御言葉に聞く

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「安心して行きなさい」


regbook.gif「イエスが帰ってこられると、群衆は喜び迎えた。みんながイエスを待ちうけていたのである。するとそこに、ヤイロという名の人がきた。この人は会堂司であった。イエスの足もとにひれ伏して、自分の家においでくださるようにと、しきりに願った。彼に十二歳ばかりになるひとりむ娘があったが、死にかけていた。ところが、イエスが出て行かれる途中、群衆が押し迫ってきた。ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果たしてしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がいた。この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。 」

ルカによる福音書8章40節〜48節 

 
 この世に生きて、何の喜びも希望もない毎日を過ごさなければならないとすれば、その人の人生はどんなに辛く、悲しいものでしょうか。  十二年間も病を患い、その治療のために全ての財産を失った女性、しかも律法によって「汚れた者」というレッテルをはられた彼女の人生も、想像を超えるような辛く、苦しいものであったと思います。
 しかし、主イエスに出会い、主イエスに触れることによって、彼女は癒されました。そして、それまでとは全く異なる生き方に変えられたという事実が、この箇所に記されています。
 彼女は、これまで治ることのなかった病を、主イエスが癒して下さると信じて御衣に触ります。この彼女の行為は、非常に消極的なように思われます。この物語の直前に出てくるヤイロのように、積極的に自分の願いを主イエスに伝えれば良かったのに、と私たちは考えるかもしれません。しかし、「汚れた者」というレッテルをはられ、人々から遠ざけられた生活をしていた彼女にとっては、御衣に触れることが精一杯の行為であったのではないでしょうか。声にならない彼女の願い、祈りがそこにはあったのです。
 主イエスは、彼女の声なき願い、祈りの行為を受け止めて下さいました。主イエスを信じてすべてを委ねようとする時、主は私たちを必ず受け止めて下さいます。水がどんな器にも入るように、主イエスの憐れみは、形がいかに不完全な器でも、彼女のように主イエスを一筋に仰ぎ見、より頼む信仰の中に注がれるのです。
 主イエスは、彼女に「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と語って下さいました。この言葉は、彼女にとってどんなに大きな励ましとなり、希望となったでしょうか。癒された喜び以上に、この主イエスの御言葉が彼女に希望を与えたのだと思います。
 信じる私たちにも同じ言葉が与えられています。どんな苦しみや悲しみの中にあっても、「安心して行きなさい」との御言葉が与えられるのです。その御言葉が私たちの希望なのです。



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