御言葉に聞く

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「真の充足の時」


regbook.gif「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救いを見たのですから。この救いはあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照らす啓示の光、み民イスラエルの栄光であります。」

ルカによる福音書2章29節〜32節

 
 シメオンは救い主の誕生を待ち望んでいました。かなりの高齢であったと思われます。彼は、彼の長い人生、「主のつかわす救い主に会うまでは死ぬことはない」という聖霊の示しだけを頼りに生きてきたのです。しかし、彼は心待ちに待った幼子イエスを見つけ、腕に抱いて言います。「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救いを見たのですから。この救いはあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照らす啓示の光、み民イスラエルの栄光であります。」 
 長い人生の目標を達成してしまったような、心からの充足の言葉です。クリスマスとはこのような真の充足を与えられる時なのです。...しかし、私たちにそのような充足があるでしょうか。毎日の生活の中で、本当に心から満たされた思いで生きているでしょうか。むしろ私たちは、満たされるどころか、心乾いた毎日を送っているのではないか...。光に照らされて、生き生きと生きているというよりは、暗闇の中で、はっきり前も見えず、右往左往しながら生きているのではないか...。
 旧約聖書の詩篇には、「深い淵」という表現があります。この表現は「足掛かりもない深い泥の中」という言葉でも表現されています。足を抜こうとして、もがけばもがくほど、落ち込んでいってしまう...。私たちはそのような状況の中で、毎日を生きているのかも知れません。
 しかし、クリスマスはそのような、いわば「深い淵」の中で起こった出来事でした。聖書のクリスマス物語り登場する人々は、決して満たされた幸せな人々ではありませんでした。むしろ人生に疲れ、暗闇の中を生きていた人たちの真っ只中でクリスマスは起こったのです。
 ヨセフやマリア、あの博士たちもそうです。羊飼いたちも、エリサベツもザカリヤも、そしてシメオンも...。皆、何らかの疲れを負い、悩みを抱えていた人たちでありました。
 そのような人々に最初のクリスマスが来たということは、私たちにとって救いであり希望です。「深い淵」にあるような人間の真っ只中に主が生まれて下さり、真の充足を与えて下さる...。真の充足は、私たちが一生懸命努力して追い求めていくものでも、どうせ得ることができないとあきらめてしまうようなものではありません。それは「すでに、今、ここにある」のです。クリスマスに主イエス・キリストが生まれてくださったことによって、もうすでに与えられているのです。この「私」にも与えられているのです。そのことに気づいたとき、心の中が明るくなります。生きる勇気が生まれます。希望が生まれます。主イエス・キリストがいつも私たちと共に生きて、私たちを照らして下さるからです。

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