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子連れ佐保路オフ(4)狭岡神社周辺

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佐保殿 --房前クンここに死す?--

 さて「佐保」ですが、その範囲はかなり広いです。大伴本家の「佐保宅」以外にも、長屋王の「佐保宅」もあり、さらには藤原北家の邸宅「佐保殿」が知られています。

 佐保殿は、『今昔物語集』22-2によると、藤原房前の邸宅であり代々北家の氏の長者が興福寺の供養の時に利用し、邸内に房前の肖像が安置され、長者は庭からその肖像を拝した後、殿に上がったということです。また『拾介抄』にも、この佐保殿が房前と冬嗣の邸宅だったと記されていますし、平安朝の記録によれば、藤原頼通や頼長がここに入っていますが、平家の南都焼き討ちで焼かれました。『寺社雑事記』(文明10年10月17日条)には、「佐保殿ハ佐保田ニ在之」とあり、現在の奈良市佐保田町に比定されています(以上、『角川日本地名大辞典29奈良県』より)。

 房前ほどの人物であれば、邸宅が一つとは限りません。ですから、この「佐保殿」だけが房前の屋敷だったと断言できませんが、邸宅が北にあったことから「北家」と称したこと、佐保が平城京の北側にあることを考えると、この佐保殿が北家「発祥の地」である可能性は大です。

 とすれば、『初月の歌』で房前が天然痘に倒れた邸宅、家持が八束を気遣って駆けつけ、見舞いに来た橘諸兄と会った場所が、ここということになります

 これはファンとしては行ってみるしかない。もちろん、遺跡などは残っていないでしょうが、地名だけでも確認できれば、あとは想像力想像力(^_^)9
 …と思っていたのですが、じつは現在「奈良市佐保田町」という地名は地図に見えません。合併か地名の変更かで、なくなってしまったようです(「法蓮町」の中に入ってしまっている)。
 色々調べて、現在の狭岡神社や教育大学付属中学校のあたりがもとの佐保田らしいことが分かりましたので、とにかく現地に行ってみました。

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<西地図H地点南向き>


↑古い標識
<西地図H地点>

 あったあったありました。「佐保田町」の文字。かなり古い木製の標識(自治会のものだと思います)で、だいぶ痛んでますが…。ぜひとも写真に残しておきましょう(^^;

 ところで前述の川口氏ですが、大伴坂上郎女と藤原麻呂の関係について、「藤原氏の邸宅のあったと考えられる佐保田町(広く、不比等の屋敷跡と見られる法華寺界隈までをも含めても)のあたりから坂上の里に至る場合に渡渉する佐保川」と書かれています。つまり、佐保殿辺りには、房前だけでなく麻呂の邸宅もあったとお考えのようですが、論拠は不明です。どうなんでしょうか。

 実は私も失念していたのですが、藤原麻呂邸については近年の発掘結果があります。
 1989年に平城京二条大路上の溝状遺構から兵部省卿=麻呂宅政所にあてた木簡(天平8年8月2日付の中宮職移)が出土し、この遺構の北にあたる地区=左京二条二坊が麻呂邸であった可能性が高いとされています。
 実はこの場所は有名な長屋王邸=旧そごう(^^;のすぐ北隣にあたり、かつ平城宮の東張り出し部の東南にあたる場所です。すぐ東北に法華寺=藤原不比等邸があり、長岡さん的には、不比等が特別可愛がっていた麻呂に与えた邸宅の位置としてもぴったりです。

 で、坂上里との関係ですが、この麻呂の邸宅がこの位置にあったとすると、通説の坂上里はほぼ真北、異説の坂上里はほぼ真東ということになります。前者へは佐保川を渡る必要はありませんが、後者へは(西から東へではありますが)佐保川を渡らなければなりません。

 このことからも、坂上里の位置は、異説=開化天皇坂上陵付近の方がしっくりくることになります。

(ご指摘いただいた美沙那さんありがとうございました<(_ _)>)

 せっかくなので、少し上って狭岡神社まで来ました。


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 狭岡神社は延喜式内社(ただし異説あり)です。祭神は、若山[口+羊]神・若年神・若沙那比売神・弥豆麻岐神・夏高津日命・秋比売神・冬年神・冬紀若室葛根神という、どれも聞いたことのない神さんばっかりです(^^;
 神社の由緒記によると、藤原不比等が勅許を得て佐保殿の丘の上に天神八座を祀ったことに始まるとなっています。佐保丘→狭岡になったというわけですね。それにしても、祭神に天神は見あたらないのですが....。

 さらに少し上ったところ、教育大学付属中学校のすぐ前に右写真の標柱(小さいものです。しゃがんで撮影しました)を発見しました<西地図I地点>。「応神天皇皇子大山守命」。そうそう、この少し北には彼の墓があります。応神の3皇子の物語もなかなか面白いものがありますが、長岡ワールドとは関係ないですし、今回はパスしました。

 このあと、不退寺の方を回って一条通りに戻り、あとはバスで平城宮跡と平城宮跡資料館に立ち寄りました。平城宮跡と平城宮跡資料館については、色々と面白いものがあったのですが、機会を見てまとめてみたいと思います。
 最後に、途中少し見晴らしの良かった場所の写真と、資料館に展示されていた古図面をご紹介しておきます。後者には、「佐保田」「佐保天神」(=狭岡神社)といった言葉が見えています。

<西地図J地点より>
大仏殿と二月堂が確認できます。

オオナベ=元明陵、コナベ古墳=元正陵という比定がされていたんですね。

 今回まわれなかった「坂上里」や伴墓など、まだまだ佐保のスポットはあります。今回はメンバーも少なかったので(クレセントのメンバーは二人(^^;..)、またオフしましょうね!

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