御言葉に聞く

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「終わりから始まる」

(日本基督教団 蒲生教会における福万副牧師説教)

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                   創世記第3章1節〜24節  

 大阪昭和教会が火災に遭いましたのが、3カ月前の7月8日のことです。その日の夜、蒲生教会の伊藤先生が私共の教会にかけつけて来て下さいました。主任牧師である夫が、警察の事情聴取から帰ってくるのをまっていてくださり、他の数人の牧師先生方と共に、教会の前で、祈って下さったことが、主人にとって、大きな励ましとなり、立ち直る一歩となったと聞き、本当に心から感謝しています。また、次の日から、後かたづけが始まりましたが、伊藤先生始め、青年の方々が、お手伝いにきてくださいました。そして、火事の後の最初の礼拝、教会再建の為の連続祈祷会、牧師館の引越しと、真夏の暑い中、私たちを助けてくださり、祈りつづけて頂いたことは、私たちにとって、生涯忘れることのできないことです。火事のあと、私たちを覚えて、教会を尋ねて来て下さる方や、お手伝いしましょうと手伝って下さる方が絶え間なく来て下さったことは、肉体的に楽になったといういうだけでなく、精神的にどんなに心丈夫に感じたことかしれません。また、この教会の若い方々が先頭をきって働いて下さった姿に、私たち大阪昭和教会の教会員だれもが、元気づけられ、意気消沈しがちな作業も活気づけられました。7月12日の礼拝のとき、青年の方々が出席して下さいましたが、その際、牧師をしていました私の父もその場におりまして、青年の方々のお祈りに、立派なお祈りをするととても感心していました。また今日、このような機会を私にお与えくださり、伊藤先生始め、蒲生教会の皆様のお心遣いに心から感謝もうしあげます。

 さて、この火災の出来事を、大阪昭和教会の教会員は、信仰の試練の時として受け止めて、乗り越えようと祈りを合わせてきました。新築して4年という教会堂でありましたし、1千万ほどの借金を抱えている中での出来事で、だれもが衝撃を受け、立ち上がれないような思いに陥りました。神様は、私たちに何をおっしゃろうとしているのだろうか、神様の御心は何なのだろうかと問いました。そして、祈りました。7月12日、日曜日、上半分真っ黒くなった礼拝堂で、焼け焦げた臭いの漂う中、冷房と照明のないところで、礼拝を守りました。その日の礼拝は、普段の礼拝の出席者を上回り、礼拝堂一杯の会衆が集い、讃美し、祈りを合わせました。そこで、私たちは礼拝堂が残され、礼拝ができる恵みを心から感謝しました。礼拝堂は、火事直後、2階のガラスや照明器具が落ち、灰と水がどろどろになって床を覆っており、礼拝ができる状態になるとは思ってもみない状況でした。教会員、またご近所のかたもお手伝いくださり、掃除をし、礼拝堂の床が現れたときは、感動しました。そして、礼拝をまもることができたのです。それから、7月26日礼拝後、教会全体協議会を持ちました。その中で、教会員それぞれが、教会に対する思い、再建に対する思いを述べました。私たちは、会堂という建物を再建するよりもっと大切な魂の集う教会の再構築を忘れてはならないことを知らされました。その後7月の末、3日間の連続祈祷会をもちました。聖書の御言葉がそのままで心にしみわたり、突き刺さりました。悔い改めの思いを持って、祈りを合わせました。そのような祈りを合わせる日々に、試練の中にあって、私たちは、苦しみよりもむしろ、神様の恵みを知らされました。神様は生かし、すべてを備えてくださる方であることを知らされました。その恵みをこれまでも知っていたつもりでしたが、忘れていたことだったように思います。この火災という出来事は、私たちを神様の恵みに引き戻すための出来事であったのではないかと思います。試練とは、その期間を我慢して耐え抜く修行とは違うと感じています。我慢しても耐えても、のどもと過ぎれば暑さ忘れるようなことでは試練の意味はないでしょう。そうではなく、試練とは私たち自身が変えられる出来事、神様の前に戻される出来事ではないかと思うのです。そして、聖書は「あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道もそなえてくださるのである」と証言しています(コリント人への第一の手紙10章13節)。

