言ってもおばあさんの兄弟だから、だいぶんお歳がいってる。
(水を運んでいたおじさんは去年亡くなった)
それに対し、須磨のおばさんはうちのお父さんの妹だ。
そんな歳の差があるのに、西宮の方は、なんとか生活するために、
自分たちができる限りのことをやっていた。

須磨の方は、おじさんこそいろいろ動きまわっていたけど、それは当面どうにかするため、
例えば、その日寝る時に風邪を引かないようになどの行動こそしていたけれど、
おばさんのように気力をなくして、何もせず座り込んでいる人が多かった。

何もかも失ってしまった時、一瞬茫然自失となり、何もできなくなる。
歳の差は関係ないようだ。何とかしてやりたいと思う。
それでも知り合いを助けてあげる、それが精一杯だ。
被災者でありながら無差別に救助活動をしていた自衛隊員、警察官、消防士、役所の人たち、
その他ボランティアをしていた人達、尊敬できるとともに、頭が上がらない。
オレにはできなかった。

その頃、朝の地震から10時間以上経ち、自分が助かったことに安心し、
自分の知っている人を心配しだしていた。
でも、亡くなった人もあり、行方不明の人もあり、さらに落胆していた。
オレが見た酒屋さんも知り合いだったようだった。
とにかく無事を確認できたことと、それ以上慰めることもできなかったので、
1時間くらいいただけで帰ることにした。

夕方5時。
そう言えば有馬街道を下っていた時に妹と連絡を取って以来全然連絡を取っていない。
無事を知らせないといけないと思ったんだけど、連絡がとれない。
携帯電話が圏外になっていた。
後でわかったんだけど、携帯電話の基地局(中継アンテナなど)が壊れていて電波が届かなかったようだ。

ドキドキしながら車まで戻る。
除けられていても文句が言えない状況の所に止めていた(乗り捨てていたと言ってもいいくらい)ので、
元の所にあったことに安心した。
さあ、気合入れて戻るか....
(実はここからがまだ大変なんだ)
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その時の状況を言葉だけで説明するのは難しいね。
そんなに文章うまくないし....
写真とかビデオとかとってないので、その状況は記憶にしか残っていない。
この後、神戸のど真ん中を通ることになるんだけど、まだまだ大変なことが続く。

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