大内輝弘(おおうち てるひろ) 1520〜1569
○四郎左衛門
◇父:大内隆弘 子:大内武弘
 周防・大内氏一族だが、父隆弘は家督争いで
義興に敗れて殺され、輝弘は、豊後・大友氏の下に身を寄せる。大内氏滅亡後、大友氏の支援を受けて、旧臣を糾合して再興を図り挙兵、高嶺城に攻め込み奪還したが、安芸・毛利氏に敗れて自害した。
大内義興(おおうち よしおき) ????〜1526 
○亀童丸 六郎 周防権介 大内介 左京大夫 管領代
◇父:大内左京大夫政弘 室:内藤肥後守弘矩女 子:
大内義隆、九郎次郎弘興
 西国の雄、周防・大内氏当主。流浪の将軍足利義稙を擁して大挙上洛、将軍義澄を追って復位させ、自らは管領代として中央政治に参画する。1511年には山城・船岡山にて摂津・三好氏と激戦を繰り広げ辛くも勝利した。その後、国元で出雲・尼子氏と争い攻防を繰り返した。
大内義隆(おおうち よしたか) 1507〜1551 
○亀童丸 周防介 大内介 伊予守 左兵衛権佐 兵部権大輔 太宰大弐 兵部卿 左京大夫 侍従
◇父:
大内義興 室:万里小路秀房女、小槻伊治女 子:大内義尊、問田亀鶴丸 養子:大内(一条)晴持、(大友)義長
 周防・大内氏当主。父の後を継いで出雲・尼子氏と争うが、やがて文弱に流れ、政事軍事は家臣に任せるようになった。寵臣相良武任を重用した為、家政は乱れ、重臣陶隆房らの諫言にも耳を貸さなかった。その隆房らに背かれて急襲を受けて逃走、長門・大寧寺で自害した。
大内義長(おおうち よしなが) ????〜1557
○塩乙丸 八郎 大友晴英 ジュアン 周防介 左京大夫
◇父:
大友義鑑 母:大内義興女 子:大内介丸
 豊後・大友氏の一族。周防・大内義隆の猶子となるが、義隆に嫡子義尊が生まれると疎んじられた。義隆が重臣陶隆房に討たれた後、隆房に擁立され大内氏第32代当主に就く。しかし、隆房が厳島にて安芸・毛利氏に討たれてからは、毛利氏に所領を次々と侵食され、力を急速に失っていった。最期は山口を捨て且山城に籠もるが、家臣にも裏切られ自害して果てる。
大熊朝秀(おおくま ともひで) ????〜1582 
○備前守 長秀?
◇父:大熊備前守政秀 子:大熊長秀
 元越後守護上杉氏臣で主に経理面を預かる。やがて守護代長尾氏に仕えるが、1556年当主景虎が隠遁した際甲斐・武田氏に寝返り反旗を返す。しかし敗れて武田氏の下に走り家中となった。遠江・小山城代になるが甲斐・天目山で戦死。

大崎義宣(おおさき よしのぶ) 1526〜1550
○伊達氏 小僧丸 三郎
◇父:
伊達稙宗 養父:大崎高兼 室:大崎高兼女
 元は伊達氏一族だが、奥州探題大崎氏の内紛に介入し、この際大崎氏10代当主高兼の養子として送り込まれ、小野御所に住す。しかし、伊達氏の専横を快く思わない義弟の名生城主義直らと対立。天文の大乱においては父稙宗側に付いて活躍し、兄晴宗側に与した義直と争うが、稙宗が幽閉されたことから義直が優勢となり、同様に岩出山城に幽閉される。後に出奔し、弟晴清を頼って葛西氏領内まで逃れたところで刺客に襲われ落命した。
大友親家(おおとも ちかいえ) 1561〜1641
○新九郎 常陸介 門司勘解由允 利根川道孝 セバスチャン 林氏 田原氏
◇父:
大友義鎮 養父:田原親實 子:大友(松野)親英
 豊後・大友氏一族。父義鎮は彼の利発さを憂い、僧侶にしようとしたが、激しい気性の為反発した程であった。養父田原親實謀反の際には、これを討って後継となる。後に当主の兄義統に逆らい、薩摩・島津氏に通じて謀反を起こし、殺されかけるが、義鎮の取りなしで所領没収にとどまった。1609年細川氏に仕えて、肥後入部し81歳で亡くなる。