 さて、火災以降、創世記の失楽園の物語が私の頭の中に思い起こされました。そして、私にとって、この失楽園物語が、再出発に押し出す御言葉となっています。初めのうちは、私が火災で牧師館を失なったことを罪に対する神様の罰であるととらえ、アダムとエバが罪を犯し、楽園を追放されたことと重ね合わせて考えました。大阪昭和教会の牧師館は、新築の広くてきれいな牧師館でした。私たち家族にとって、何不自由ない恵まれた環境であり、私たちの楽園であったといえるかもしれません。私は伊藤先生と同じく、牧師の家庭に育った者で、2度の引越しを経験し、3つの牧師館を見てきました。大阪昭和教会に来る前にも4年間、熊本の教会にもいましたので、大阪昭和教会に来て、合計5つの牧師館に住む機会があったわけです。私の経験の中で、一番立派な牧師館であったのが大阪昭和教会でした。そのような整えられた住環境に喜び、感謝していましたが、いつしか、その思いも薄れて、傲慢な思いに陥っていたような気がします。

 アダムとエバが楽園を追放された物語は、神様の恵みの園から追放された人類の悲劇の始まりと考える方が多いでしょう。罪の結果の罰であると捉える読み方が一般的でしょう。私も初めのうちは、自分の経験をこの物語に重ね合わせていましたが、私は祈りの中で、神様の恵みの中にあることを知らされるうにち、失楽園の物語も神様の恵みの満ち溢れる物語であると思うようになりました。創世記のこの物語の作者は、人類の歴史の1ページに、マイナスの符号を置き、人類すべての歩みをマイナスに終わるものにしたのでしょうか。人類のすべての業は苦しみであり、それは罪の結果であり、死で終わるという人生観を表しているのでしょうか。そうではないと私は声を大にして言いたいと思います。神様は楽園の外においても、生かして下さるという恵みを見落としてはなりません。アダムとエバを生かすために、さらに彼らの身を覆う衣類を与えて下さっているではありませんか。「主なる神は人とその妻との為に皮の着物を造って、彼らに着せられた」のです。憐れみが溢れています。男と女を土の塵から造り、息を吹き入れて生かしたお方は、彼らの息を取り去ることはしなかったということです。尚も、生かし続けようという神様の御心がそこに確かにあるのです。

 ミケランジェロがアダムとエバの失楽園を描いた絵画では、彼らが背を丸めて悲壮な顔つきで、神の怒りから逃げるような様子が描かれています。楽園追放という出来事に、アダムとエバは絶望にうちひしがれたかも知れません。しかし、彼らは、労働をし、食物を得、子どもを生み、家族と共に生活を始めます。絶望感に打ちひしがれていた彼らに、新たに生活を始める一歩がどうやって踏み出せたのでしょうか。彼らは楽園を離れても、生きる希望が与えられたからこそ、人類の歴史の一歩を刻むことができたのではないでしょうか。楽園を離れても尚も、神様の恵みが注がれ、生かされている喜びを知ったのではないかと思うのです。そして、彼らは真に自分達が犯した罪を悔い改め、神様を礼拝し、祈ったからこそ、新しい歩みに踏み出せたのです。楽園の中にいた時のように、神様の恵みに引き戻されたのです。そして、神様に感謝する歩みが始められたのだと思うのです。罪を犯してしまったアダムとエバを、神様は新しく作り直すために、楽園を追放する必要があったのです。

 みなさんは、原罪という言葉を耳にしたことがあると思います。罪の源とでもいえるでしょうか、アダムによって、人は罪に定められたという考え方があります。しかし、アダムは罪の原因を造った人間であるとは、創世記3章の物語は語っていません。一組の男女が神様のいいつけを守らなかったことが語られているだけです。3章の中にも固有名詞としての「アダム」はでてきません。へブル語で「アダム」は「人」を意味する言葉です。3章では人と訳されているのです。つまり、問題なのは、アダムやエバ個人ではなくて、この物語を聞く個々の人なのです。この物語を聞く人が、自分に置き換えて考えなければならない問題なのです。彼や彼女のその昔の出来事のお話ではなく、人間という存在はこういう存在なんだということをここで語っているのです。

