その南北の道を下ると、佐保川にかかる橋--下長慶橋--に当たります。
万葉に数多く歌われた佐保川。この辺りには、いくつかの歌碑があります。比較的古いものは次の二つです。→地図(別窓)を出す
↑クリックで拡大写真(焼60KB)
碑文は犬養孝氏の筆によります。
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歌は「打ち上る佐保の河原の青柳は今は春べと成にけるかも」(8-1433,大伴坂上郎女) |
歌は「千鳥鳴く佐保の川門乃清き瀬に馬うち渡し何時か通はむ」(4-715,大伴家持) |
大伴家持や坂上郎女の歌によれば、彼らの住む近くの佐保川は「瀬をなしていた」ことが分かります。
千鳥鳴く佐保の河瀬のさざれ波止む時も無しわが恋ふらくは 坂上郎女 4-526
千鳥鳴く佐保の河門の瀬を広み打橋渡す汝が来とおもへば 坂上郎女 4-528
千鳥鳴く佐保の川門乃清き瀬に馬うち渡し何時か通はむ 大伴家持 4-715
佐保川で「瀬をなすところ」としては、法蓮橋のところ(聖武夫婦陵周辺編でご紹介しています)が従来から指摘されていたようですが、川上氏はさらに「下長慶橋の下流に、段差によって水音の生じる個所が二個所まである」ことを指摘されています。
そこで、その場所も確認してみました。
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↑栄楽橋上流の小ダム<南地図堰ア>↓ |
↑栄楽橋下流の小ダム<南地図堰イ> |
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栄楽橋(右上写真では奥)は、下長慶橋から佐保川を50mほど下ったところです。
地図(別窓)を出す
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川上氏は、「その橋のすぐ上流のところと下流三〇米ほどのところが、小ダムによって、落下音の生じる個所となっている。(中略)ここに小ダムが設けられているのは、このあたりの水底が、小ダムを除き去れば、瀬音を立てて水の流れる急勾配になっているからであろう」と推測されています。
もちろん、100%確実というわけではありませんが、論考を一読した感想としては「おぉ!」と納得してしまいました。上にあげた歌の舞台、家持が「馬うち渡し」た川、坂上郎女が「打橋渡す汝が来」と待ちわびた川(「汝」は麻呂クンです)、そのがここなのかも知れません。
なお、郎女については若干説明が必要と思います。
というのは、郎女の住む「坂上里」は、奈良市佐紀町の「仁徳天皇皇后磐之媛陵」(『延喜式』では「平城坂上墓」と称する)付近に比定するのが通説なのですが、そうすると佐保川の位置からはかなり離れてしまうのです。
もっとも、現在の佐保川のどの位置をとっても、磐之媛の陵墓からはかなり遠方になります。また、辺りは巨大古墳が並ぶ場所で、果たしてこんなところに郎女の館があったのか、私には疑問です。
今回、調べていく中で、「坂上里」に異説があることを知りました。それは、奈良市三條通油坂にある「開化天皇陵」(『延喜式』では「春日率川坂上陵」)付近という説です。こちらは、現在の近鉄奈良駅から西へ少し下ったところです。
川上氏は、このことに直接言及してはおられません。ただ、上の「瀬」の考証の中で、「家持はこのあたりの瀬を、馬上に渡って「娘子」のもとへ通ったのである。坂上郎女が坂上の里にいて藤原麻呂を迎えたのと同じく、男たちは河北から河南に通い、女たちは河南にいて河北から来る男たちを待ったのである。」と書かれています。してみると、川上氏は坂上里を佐保川より南にあったと考えておらえるわけで、少なくとも磐之媛の陵墓付近とは考えておられないのは確実です。
そこで我らが長岡先生はどうお考えだったのでしょう。『初月の歌』の真野の出産の場面で、家持の使者は坂上里を訪れ、郎女が田村里へ出かけていることを聞いて愕然としています。この様子からして、佐保宅から坂上里へ来て、さらに田村里へ行くのはかなり難儀であるという印象を受けます。
田村里は、通説では藤原仲麻呂の「田村第」の地とされています。現在の地名では尼辻町の東地区、四条大路一丁目あたりになるようです。そこで、上記の2説の坂上里と、田村里・佐保宅の位置関係と直線距離を測ってみました(下図)。
偶然にも、双方の坂上里から田村里への距離はほぼ同じ2.6キロでした。
ここからは解釈になります。通説の坂上里であれば、家持からの使者はすでに2.6キロも来たことになり、田村へは同じ距離だけ離れています。異説の坂上里だとまだ1キロですが、逆に言うと田村里まではそれまでの2倍以上あることになります。
どちらとも決しがたいのですが、『初月の歌』を読んでいる感じとしては、坂上里の方が田村里よりも(佐保から)近い印象なので、私としては「異説」の方を推したいのですが....。
なお、田村についても異説があります。現在の天理市にあった田村荘ではないかという説で、成り立たないことはないのですが少し遠すぎて、少なくとも『初月の歌』には合いません。
ところで、さらに佐保川を下ってJRの線路が近くなった辺りには、いくつか新しい(平成のものばかり)歌碑がいくつかありました。その中の一つに、こんなのがありました。
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おお、「初月の歌」だあ!と喜んでしまいました(^_^)
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確かに家持の歌ではありますが、この川に直接関係があるわけではありません。また、この歌自身それほど有名というほどでもないと思います。もしかすると、『初月の歌』を読まれた方がこの碑を建てられたのでは、と思ったのですが....。