御言葉に聞く

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「喜びは尽きない」


regbook.gif「しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」。そこで弟子たちのうちのある者は互いに言い合った、「『しばらくすれば、わたしを見なくなる。またしばらくすれば、わたしに会えるであろう』と言われ、『わたしの父のところに行く』と言われたのは、いったい、どういうことなのであろう」。彼らはまた言った、「『しばらくすれば』と言われるのは、どういうことか、わたしたちいは、その言葉の意味がわからない」。イエスは、彼らが尋ねたがっていることに気がついて、彼らに言われた、「しばらくすればわたしを見なくなる、またしばらくすればわたしに会えるであろうと、わたしが言ったことで、互いに論じ合っているのか。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えていろが、その憂いは喜びに変わるであろう。女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」

ヨハネによる福音書16章16節〜24節 

 
 主イエスは最後の晩餐の席で、弟子たちに 「しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる」とご自身の死を語られました。
 しかし、弟子たちはこの言葉を理解することができなかった。いや信じたくなかったのかもしれません。誰よりも愛する主イエスの死は、弟子たちには考えられなかったのです。しかし、それは誰にも止めることのできない神さまのご計画であり、主イエスはそのご計画に従って十字架に赴かれたのでした。
 弟子たちは家族も財産もすべてを捨てて主イエスに従ってきました。それほどに主イエスを愛し、信頼し、すべてを委ねたのです。その主イエスが死なれるという事実、これは弟子たちにとっては耐えられない事柄だったでしょう。実際どんなに悲しい思いで、主イエスの死を見つめていたか分かりません。主イエスはその弟子たちの悲しみを前もって理解していて下さいました。そしてその悲しみを先取りして語って下さるのです。「しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」、「あなたがたが憂えているが、その憂いは喜びに変わるであろう」と...。主イエスのよみがえりは、弟子たちに希望を与えました。死によってすべてが断ち切られるのではなく、よみがえりによって今も主が生きておられるという希望と喜びを与えられたのです。
「このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」。悲しみにくれる弟子たちに、再び会い、喜びを与える、と主イエスは言われます。しかも、その喜びを弟子たちから奪い去る者はいない、と主イエスは語って下さいます。誰も奪い取ることのできない真の喜びを主イエスは、私たちに与えて下さるのです。すべてのものにまさる喜びがもうすでに与えられているのです。


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