大友親貞(おおとも ちかさだ) ????〜1570
○八郎
 豊後・
大友義鎮の弟か。1570年肥前・龍造寺氏本拠佐嘉城を大友軍約6万で囲んだ際、総大将格で着陣した。しかし総攻撃の前祝い酒宴後、龍造寺氏臣鍋島信生(直茂)らの軍勢8百程の急襲を受け、混乱の中討たれて、大友軍は潰走した(今山の合戦)。
大友親盛(おおとも ちかもり) 1567〜1643
○弥十郎 与兵衛尉 半斎 パンタレアン 民部大輔 田北氏 田原氏 松野氏
◇父:
大友義鎮 養父:田原親賢 室:田原親賢女 子:大友親治
 豊後・大友氏一族。初め出家して彦山黒川座主となるが、後に還俗。田原親賢の養子となって豊前・妙見岳城主となり、豊前方面で活躍した。島津氏が豊後に侵攻した際、戸次川の戦いでは敗れた。また、日向・耳川の合戦にも大将として参加している。大友氏没落後は豊前・細川氏に仕えて77歳で病死。
大友晴英(おおとも はるひで) ????〜1557→大内義長

大友義鑑(おおとも よしあき) 1502〜1550
○塩法師丸 親安 親敦 修理大夫
◇父:大友修理大夫義長 室:伏見宮貞仁親王女、
大内義興女 子:大友義鎮晴英(大内義長)、致明
 豊後・大友氏第20代当主。優秀な家臣団と共に領国を拡げる。周防・大内氏との戦いを続け、1534年勢場ヶ原の戦いでは辛勝している。嫡子義鎮を廃して家督を三男に継がせようとして反対する家臣を斬り、これに同心する他の家臣に襲われて殺された(二階崩れの変)。49歳。
大友義鎮(おおとも よししげ) 1530〜1587 
○塩法師丸 五郎 新太郎 宗滴 宗麟 ドン・フランシスコ 左京大夫 修理大夫 左衛門督
◇父:
大友義鑑 室:一色山城守義幸(善孝?)女、奈多鑑基女 子:大友義統親家親盛
 豊後・大友氏第21代当主。義鎮を廃嫡しようとした父義鑑が家臣に殺され(二階崩れの変)その跡を継ぐ。早くから安芸・毛利氏、肥前・龍造寺氏、薩摩・島津氏らと戦い、一時は豊・筑・肥6ヶ国を支配し、九州探題にも任じられたが、1578年島津氏に日向耳川に戦い大敗して衰勢に向かい、天下人羽柴秀吉の援けを受けその配下となった。義鎮はポルトガルや明と積極的に交易し、また、耶蘇教布教を許して教会、孤児院、病院などの施設を建て、1582年には少年使節をローマに派遣している。58歳で没。
大友義統(おおとも よしむね) 1558〜1610
○長寿丸 吉統 コンスタンチノ 左兵衛督
◇父:
大友義鎮 室:吉弘鑑理女、伊東氏女 子:大友宗五郎義乗、松野右京正鎮(正照)
 父義鎮の後見を受けて豊後・大友氏第22代当主となる。日向・耳川の合戦で薩摩・島津氏に大敗すると大友氏は斜陽に向かい、家臣の離反も相次いで収拾がつけられず、義鎮の再出馬を要請する結果となる。その後、羽柴秀吉の庇護を受けて島津氏を駆逐し、豊後を安堵される。しかし、朝鮮出兵の時、敵の大軍来襲の報に前線より逃走したことから、改易された。関ヶ原の合戦においては諫言に従わずに西軍に加担、旧領回復を図るも、黒田長政に敗れて再び流された。48歳で没。
大野直昌(おおの なおしげ) ????〜???? 
○山城守
◇父:大野紀伊守利直 兄:大野友直、直秀、直澄、弟:
大野直之
 伊予・河野氏臣にて兄が早世した為、大除城主となる。土佐・一条氏、長宗我部氏の再三の侵攻を撃退している。羽柴秀吉の四国征伐の際、当主通直に従い降伏した。
大野直之(おおの なおゆき) ????〜???? 
