御言葉に聞く

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「見いだされる喜び」


regbook.gif「さて、収税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。そこでイエスは彼らに、この譬をお話になった、「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜しに歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めが必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」。また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。そして見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」

ルカによる福音書15章1節〜15節 

 
 ルカによる福音書15章には、三つの譬えが記されています。この譬えは、主イエスが当時「罪人」と言われていた人々と共に食事をされたことに対してなされた律法学者たちの批判に答えて語られたものですが、私たち信仰者にとって、非常に大切なことが語られています。
 三つの譬え、つまり「見失しなった羊の譬え」、「無くした銀貸の譬え」、「放蕩息子の譬え」に共通する問題は、私たち人間の存在すべき場所はどこかということです。譬えを通して、本来あるべき所から離れ迷っている私たち人間の姿があらわにされ、神さまのもとでこそ平安に生き得るのだということが語られているのです。
 パリサイ人や律法学者たちは、人々からも神さまからも喜び迎えられるのが当然であると考えていたところがあったと思います。しかし、取税人たちや、当時「罪人」と言われていた人たちは、逆に自分たちが真実な道から迷い出ているという経験をしている人たちです。毎日毎日が、喜びも望みもないままにただ過ぎ去っていく....。そんな人々が、主イエスの招きによって、喜びの食卓に迎えられたことは、本当に大きな大きな喜びであったでしょう。律法学者たちがこれまで経験したこともない真の喜びに溢れたのです。どんなに小さな者をも見い出し、その豊かな交わりの中に加えて下さるお方に出会うことができたのです。
 私たちもまた、そのお方に出会い、失われていたのに、迷い出ていたのに見い出されて主の豊かな交わりの中に招き入れられたのです。真の平安を与えられ、希望に溢れて生きる道を与えられたのです。しっかりとその道を踏み締め、もう二度と迷うことなく歩んでまいりたいと願います。



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