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子連れ佐保路オフ(3)春日野荘周辺

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佐保の宅

 今回のオフは「子連れ」ということで、まずは「子どもの遊園地」優先で場所を設定、宿は近くの手頃なところというプランでした。最初は宿を奈良のカンポに取り、あやめ池遊園+平城京というコースで考えていたのですが、カンポがうまく取れなかったので急遽宿を春日野荘(公立学校共済の宿)とし、ドリームランド+平城京というコースに変更したわけです。
 ですから、宿が春日野荘になったのはいわば偶然なのですが、その後色々しらべていくうち、ここが「佐保の宅」の推定地であることが分かったのです。

 佐保の宅といえば「初月の歌」の舞台。ここで家持ちが、真野が....と長岡ワールドに浸ってしまうという、オフの宿にはぴったりではないですか(^_^)v

 直接の参考にしたのは、川口常孝氏「大伴家持--「佐保の宅」考--」(古代文学会編『シリーズ・古代の文学1 万葉の歌人たち』武蔵野書院 S49 所収)という論文。たまたま図書館で目にしてパラパラと眺めていたのですが、読んでいくうちに様々なスポットがどんどん出てきて、すっかり興奮してしまいました。

 家持をはじめとする大伴本家の「佐保の宅」の位置について、川口氏は考証を進めていかれた結果、「一言でいえば、もとの奈良県立高等学校周辺地域である。(中略)現在、その敷地には、公立学校共済組合の福祉施設である奈良宿泊所・春日野荘が立っている」と結論されています。

 追記すると、この考察(非常に精緻なものです)の上で重要な論拠になっているのが、「尼理願が死去れるを悲しび嘆きて作る歌」(3-460)です。その葬送の列の描写がかなりの決め手になっているのですが、「初月の歌」の読者にとって「尼理願」もその死も大変馴染みのあるところです。


↑佐保山です。周囲の建物が邪魔でなかなか写真が撮れませんでした。<南地図G地点北向き>
↑この道のすぐ左が宿、奥が興福院です。<南地図F地点北向き>
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 また、上左の写真ですが、細いながらも南北にまっすぐな道であることが分かります。この道について川口氏は、「興福院から下ってくる道は、羅城内に入って小路となるので、どのような形でか、往時も存在したものと考えてよい」と述べておられます。

佐保川

 その南北の道を下ると、佐保川にかかる橋--下長慶橋--に当たります。

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 万葉に数多く歌われた佐保川。この辺りには、いくつかの歌碑があります。比較的古いものは次の二つです。→地図(別窓)を出す

↑クリックで拡大写真(焼60KB)

碑文は犬養孝氏の筆によります。
歌は「打ち上る佐保の河原の青柳は今は春べと成にけるかも」(8-1433,大伴坂上郎女) 歌は「千鳥鳴く佐保の川門乃清き瀬に馬うち渡し何時か通はむ」(4-715,大伴家持)

 大伴家持や坂上郎女の歌によれば、彼らの住む近くの佐保川は「瀬をなしていた」ことが分かります。

千鳥鳴く佐保の河瀬のさざれ波止む時も無しわが恋ふらくは 坂上郎女 4-526
千鳥鳴く佐保の河門の瀬を広み打橋渡す汝が来とおもへば 坂上郎女 4-528
千鳥鳴く佐保の川門乃清き瀬に馬うち渡し何時か通はむ 大伴家持 4-715

 佐保川で「瀬をなすところ」としては、法蓮橋のところ(聖武夫婦陵周辺編でご紹介しています)が従来から指摘されていたようですが、川上氏はさらに「下長慶橋の下流に、段差によって水音の生じる個所が二個所まである」ことを指摘されています。
 そこで、その場所も確認してみました。

