「「兵庫サッカーの歩み」- 兵庫県サッカー協会70年誌」(1997) より

<神戸二中>

 「武陽」(校友誌) 第19号に、

 「遂年台頭し来れる吾が蹴球部は、先輩諸兄の熱心なる御尽力に依り本年度に於て独立する事を得、大に面目を一新する所ありたると共に新主将高貫を得て新進気鋭の若武者達緊褌一番大に奮起せり」

とあるように、神戸二中の蹴球部は大正10年になって、野球部から独立し主将に高貫鴻を煩わせ、新規出発したのである。そして、神戸高商主催の蹴球大会に緒戦を飾ったものの、3回戦では広島中学に敗れ去った。

     神戸一中との定期戦

春の練習試合で一中に敗れた二中は、御影師範学校で再び鉾を交えた。

   大正111127日  於御影師範学校

        神戸二中 0 – 0  神戸一中

 春の恨みを晴らす目的の試合であったが、結局、その頃採用されていたコーナーキックの差で、又しても敗れた。コーナーキックは、一中が5で二中は2であった。この両校の蹴球試合で、定期戦と表現した対抗試合は、大正131月に神戸新聞社講演によるものが最初で、その後一中対二中の定期戦が続けられた

 本校の前身である兵庫県立第二神戸中学校は明治41年に創設され、昭和23年に兵庫県立第四神戸高等女学校と合併し、現在の兵庫県立兵庫高等学校が生まれるに至った。

 「質素剛健、自重自治」の四鋼領の下、政治、経済、社会、文化などの各分野に次々と逸材を世に送り出してきた。

 本校サッカー部の歴史は古く、本校交友会誌「武陽」によれば、明治44年の野球部支出明細に「蹴球4個、2635銭、蹴球中ゴム,3円」と記載されている。また、対外試合の記録としては、「蹴球部創部2年目にして、山口師範の学生とフートボールの試合を行う。」(「武陽」4, 大正2)とある。当時は野球部員がオフシーズンにサッカー部員として活動しており、大正10年までの蹴球試合の記録は野球部報に掲載されている。そして、大正10年に蹴球部として独立したのである。

 これまでの主な大会の記録としては、昭和23年度および同27年度全国選手権大会出場。県大会では優勝3回、21回、ベスト8併せて15回など輝かしい戦績である。また、現在も多くのOBたちがサッカーの発展のために活躍している。

 昭和23年度全国選手権出場当時の様子をOBの駒井氏(兵高2)は次のように語っている。「野球部が当時2年続けて甲子園の選抜大会に出場し、また人気スポーツでもあったので野球の応援には多数の生徒が参加したが、サッカーの全国大会が西宮で行われていたにもかかわらず、ほとんどといってよいほど応援にくる者もなく寂しい思いであった。監督もコーチもなく、主将の渡部(兵高1回、関西学生選抜)がすべて練習計画を立て、部員を指導した。サッカー関係の指導書は外国の本しかなく、英語の本を部員達で翻訳しながらイギリス流のサッカーを勉強した。当時の陣形は5321のツーバック・システムで、試合においてはポジションチェンジなどはいっさいなく、ウィングは常にウィングのいちについて攻める形であり、基本を大切にし、蹴って走るというのが本校のサッカーであった。この年の9月の国体予選では決勝戦で神戸高校と対戦し、延長戦となって1点先取したが神戸高校に3点を取られて、惜しくも国体出場はならなかった。悔しい思いを糧とし、次の大会での優勝を狙って練習に励んだ。選手権大会の予選は11月に始まって、兵庫高校の優勝が決まったのは12月であったが、宿敵神戸高校はすでに県芦屋高校に敗れていた」。また、昭和27年度ではOBの飴家氏(兵高5回、関西学生選抜)によれば、「23年度の全国大会ではHBとして活躍した木下氏(兵高2回、関西学生選抜)を監督に迎え、とにかく神戸高校に勝ちたいという気持ちで熱心に研究した。ある時などは、銭湯で神戸高校に対する作戦を話し込んでいる内、2時間近く銭湯にいて親に叱られたり」。この時のチームは圧倒的に強く、1月の新人戦では優勝,9月の国体予選では準決勝で市立神戸高校(県立夢野台高校)に敗れたものの、12月には宿敵神戸高校を決勝戦で3-2と下し、全国選手権大会に出場したのであった。

 


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