菊池義武(きくち よしたけ) ????〜1554
○大友氏 菊法師丸 十郎 重治 国武 義国 義宗 左兵衛佐
◇父:大友義長 兄:
大友義鑑 子:菊池駿河守則治(高鑑)、十郎則直
 豊後・大友氏一族。兄義鑑の戦略で肥後・菊池武包を追って跡を継ぐが、野心家で周防・大内氏と結んで大友氏に逆らい争う。しかし、敗れて肥後・相良氏等に頼った。その後も大友氏と度々争うが、隈本で戦い敗走している。最期は甥の義鎮に捕らえられ殺された。51歳。
岸田遠近(きしだ とおちか) ????〜1618 
○勝右衛門
◇父:岸田伯耆守遠國 室:佐賀木工右衛門女
 大和・筒井氏臣。2男にて兄伯耆守遠正は阿保城主。当主
定次の伊賀移封の際、父はそのまま大和に残って羽柴秀長に仕えるが、遠近ら兄弟は筒井氏に伴った。しかし後、兄遠正と不和となり、弟遠武と共に筒井家を辞して、紀伊・藤堂高虎に仕える。高虎伊予入国にも随身、千石領有して町奉行を任じられる。伊賀転封後も町奉行となり、町割普請を指揮。大坂の陣では上野城の留守にあたり、大坂方内通者を摘発。後、高虎の子高次に随身。
木曽義利(きそ よしとし) 1577〜1640
○仙三郎 義就
◇父:
木曽義昌 子:木曽玄蕃充義辰
 徳川家康の関東入国に伴い、豊臣秀吉に信濃の本領を接収された後、下総・蘆戸1万石を得る。後に叔父義豊殺害の咎で改易された。
木曽義昌(きそ よしまさ) ????〜1595
○玄徹 左馬頭 伊予守
◇父:
木曽義康 室:武田信玄女 子:木曽仙太郎、義利、長三郎義春、義通(義一)
 木曽福島城主。姻戚関係で甲斐・武田氏一門に列した。飛騨攻略に功を挙げ、西方の備となる。しかし、武田氏の衰勢に従って尾張・織田氏に通じ、怒った当主勝頼の追討を、地の利を活かして撃退した。小牧・長久手の戦いでは羽柴秀吉に与して、保科正直と戦う。しかし、秀吉に疎まれ失領。子義利が徳川家康から得た下総の地で没す。
木曽義康(きそ よしやす) 1514〜1579?
○源九郎 陽山 左京 中務大輔
◇父:木曽義在 子:
木曽義昌、(上松)蔵人義豊
 信濃木曽谷の豪族にて、木曽義仲の裔と称す。1542年家督相続。村上、小笠原、諏訪の諸豪族と組み、甲信国境に出兵するも、甲斐・武田氏に敗北する。1549年には武田氏を鳥居峠にて撃退するが、1555年武田氏に降伏。1560年侵攻してきた飛騨・三木氏を破った。
北 信愛(きた のぶちか) 1523〜1613 
○彦太郎 松斎 尾張守 剣吉氏
◇父:北致愛 子:北愛一(定愛)、秀愛(直愛)、愛継、内蔵介愛邦 養子:北愛信(信景、信連)
 南部氏重臣。三戸南部氏の一族。当主晴政死後に継嗣争いが生じたが、信直を擁して九戸一族と争い、その家督相続に尽力した。髷の中に観音像を収めて戦ったという。

北条景広(きたじょう かげひろ) ????〜1579
○弥五郎 丹後守 長國
◇父:
北条高広 室:三条氏女(元畠山義慶室)?
 父とともに上野・厩橋城にて越後・上杉氏の下戦う。当主謙信死後に起こった御館の乱では、景虎方に属して戦い、旗持城攻略に参加した他、景虎の実家、相模・北条軍を誘引して坂戸城を攻めた。しかし、景勝軍の荻田長繁の槍に倒れた。
北条高広(きたじょう たかひろ) ????〜????