◇父:大野紀伊守利直 室:宇都宮遠江守豊綱女 兄:大野友直、直秀、直澄、
直昌
 伊予・河野氏臣にて菅田城、のちに地蔵ヶ岳城主。1573年土佐・長宗我部氏と通じるが、敗れて兄直昌に預けられる。しかし脱出して、翌年再び長宗我部氏と謀って直昌を騙し討ちしようとするも、またも失敗する。後に長宗我部氏の力で旧城に復するが、再び河野氏に臣従。羽柴秀吉の四国征伐の際は当主通直降伏後も頑強に抵抗し、やがて女姿に身を変えて城を脱出したという。
大野木秀俊(おおのぎ ひでとし) ????〜1573
○兵内 土佐守
◇父:大野木加賀守秀資?国茂?
 大野木氏は近江佐々木支流にて、秀俊は浅井氏庶流の重臣。1570年
織田信長から横山城を死守し、横山城救援に来た浅井勢との間に姉川の合戦が起こる。同合戦後横山城を逐われる。小谷城落城時、羽柴秀吉に通じて投降するが、戦後、裏切り者として信長配下の中村一氏に殺された。
大原高保(おおはら たかやす) ????〜1548
○六角氏 次郎 高盛 中務大輔
◇父:六角高頼 養父:大原備中守政重 子:大原高方
 南近江・六角氏一族であるが、佐々木源氏信綱の長子重綱に始まる名流大原氏を継ぐ。六角氏当主の兄
定頼に従い、1520年には管領細川高国の援軍に向かっている。その後、嗣子高方を失ったことから、六角義賢の子高定を嗣子に迎えた。
岡部正綱(おかべ まさつな) 1542〜1583 
○次郎右衛門
◇父:岡部美濃守信綱 弟:
岡部元綱 子:岡部内膳正長盛
 藤原氏流。駿河・今川氏臣。16歳の初陣で首級2取って武名をあげる。当主義元戦死後は氏真に従った。氏真が逃亡し、今川氏が滅亡した後も城に拠って戦ったが、やがてこれを評した甲斐・武田信玄に“一将得難く万卒得易し”として招かれ駿河・清水城を守る。武田氏の下でも三方ヶ原の合戦等に参戦、武勲をあげた。武田氏滅亡後は徳川家康に見出されて仕えるが、大酒の為寿命を短くした。
岡部元綱(おかべ もとつな) 1543〜1581
○小次郎? 五郎兵衛 元信 長教 真幸 丹波守
◇父:岡部美濃守信綱 兄:
岡部正綱
 藤原氏流。駿河・今川氏臣。最前線尾張・鳴海城を守っていたが、桶狭間の戦いで討ち取られた当主義元の首の引き渡しを条件に開城帰国した。今川氏滅亡後は甲斐・武田氏に仕え高天神城を任せられるが、三河・徳川軍本多忠勝らの攻撃を受けて、落城討死。
岡本顕逸(おかもと けんいつ) ????〜???? 
○良哲 好雪斎
◇父:
岡本禅哲 子:岡本宣綱
 常陸・佐竹氏臣にて、常陸・太田松山館主。父と同じく、佐竹氏の外交面を主に担当。当主義重の三男貞隆の岩城氏襲封の際にはこれに従い、岩城氏の家政に参画。後に病を受け、家督を子に譲ると、京で隠棲した。
岡本禅哲(おかもと ぜんてつ) ????〜1583 
○竹閑 梅江斎
◇父:岡本曽端 室:小山秀綱女 子:
岡本顕逸
 常陸・佐竹氏臣。僧でありながら、側近として仕え、主に外交面を担当。
岡本頼氏(おかもと よりうじ) 1537〜1606 
○岩本氏 源次兵衛尉 頼実?頼真? 主馬允 河内守
 肥後・相良氏臣。槍の名手。1567年薩摩・島津氏との大口の合戦においては、島津四勇将の1人
川上久朗を討つ働きを見せている。軍中覚書「岡本頼氏戦場日記」を残し、19歳の初陣より生涯19回の合戦にて功があったという。
小川祐忠(おがわ すけただ) ????〜1601
○佐平次 孫一郎 土佐守
◇室:一柳直高女 子:小川祐滋
 近江・浅井氏家臣。しかし、尾張・織田氏の侵攻を受けると、これに降って直属の旗本武将となった。本能寺の変が発生した後、明智光秀の傘下に入るが、光秀が敗れると羽柴秀吉に降る。その後、柴田勝豊に家老として仕えて、賤ヶ岳の戦いに羽柴秀吉方として参加、伊予府中に7万石を得る。小牧・長久手の戦いにも先鋒として参加。関ヶ原の戦いには西軍として参加するが寝返り、東軍で功を挙げた。しかし数年後に改易されている。

雄城治景(おぎ はるかげ) ????〜????
