「「兵庫サッカーの歩み」− 兵庫県サッカー協会70年誌」(1997) より

 

<蹴球競技大会>

 県下における蹴球競技大会は、明治4510月に御影師範が主催した校外蹴球球技大会が最初で、関西蹴球連盟大会、明星商業や奈良師範などの上級学校の開催する大会が、ほぼ毎年に渡って開かれて当期スポーツの花形種目となっていた。各学校の蹴球部は、校友会の予算で遠征費が確保されておれば、早々と参加の意思を伝え勇んで出場し、大いに青春の意気をおう歌していた。

 その内に第一神戸中学校(神戸一中)、神戸商業(県商)、甲陽中学校の中学校勢が仲間入りして、各種の蹴球球技試合で一大転機が訪れる。特に、大正7(1918)年に大阪毎日新聞社の主催で開かれた“日本フートボール大会”が大きな刺激となった。“日本フートボール大会”での活躍ぶりを示す成績は、一夜にして県下の津々浦々まで報道され、もはや、一校を代表する事のみに止まらず、地域の名誉までも担ったものとして人々に把握されるようになる。

 さらに、神戸高商と関西学院が、関西や全国中等学校蹴球大会という規模の大きな大会を主催するようになって、蹴球の普及と発達に貢献をする。その頃になると、そのまま学校の名称を使用せず、下記のように、独特の呼び名を使用して試合する傾向が見られるようになる。

              “甲陽蹴球団”・・・・・・御影師範

              “武陽クラブ”・・・・・・神戸二中

              “商神クラブ”・・・・・・神戸高商

              “弦月クラブ”・・・・・・関西学院

              “神中クラブ”・・・・・・神戸一中

              (のちになって甲陽蹴球団は“甲陽”、商神クラブは“商神サッカー”と改称)

 これらは、現役の部員に蹴球を愛好する卒業生が加わって編成された蹴球チームであったが、学校の直接管理下から離れて身軽になり、主として先輩の援助を受けて大きく飛躍するのである。中でも、神戸高商の“商神サッカー”は、極東競技大会の国内予選大会において関西代表としての座を獲得するし、“神中倶楽部”は、昭和2(1927)年に、全日本選手権で優勝するという金星をあげたのである。


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