○丹後守 安芸守
◇父:北条広春 室:元畠山義慶室? 子:
北条景広、下野守高常、広包、上野介高明
 大江広元の流れをくむ越後の名族。越後・上杉謙信に仕え上野・厩橋城主となる。関東方面に武威を張るが、相模・北条氏、甲斐・武田氏に攻められると去就を転々とした。いずれも許され謙信の下に戻っているが、その死後景勝景虎の家督争い(御館の乱) において景虎方について敗れ、所領を失い没落。甲斐・武田勝頼の下に走るが、勝頼の取りなしで、結局景勝に仕えたという。
北之川親安(きたのかわ ちかやす) ????〜1583
○左衛門大夫
◇父:北之川経安 室:波川玄蕃清宗女 子:北之川正親、紀宗親
 伊予・
西園寺公広の15将の一人。紀貫之の子孫といわれる。東宇和郡にて勢力を張ったが、土佐・長宗我部家の謀反に加担したことから、居城三瀧城を攻められ、敗走した。
北畠親成(きたばたけ ちかなり) ????〜1576
○式部少輔
◇父:
北畠具教
 伊勢国司・北畠一族。尾張・織田信長に伊勢を侵攻されるとこれに抗戦。和議の条件として信長次子具豊が北畠氏入嗣するが、これに最後まで抵抗した。しかし後、具豊の命を受けた旧臣藤方具俊に父具教を殺され、その直後、兄長野具藤ら一族と共に田丸城に誘殺された。
北畠具親(きたばたけ ともちか) ????〜1586
○宮内少輔
◇父:
北畠材親 室:六角義賢女 子:大坂具成
 伊勢国司・北畠氏一族。大和・興福寺にて僧籍に入っていたが、兄具教ら一族が殺されたことを知ると還俗し、具教の遺児亀寿丸を擁して旧臣を森城に糾合する。しかし数に勝る北畠具豊勢に川俣の戦いで敗れ、安芸・毛利氏の下に逃れた。1582年織田信長が本能寺で暗殺されたと聞くや、直ちに伊勢に戻って旧臣を集め、五箇篠山城で挙兵して戦うが落城。この時、妻女が身代わりとなって、具親は伊賀へ逃がれたという。後に羽柴氏臣蒲生氏郷に従った。
北畠具教(きたばたけ とものり) 1528〜1576 
○参議 権中納言 伊勢国司
◇父:
北畠材親 室:六角氏女 子:北畠具房長野具藤北畠親成、亀松丸、徳松丸(教家?)
 伊勢国司・北畠氏8代当主。伊勢平定に努め、次子を宿敵長野氏に養子に入れ、配下にする等活躍をみせるが、1569年尾張・織田信長が侵入し、北畠氏と対立する木造具政を味方につけ、支城には目もくれず大河内城に進軍。これに対し、約50日に亘って籠城し、徹底抗戦する。武力制圧をあきらめた信長は、次子具豊を北畠氏に養子に入れて和議を結び、これを受けて開城した。1575年具豊に家督を譲って隠居すると、用無しとばかりに、翌年信長に従った旧臣によって攻められ、奮戦するが衆寡敵せず三瀬御所で自刃(三瀬の変)。上泉伊勢守秀綱に免許皆伝を受け、剣豪塚原卜伝から秘伝“一の太刀”の奥義を伝授された上、ト伝が死に際し、嫡男彦四郎に「北畠卿より伝授を受けよ」と遺言した程の剣豪である。
北畠具房(きたばたけ ともふさ) 1547〜1580
○左近衛権少将 侍従 伊勢国司
◇父:
北畠具教 室:北畠政勝女 子:北畠昌教 養子:北畠(織田)具豊、(中院)親顕
 伊勢国司・北畠氏9代当主。1576年父具教ら一族大半を尾張・織田氏一族北畠具豊に殺害される中、助命される。織田氏臣滝川一益に預けられ、河内に3年間幽閉された。その後、解放されるがやがて没。馬に乗れない程太っていたため“太り御所”と陰口されたという。
北畠晴具(きたばたけ はるとも) 1503〜1563 
○親平 具国 左近衛中将 参議 大納言 伊勢国司
◇父:北畠大納言材親 室:細川高国女 子:
北畠具教木造具政北畠具親
 伊勢国司・北畠氏7代当主。国内の国人長野氏や外宮の山田衆、さらには近江・京極氏らと交戦し、伊勢の勢力安定に努める。一方、多芸御所にて歌合せを催し、義父細川高国と共に多芸御所に庭園を築く等文化人として優れていた。
北畠政成(きたばたけ まさなり) ????〜1576
○左衛門尉
◇父:北畠政勝 室:松永久秀女
 伊勢国司・北畠氏庶流。北畠家中一の戦闘集団東伊勢衆を束ねる。1569年尾張・
織田信長の伊勢侵攻に際し、当主具教らが大河内城に籠城すると、多芸御所の城代を務め応戦。しかし、合戦中に織田軍に急襲され、奥方衆を人質に奪われる失態を犯している。その後も、多芸御所を守り、1576年三瀬の変において、当主具豊から送られた刺客を撃退するが、織田軍の侵攻を受けて霧山城に籠城するも、火攻めを受けて自害。
北畠昌教(きたばたけ まさのり) 1577〜????