○若狭守
 豊後・大友氏臣。大神氏庶流の国衆。加判衆を務めるが、特記事項なし。ごめんね〜。

奥平貞能(おくだいら さだよし) 1536〜1598 
○監物 美作守
◇父:奥平貞勝 子:奥平美作守貞昌(信昌)
 平氏流で出自は上野・奥平郷。駿河・今川氏臣にて三河・作手城主。後に
氏真を離れて三河・徳川家康に仕える。1570年近江・姉川の合戦にも参加して功を挙げた。1572年父に従い甲斐・武田氏に仕える。しかし長篠の合戦前に家康に味方し、押し寄せる武田勢の猛攻を長篠城で支えて織田、徳川両軍の合戦勝利を助けた。
押川正重(おしのかわ まさしげ) ????〜????
○権左衛門
◇父:押川内蔵助
 土佐・一条氏臣にて、代々押之川城主の家柄。しかし、土佐・長宗我部氏の侵攻に従い、1575年以降これに従う。1600年長宗我部氏没落後は
藤堂高虎の下に身を寄せ、その臣藤堂玄蕃良重に仕える。大坂の陣にも出陣。夏の陣にて良重が重傷を負った際、これをかついで、戦場を離脱、高虎に賞される。同年1000石を賜るが、分知を願い出、親兄弟に分け与えた。
小島政章(おじま まさあき) ????〜1591 
○出雲守
◇父:小島右近政春 子:小島民部佑政倶、右京亮、采女
 土佐・一条氏臣として近隣の豪族と戦い功をあげる。当主
兼定を追放した家老の不義を怒ってこれを討った。後、土佐・長宗我部氏に従った。
織田長益(おだ ながます) 1547〜1621 
○源五郎 有楽斎如庵 侍従
◇父:織田信秀 室:平手政秀女 子:織田河内守長孝、孫十郎頼長、右衛門尉俊長、左衛門佐長政、大和守尚長、宥閑
 尾張・織田氏一族。本能寺の変時、
織田信忠に従って京・二条城にいたが、家臣を欺いて城を脱出。早くから出家し、千利休に師事。利休一哲の1人。利休切腹後の豊臣秀吉の茶の湯を司る。関ヶ原の合戦では東軍徳川方に属して、蒲生郷舎を討ち取る武功を挙げて、戦後加増される。大坂の陣では、豊臣秀頼の母淀君の叔父として大坂城入城するが、夏の陣直前に退去。徳川方の間諜を務めていたと思われる。信長の弟であるが、武を好まず、その死後も野心を持たず、常に有利な側について生き延びた。
織田信勝(おだ のぶかつ) ????〜1557
○勘十郎 達成 武蔵守
◇父:織田信秀 室:和田備前守女 子:
織田信澄、勝三郎信糺、新八郎信兼
 尾張・織田氏一族にて尾張・末盛城主。通称信行。1558年林秀貞、柴田勝家らと共に、当主の兄信長に取って代わろうとし逆らうが、稲生で敗れる。戦後、信長に許されるも、以後勝家が信長に接近し、信行に謀反の意志ある旨告げたことから、信長に呼び寄せられて謀殺された。
織田信雄(おだ のぶかつ) 1558〜1630
○茶箋丸 三介 具豊 信意 常真 侍従 左近衛権中将 内大臣 北畠氏
◇父:
織田信長 養父:北畠具房 室:北畠具教女、木造具政女、織田長利女 子:織田三法師秀雄、但馬守高雄、因幡守信良、出雲守高長、信為、良雄、長雄
