御言葉に聞く

crossbar.gif

「わたしにならう者となってほしい」


regbook.gif「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。わたしがそう言うのは、キリストの十字架を敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」

ピリピ人への手紙3章17節〜21節

 
 キリスト教を信じる者にとって、生きる模範は言うまでもなく主イエス・キリストです。長い教会の歴史の中で、また今日も私たちの間で「キリストにならう」ことは信仰の基本です。  しかし、パウロはピリピ人への手紙の中で、「わたしにならう者となってほしい」と言います。キリストにならって欲しいではなく、わたしにならって欲しいと...。
 私たちは、冷静であればあるほど、自分の生活が果たして他人の模範になるような立派なものであるかどうかに、疑問を抱かずにおれません。パウロはなぜ、このように言い得たのでしょうか。それは主イエス・キリストの愛を全身で受け止め、すべてを主に委ねて生きたからではないか...。
 主に委ねて生きる。これは実際にはそんなに容易なことではありません。私たちはいつも目に見えるものに心を奪われ、それを頼りにしようとします。それが最も確実で安全だと思っているからです。ですから信仰を与えられ、主が私たちを限りなく愛し、支えて下さるのだ...。そう知らされても、主に委ね切ることができないのが私たちです。でも信仰は委ねるところからはじまります。それは私たちにとっては冒険かもしれない。しかしそれは100%確実で安全な冒険であることを忘れてはなりません。
 その冒険に必要なのは、磨きあげられた人格や、鍛えあげられた能力、財産や地位などではありません。ただ一つ必要なのは十字架にかかり、死んで下さったほどに私たちを愛して下さった主イエス・キリストを受け入れ、従う心です。
 パウロは、誰よりもその心を堅く持った人でした。そして主イエス・キリストの十字架の愛にすべてを委ね切ることの幸いを知り尽くした人でもありました。だからこそ「わたしにならうものとなって欲しい」と言い得たのです。「わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さる」お方に一緒にすべてを委ねようではないか、とパウロは私たちに語りかけます。それに応える時、私たちもまた「わたしにならう者となってほしい」と言い得るようになるのです。

[Back]   

crossbar.gif

ホーム集会案内教会の歴史4.gif牧師紹介御言葉に聞く


祈りの花束イベント情報教会周辺地図おすすめホームページ

post01.gif

clickA.gif