御言葉に聞く

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「何にすべてを委ねますか」


regbook.gif「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。」

ガラテヤ人への手紙3章1節

 
 パウロは、「だれがあなたがたを惑わしたのか」とガラテヤの教会の人々に語りかけます。「惑わす」という言葉には、本来ならばちゃんと見えているものを見えなくするという意味があります。ガラテヤの教会の人々は、「惑わされて」、真実なるものを見続けることをしなかったと言うのです。
 私たち現代に生きる者も、この地上で生き続ける限り、あらゆるものに惑わされてます。それは、人生の様々な事柄に疲れている人間にとって、何かに惑わされたほうが、楽に生きられると思っているからです。真実なるものを見続けることのほうが、遥かに困難なことだからです。しかし、惑わされて生きることの中に、本当の喜びや幸せが生まれてくるでしょうか。
 パウロはまさにそういう惑わされて生きる私たちに向かって、何が真実のものであり、何を私たちが見続けなければならないかということを語るのです。「ああ、物分かりのわるいガラテヤ人よ、十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに...」。主イエス・キリストの十字架があなたがたには見えなくなっている...。そのようにパウロは言うのです。
 私たちは、いつも真実なるものを見続けて生きているわけではありません。見続けることのできない弱さがあるからです。聖書の御言葉の光に照らして、私たちの歩みを振り返った時に、自分がどんな弱い人間であるかということを思い知らされます。しかし、そのような弱い私たちであるからこそ、主イエス・キリストは私たちを愛して下さり、希望をもって生き得るようにして下さったのです。それが最も明確にあらわされたのが、十字架につけられた主イエス・キリストの御姿なのです。
 2千年程前に一人の男が、犯罪者として十字架につけられて殺されたという出来事、それは神さまを信じない人にとっては大したことではありません。しかし、その出来事の中に、私たちの唯一の救いを見いだすのです。自分のすべてを委ねても安心し、希望をもって生き得る場所を見いだすのです。私たちが見失ってはならないのは、ただこれだけなのです。多くの惑わしの中で、ただ唯一、十字架の恵みを見続け、委ねる歩みをしてまいりたいと願います。

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