 尾張・織田信長2男。信長の伊勢・北畠氏侵攻に伴いその養子に入り、伊勢衆を率いて各地を転戦する。本能寺の変で父が殺されるとすぐには信じず、遅まきに近江まで出陣するが、何を思ったか信長の遺産安土城に火を付ける暴挙に走ったともいわれる。その後羽柴秀吉の援けを受け、次弟信孝と争いこれを自刃させた。その後徳川家康と組んで秀吉と小牧、長久手の戦いを争うが、家康に無断で秀吉と和してしまう。以後、越中攻略、小田原攻め等に参加するが、秀吉とは不仲でその死後は家康に傾倒し、1615年大和上野5万石を得る。だが、家康旧領への転封を拒否して所領没収されている。凡庸であったおかげで天寿を全うした。まぁ有能だったら天下を継いでいたかもしれんが…
織田信包(おだ のぶかね) 1543〜1614
○三十郎 信良 信兼 老犬斎 上野介 民部大輔 左近衛権中将 長野氏
◇父:織田信秀 室:長野藤定女 子:織田民部大輔信重、寿圭、刑部大輔信則、弥十郎信當
 尾張・織田氏一族。一時期、北伊勢の豪族長野氏に養子に入り、長野氏を名乗る。当主の兄
信長、及びその子信忠に従い、諸戦に活躍。本能寺の変後は羽柴秀吉に従い、織田信孝や柴田勝家らと対立した。北伊勢で柴田方の滝川一益と戦い、峰城攻略。1592年近江に2万石で移封され、剃髪。以後秀吉の御咄衆となる。関ヶ原の合戦では西軍につくも、改易は免れ、大坂で豊臣秀頼に仕えた。
織田信澄(おだ のぶずみ) 1555?〜1582
○坊丸 七兵衛 津田氏 磯野氏
◇父:
織田信行 養父:磯野員昌 室:明智光秀女 子:織田主水昌澄(信重)、主水左衛門元信
 尾張・織田氏一族。父が謀反の咎で殺された後、柴田勝家に養育される。その後、近江の豪族磯野氏の養子に。本能寺の変時、明智光秀の縁者という理由で、織田信孝、丹羽長秀らに大坂城千貫櫓にて攻撃され討死。その性格については、“甚だ勇敢だが残酷”(耶蘇年報)、“一段の逸物”(多聞院日記)とある。
織田信孝(おだ のぶたか) 1558〜1583
○三七郎 侍従 神戸氏
◇父:
織田信長 室:神戸具盛女 子:神戸信茂
 尾張・織田氏一族。伊勢の豪族神戸氏に養子に入り、神戸氏を名乗る。1574年伊勢・長島攻めで初陣。以後、父に従い各地を転戦。本能寺の変時は四国方面軍の総大将として摂津にあった。明智光秀の従弟信澄を敗死させた後、羽柴秀吉と合流した。織田氏の家督継承者を決定する清洲会議で、柴田勝家と組んで跡目を狙うが失敗。新当主秀信の補佐役として、岐阜城と美濃一国を得るにとどまった。以後秀吉と対立。1582年岐阜城を囲まれるが、秀信を引き渡して講和。翌年再び挙兵するが、兄信雄の攻撃を受けて開城、自刃した。
織田信忠(おだ のぶただ) 1557〜1582 
○奇妙丸 秋田城介 左近衛中将
◇父:
織田信長 室:塩川伯耆守長満女 子:織田秀信、左衛門尉秀則
 父信長より、1575年長篠合戦後、家督を譲られ、尾張、美濃を得た。以後総大将として松永久秀討伐や大坂攻めに出陣。1582年甲斐・武田氏攻略においては先鋒大将として、滅亡に追いやる。本能寺の変時、京・妙覚寺にて報に接し、救援に向かうも果たせず、二条御所に籠もって明智光秀の謀反軍と戦うも大軍の前に敵わず、切腹して果てる。必ずしも逃げられない状況ではなかった。逃れていれば…。
織田信照(おだ のぶてる) ????〜????
