御言葉に聞く

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「神に負われる人生」


regbook.gif「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生まれ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」

イザヤ書46章3節〜4節

 
 神さまは、「生まれ出た時から」「胎を出た時から」「年老いるまで」「白髪となるまで」「必ず負い」「持ち運び」「救って」下さると約束して下さいます。最初から最後まで神さまが責任を持って持ち運んで下さる、というのです。神さまが私たち人間を造られたゆえに...。  神さまに負われ、持ち運ばれているということに気づくこと、これは私たちの信仰の基本です。私たちは信仰を与えられるまでは(与えられても?)、目に見える物に心奪われ、自分の力によって生きようとしてきました。「自分が」という思いが心を占領していました。しかし、真実の神さまと出会うことによって、自らの弱さ、愚かさ、罪深さに気づかされるのです。その時、これまでのように「自分が」しんどい思いをし、時には辛い思いをしながら何かを負わなければならない者ではなく、実は生まれ出た時から、ただ造り主なる神さまによって自分が負われ続けてきたのだ、ということを知らされるのです。「神さまが」、私を生かし、すべてを負って下さっていたのだ、ということを...。
 そのことに気づいた時、生き方が変えられます。「自分が」頑張らなくては、「自分が」辛抱しなければ、「自分が」耐えなければ生きていくことができない。そういう思いから解放されます。「神さまが」すべてを負って下さり、導き、支えて下さるからです。
 しかし、勘違いしてはいけないことは、「神さまに負われる人生」は、決して自分が少しも歩かないで楽をする生き方ではないということです。人生を生きる中で、信仰を与えられても辛く、悲しい事柄はたくさんあります。もう立ち上がれないという苦しみもあります。でも、その事柄すべては神さまの御手の中にあります。自分一人で負う必要はありません。神さまがいつも私たちを支え、共に生きて下さいます。私たちの重い足を支えて下さり、一歩また一歩と前に神さまは共に歩んで下さるのです。
 神さまは、私たちに「必ず救う」という約束をして下さいました。私たちはその約束に生きるのです。その約束に希望を見いだして、立ち止まらず歩き続けるのです。そこに心から安心して生き得る道、人生が備えられているのです。
 私たちが絶望することなく、いつも喜びと希望を持って生き得る人生、それが「神さまに負われる人生」です。そしてその与えられた人生を一歩一歩、神さまに委ねて確実に歩いていきたいと思います。

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