 神様は、「あなたはどこにいるのか」と人に問いかけます。私たち一人一人に問いかけられています。あなたはどこにたっているのか。人がどこにいるのか分からなくて聞いているのではありません。あなたが立つその土台は何なのか。あなたは何に頼って生きているのか。あなたが信頼しているものは何なのか。根本的な問いを私たち自身に突きつけているのです。神様は、私を信頼するのか、それとも蛇を信頼するのか、と問うておられます。創造主である神様を信頼し、神様の命令を守るか、それとも、食べても死ぬことはないし、善悪を知るものとなるという蛇の言葉を信頼するか。人は、蛇の言葉を信頼したのです。なぜ、蛇を信頼したのでしょうか。その実は、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましかった」からです。目に見えるものに、惑わされ、それを確かなものと信頼してしまったのです。人は賢くなろうと、強くなろうとしたのです。なぜでしょうか。不安が頭をもたげてきたからです。生きる不安、死に対する不安があるのです。人は不安をうち消すために、人間の知恵と力を駆使して、目に見える確かなものにすがろうとします。人間の知恵と力に頼るところには、神様の入る領域はありません。人間の知恵と力に頼る世界は、人間が人間を力で支配する世界です。己の知恵を頼みとし、人を疑い、罪をなすりあう世界です。アダムとエバは、それまでお互いにふさわしい助けてであった関係が、知恵をもった後、2人は自分を恥じ、自分を守ろうという言動にでた様子が記されています。そして、知恵に頼る人にとって、死のさだめは決してなくなることはないのです。死の恐怖は、決して取り去られません。人が、善悪を知るものとなったとき、人がどんなにその知恵をつくしても、死の恐怖から解き放たれることはないことを、神様は知っておられたのです。神様が、人間のために用意した園の中で生きる時、一つだけしてはならない掟をつくられました。「あなたは園のどの木からでも心のままに取ってたべてよろしい。しかし、善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、きっと死ぬであろう」という掟。そのしてはならないと言われた掟のもつ意味はなんでしょうか。善悪を知る事とは、人間が、自分達の知恵にたより、神様の恵みの外で生きようとすることであります。死という恐怖から逃れられない世界に生きなければならないということです。人間にとって死からまぬがれる者はいません。必ず訪れる死です。しかし、死の捉え方によって、私たちの生き方は変わってきます。死をすべてのものの終わりととらえるか、永遠の命に生きる中の通過点にすぎないととらえるか。神様の恵みの園で生きるものにとって、つまり、神様に信頼して生きるものにとっては、死は、通過点にすぎず、死の恐怖に向かい合うことはないということなのです。ですから、神様が禁止した掟を造られたことは、神様の恵みの賜物であることが明らかになってきます。人を死という不安から解放し、神様の恵みの世界に生かそうとされた恵みあふれる掟であったと言えます。しかし、人が陥る罪は、己の知恵に頼り、目に見えるものを信じ、神様を信頼しないことです。

 蛇の言葉を信頼して、神様の世界から離れようとしたアダムとエバに、神様は「あなたはどこにいるのか」と問うたのです。あなたは何を信頼して生きようとしているのか。神様は、人に悔い改めを求めます。しかし、人には、自分のために弁解を始めるのです。しかたなく、神様は、人間の知恵を信頼して、生きる世界には、死というさだめが待っていることを告げるのです。「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたはちりだから、塵に帰る。」しかし、神様は、罪に陥った人間を尚も慈しみ、生きる道を備えられたのです。恵み、備え、守られる道をお与え下さっているのです。悔い改めて、神様の恵みの中に生きようとするならば、人は、新たな命をあたえられるのです。人が、自分の知恵で築いた世界にいきるのでなく、神様の恵みの世界に生きよと、再び招いて下さるのです。

 人が絶望してもう終わりだと思うとき、それは、自分のこれまでの業が無になったり、自分の力に限界を知ったときであったり、知恵や力を尽くしても行き詰まったときに感じることでしょう。その終わりであると人が思ったとき、神様だけが終わりの壁を破り、新たな始まりを用意して下さるお方です。神様を信頼することだけが、終わりを始まりへと変える奇跡を起こすのです。死をうち破る力を持つ創造主だけが、奇跡をもたらして下さるのです。

 私たち大阪昭和教会にとって、火災によって、教会堂を焼失することは、再建不可能のようなできごとでした。牧師の管理責任問題、牧師と信徒の信頼関係、前会堂の借金、会堂再建資金など、目の前の壁は厚く高いもので、乗り越えられる見込みなどなにもありませんでした。しかし、神様によって暑い壁はうち破られ、私たちの信仰も支えられ、新しい道を与えられたのです。目標額をこえる献金が与えられました。まだ、前会堂の借金はありますが、これはいままでしてきたように、こつこつ返済していく計画です。そして、私たちは、心をあわせて、教会が完成する日を祈って待っています。一人一人が新しくされたことを感謝し、お互いに仕えあい、神様に仕えて伝道していきたいと思っています。

 コリント人への第二の手紙4章16節以下に次のような御言葉があります。「だから、私たちは落胆しない。たとい私たちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、溢れるばかりに私たちに得させるからである。私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくからである。」私たちは希望を与えられているのです。試練に会おうとも、絶望に陥ることはないのです。新しくして下さる神様を信じるからです。私たちは日々新しくされています。悔い改め、感謝し、神様に仕えましょう。神様は、主イエス・キリストの死と復活を通して、私たちに確かな希望の光を見せて下さっているのです。私たちは、与えられた希望の光を、こんどは希望を失っている人々に灯していきましょう。私たちがもう終わりだと思うところから、神様が始めて下さることを伝えていきましょう。

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