○越中守 中根氏
◇父:織田信秀 養父:中根忠貞?
 尾張・織田氏一族。本能寺の変後は兄
信雄に従う。長久手の合戦では秀吉に捕らえられている。誰も相手にしない程無能な人物であったらしい。織田一族なのに…。
織田信長(おだ のぶなが) 1534〜1582 
○吉法師 三郎 上総介 弾正少忠 尾張守 右大臣
◇父:織田信秀 室:
斎藤道三女・帰(奇)蝶、塙直政妹、生駒家宗女、坂氏女、高畠新二郎女、土方雄久女 子:織田大隅守信正、信忠信雄信孝、権中納言秀勝、源三郎勝長、三吉信秀、左衛門佐信高、武蔵守信吉、左京亮信貞、左京亮信好、長兵衛尉長次
 尾張・織田信秀嫡子。青年期は奇行が目立ち“うつけ者”と評される。家督相続後、守護代織田氏等国内の対抗勢力を駆逐制圧に力を注ぐ。1560年桶狭間において上洛する2万5千の駿河・今川義元軍を3千の兵で奇襲、見事義元を討ち取った。1567年には宿敵美濃・斎藤氏を敗って居城を井ノ口改め岐阜に移し、“天下布武”の意思を示す。間もなく足利義昭を奉じて上洛、将軍の座に着けてその権威を利用するが、やがて反目して義昭は信長討伐の御内書を各地に乱発するようになった。越前・朝倉氏攻略中、盟友北近江・浅井氏の思わぬ造反により挟撃を受けるが間一髪逃れ、1573年朝倉、浅井氏を滅ぼす。この時、朝倉、浅井氏に味方した比叡山を焼討にして世を驚かせた。1575年には甲斐・武田氏と長篠で戦い、その精鋭騎馬軍団を鉄砲隊を活用する新戦法により打ち破って滅ぼした。天下の半分を平定し、匹敵する大名はなかったが、1582年不満を持つ重臣明智光秀に京・本能寺逗留中に急襲され自害した。享年49歳。「人間50年下天の内をくらぶれば夢幻の如く也…」by敦盛。
織田信広(おだ のぶひろ) ????〜1574
○三郎五郎 大隅守 津田氏
◇父:織田信秀
 尾張・
織田信長異母兄。一時、美濃・斎藤氏と結んで清洲城を攻めようとしたが、未遂に終わる。1549年駿河・今川氏の侵攻を受けた際は、敗れて捕虜となり、後の人質交換により帰還する。伊勢長島の合戦で一向一揆勢と戦い討死した。
織田信康(おだ のぶやす) ????〜????
○与次郎 津田氏
◇父:織田信定 子:織田信時、信清、勘解由左衛門信益、柘植与一
 尾張・織田氏一族。1537年犬山城を築いて城主となる。1547年美濃・斎藤氏を攻めて敗北。以後も犬山城を守った。

織田秀信(おだ ひでのぶ) 1580〜1605
○三法師 正三位中納言
◇父:
織田信忠 室:豊臣秀勝女
 本能寺の変後、織田氏後継者を決める清洲会議において、3歳ながら家督継承を決定される。しかし、実権はなかった。関ヶ原の合戦においては、石田三成の誘いを受けて西軍に加担する。岐阜城に籠もるが、福島正則らの攻略を受けて降伏。一命は許され高野山に入って出家。同地で没。
小野崎義昌(おのざき よしまさ) ????〜1585?1588?