↑栄楽橋上流の小ダム<南地図堰ア>

↑栄楽橋下流の小ダム<南地図堰イ>

 栄楽橋(右上写真では奥)は、下長慶橋から佐保川を50mほど下ったところです。

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 川上氏は、「その橋のすぐ上流のところと下流三〇米ほどのところが、小ダムによって、落下音の生じる個所となっている。(中略)ここに小ダムが設けられているのは、このあたりの水底が、小ダムを除き去れば、瀬音を立てて水の流れる急勾配になっているからであろう」と推測されています。
 もちろん、100%確実というわけではありませんが、論考を一読した感想としては「おぉ!」と納得してしまいました。上にあげた歌の舞台、家持が「馬うち渡し」た川、坂上郎女が「打橋渡す汝が来」と待ちわびた川(「汝」は麻呂クンです)、そのがここなのかも知れません。

 なお、郎女については若干説明が必要と思います。

 というのは、郎女の住む「坂上里」は、奈良市佐紀町の「仁徳天皇皇后磐之媛陵」(『延喜式』では「平城坂上墓」と称する)付近に比定するのが通説なのですが、そうすると佐保川の位置からはかなり離れてしまうのです。
 もっとも、現在の佐保川のどの位置をとっても、磐之媛の陵墓からはかなり遠方になります。また、辺りは巨大古墳が並ぶ場所で、果たしてこんなところに郎女の館があったのか、私には疑問です。
 今回、調べていく中で、「坂上里」に異説があることを知りました。それは、奈良市三條通油坂にある「開化天皇陵」(『延喜式』では「春日率川坂上陵」)付近という説です。こちらは、現在の近鉄奈良駅から西へ少し下ったところです。
 川上氏は、このことに直接言及してはおられません。ただ、上の「瀬」の考証の中で、
「家持はこのあたりの瀬を、馬上に渡って「娘子」のもとへ通ったのである。坂上郎女が坂上の里にいて藤原麻呂を迎えたのと同じく、男たちは河北から河南に通い、女たちは河南にいて河北から来る男たちを待ったのである。」と書かれています。してみると、川上氏は坂上里を佐保川より南にあったと考えておらえるわけで、少なくとも磐之媛の陵墓付近とは考えておられないのは確実です。

 そこで我らが長岡先生はどうお考えだったのでしょう。『初月の歌』の真野の出産の場面で、家持の使者は坂上里を訪れ、郎女が田村里へ出かけていることを聞いて愕然としています。この様子からして、佐保宅から坂上里へ来て、さらに田村里へ行くのはかなり難儀であるという印象を受けます。
 田村里は、通説では藤原仲麻呂の「田村第」の地とされています。現在の地名では尼辻町の東地区、四条大路一丁目あたりになるようです。そこで、上記の2説の坂上里と、田村里・佐保宅の位置関係と直線距離を測ってみました(下図)。

 偶然にも、双方の坂上里から田村里への距離はほぼ同じ2.6キロでした。
 ここからは解釈になります。通説の坂上里であれば、家持からの使者はすでに2.6キロも来たことになり、田村へは同じ距離だけ離れています。異説の坂上里だとまだ1キロですが、逆に言うと田村里まではそれまでの2倍以上あることになります。
 どちらとも決しがたいのですが、『初月の歌』を読んでいる感じとしては、坂上里の方が田村里よりも(佐保から)近い印象なので、私としては「異説」の方を推したいのですが....。

 なお、田村についても異説があります。現在の天理市にあった田村荘ではないかという説で、成り立たないことはないのですが少し遠すぎて、少なくとも『初月の歌』には合いません。

 ところで、さらに佐保川を下ってJRの線路が近くなった辺りには、いくつか新しい(平成のものばかり)歌碑がいくつかありました。その中の一つに、こんなのがありました。

 おお、「初月の歌」だあ!と喜んでしまいました(^_^)

 確かに家持の歌ではありますが、この川に直接関係があるわけではありません。また、この歌自身それほど有名というほどでもないと思います。もしかすると、『初月の歌』を読まれた方がこの碑を建てられたのでは、と思ったのですが....。

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