○佐竹氏 乙寿丸 三郎 昭通 義通 昌幹 義政 山城守 大掾氏
◇父:佐竹義篤 室:小野崎三郎成通女
 常陸・佐竹義篤五男だが、小野崎氏に入嗣。後に、兄かつ佐竹氏当主の
義昭の策略で、有力土豪大掾氏に入嗣するが、やがて家臣団に追放され、再び小野崎氏に戻った。陸前・伊達氏との人取橋の合戦の際、下僕に刺殺されたとも、陸奥・亀田城主駒木根信重攻略の際討死したとも。
小幡景憲(おばた かげのり) 1572〜1663 
○熊千代 孫七郎 勘兵衛 道牛
◇父:
小幡昌盛 養子:小幡縄松
 1582年甲斐・武田氏滅亡後、11歳で徳川秀忠の小姓となるが、1595年出奔し諸国を流浪。関ヶ原の合戦では東軍井伊直政の陣中にて戦功をあげる。1614年大坂城入城の際には、徳川方板倉勝重に通じ、戦後は徳川幕府に仕えて1500石の使番となった。武田遺臣に兵法等を取材し、甲州流兵学を集大成して、「甲陽軍鑑」を著す。諸大名はじめ多くの門弟子に兵学を教授した。
小幡虎盛(おばた とらもり) ????〜1561 
○孫十郎 日意 織部 山城守
◇父:小幡上総介盛次(日浄) 室:市河等長女 子:
小幡昌盛 弟:小幡惣次郎、弥三左衛門尉、山城守光盛(貞長?)
 元は遠江郷士であったが、父の時甲斐・武田氏に仕えた。14歳の時父が戦死し、家督を継ぐ。以後“鬼虎”と怖れられる程の勇者となり、軍功を重ねた。川中島の合戦を前にし病死。遺言は“みのほとをしれ”。
小幡信貞(おばた のぶさだ) ????〜1592?
○上総介 尾張守
◇父:小幡憲重(重定) 養子:小幡直之
 上野・小幡城主にて、関東管領・山内上杉氏、後に甲斐・武田氏に従う。小田原攻め、三方ヶ原の合戦、長篠の合戦に参戦。武田氏滅亡時に、織田信忠に降伏した。関東管領となった滝川一益の与力として戦い、神流川の合戦に参加。その後、真田昌幸を頼って隠棲した。

小幡昌盛(おばた まさもり) ????〜1582 
○孫次郎 又兵衛 豊後守
◇父:
小幡虎盛 室:原虎胤女 子:小幡藤五郎昌忠、孫次郎在直、景憲、昌重
 甲斐・武田氏臣。初陣で大暴れして大手柄を挙げ、諸将を驚かせた。以後も武名を轟かすが、武田滅亡の5日前49歳で亡くなった。
小原鑑元(おばら あきもと) ????〜1556
○神五郎 宗惟 四郎左衛門尉 遠江守
◇父:小原右並
 豊後・大友氏臣。大神阿南氏庶流の国衆。加判衆を務め、主に肥後方面に転戦する。他姓衆の挽回を図ろうとして(姓氏の争い)滅ぼされ討死。

飯富虎昌(おぶ とらまさ) ????〜1565 
○兵部少輔
◇弟:
山県昌景
 飯富氏は甲斐源氏逸見氏流か。甲斐・武田氏臣。軍装を赤で統一して“武田の赤備”と呼ばれ、自身も“甲山の猛虎”と怖れられた勇者。1548年信濃・村上軍らに8千で攻められた時にはわずか8百の兵で撃破した。その後当主信玄嫡男義信の傅役となるが、1565年義信は謀反の罪で捕らえられ、虎昌もこれを示唆したとして処刑された。
小山田信茂(おやまだ のぶしげ) 1540〜1582
○藤乙丸 弥三郎 信有 左兵衛尉 兵衛尉 左衛門大夫 出羽守 
◇父:小山田出羽守信有
 平氏流。発祥は多摩。甲斐の国人、岩殿城主にて武田氏に従うが、盟友的なものか。“文のいることは弥三郎に七書五経をいわせて聞き給う”と言われるほどその頭脳は買われ、外交面でも手腕を発揮した。その部隊の軍装は黒で統一され、関東方面の戦いでは、度々先陣を戦っている。武田氏滅亡の際、頼ってきた当主勝頼に反旗を翻し、迎え撃って自害に追い込んだ。しかし、
織田信長に捕らえられ、善光寺にて斬首。42歳。
小山田昌辰(おやまだ まさたつ) ????〜1552
○上原氏 伊賀守 備中守
◇子:小山田備中守昌行、大学助昌貞
 甲斐・武田氏臣。甲斐・石田小山田氏の名跡を継ぐ。城攻め、築城、守備の名手だったといわれる。地蔵峠の戦いで戦死。
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