○千代松丸 折戸氏
◇父:
北畠具房 子:折戸昌清、昌近
 伊勢国司・北畠氏一族だが、尾張・織田氏に一族の多くを滅ぼされると、追手を逃れて京・本願寺に至り、ここに隠れ住む。一方、北畠氏臣井上専正が主家没落後、顕如上人の弟子として僧になり、出羽・鹿角花輪に専正寺を建てたことから、ここに招かれ、人里離れた大湯の折戸で、折戸氏を名乗り住した。その後、津軽氏の客将として1600年には関ヶ原の合戦にも参陣している。死に際し「子孫は代々折戸氏を名乗ること」「他家の家来になってはいけない」という2つの事を言い残したという。
木付鎮秀(きつき しげひで) ????〜1580
○三郎左衛門 宗虎 紀伊入道
◇父:木付親諸 室:生地玄蕃丞安清女 子:木付鎮之、鎮直
 豊後・大友氏祖能直孫親重の末流で加判衆も務めた重臣。日向・耳川の合戦において大敗した大友勢の殿軍を務めて見事成し遂げた。田原親貫が大友氏に謀反した際、その安岐城を攻めるが、奈多鎮基に背後から襲われて戦死。

吉川興経(きっかわ おきつね) 1508〜1550
○千法師
◇父:吉川元経 室:宮庄経友女、宍戸元源女 子:吉川千法師 養子:
吉川(毛利)元春
 安芸豪族吉川氏当主。藤原南家の流れで駿河・吉河が発祥の地。経高の時安芸に入った一族。興経は周防・大内氏、出雲・尼子氏の両勢力間を転々とした。家中の対立に乗じて安芸・毛利氏に介入され、その二男元春を養嗣子として乗っ取られる。以後、毛利氏の下、隠居生活を送るが長く続かず、尼子氏に通じたことから殺された。
吉川経好(きっかわ つねよし) ????〜1584?
○伊豆守 式部少輔 市川氏
◇父:吉川経世 子:市川元教、元好
 安芸・吉川氏一族。市川経好の名で知られる。当主興経の養子に、安芸・毛利氏二男
元春を迎える為尽力し、以後毛利氏臣として働いた。毛利氏の防長平定後は山口奉行に任ぜられ、高嶺城代となる。長男元教が豊後・大友氏に内通した時には、これを殺害している。
吉川広家(きっかわ ひろいえ) 1561〜1625 
○毛利氏 才寿丸 次郎五郎 又次郎 経言 民部少輔 蔵人頭 侍従 宮庄氏
◇父:
吉川元春 室:豊臣秀吉養女(宇喜多直家女) 子:吉川才太郎、広正、吉見就頼
 安芸・毛利氏一族。父に従い各地を転戦、1572年一族宮庄氏を嗣ぐ。主家が豊臣秀吉の傘下に付いた際には、小早川秀包と共にその人質となる。兄元長死後、吉川氏家督を継いだ。朝鮮出兵にも参加するが、安国寺恵瓊らと意見の齟齬が表面化した。関ヶ原の戦いでは主家と共に西軍に属したが、兵を動かさせず傍観し、主家毛利氏を東軍方徳川氏に取りなす為奔走した。結果、家康が広家に与えようとした防長2国を毛利氏に与えるよう願い出、広家はあくまで毛利一門として、初代岩国藩主となる。又、次男就頼は大野毛利家を興す。
吉川元氏(きっかわ もとうじ) 1556〜1631
○毛利氏 元棟 仁保氏 繁沢氏
◇父:
吉川元春 子:毛利元景、繁沢元貞、百合助、木原就重、繁沢就直
 安芸・毛利氏一族。周防・仁保氏の養子となり、後に石見に移って繁沢氏を名乗る。関ヶ原の戦い後毛利氏に復姓し、毛利氏一門、阿川毛利家の祖となる。
吉川元長(きっかわ もとなが) 1548〜1587 
○毛利氏 鶴寿丸 元資 治部少輔
◇父:
吉川元春 室:宍戸隆家女
 安芸・毛利氏一族で父より吉川氏当主を譲られる。父に劣らぬ知勇兼備の将で、各地を転戦して毛利氏発展の為活躍した。九州征伐中日向において40歳で病死した。吉川氏家督は弟経言(広家)が継いだ。戦場における父譲りの勇猛さを見せる反面、同僚知己に対する文も多く、教養深い一面も持っていた。
吉川元春(きっかわ もとはる) 1530〜1586 
○毛利氏 少輔次郎 駿河守 治部少輔
◇父:
毛利元就 養父:吉川興経 室:熊谷信直女 子:吉川元長元氏経言、松寿丸
 安芸・毛利元就二男。安芸・吉川氏の養嗣子となるが、父元就が吉川氏を討ち吉川氏家督を掌握する。世に醜婦として知られた安芸の有力者熊谷信直の娘を娶って、信直は大いに感激して毛利氏との絆を強めたという。以後、山陰方面を中心に各地を転戦、生涯75の合戦に臨み、64度勝ったといわれる名将であった。又、陣中において「太平記」の筆写をする等、歴史・文芸への造詣も深かった。毛利氏が羽柴秀吉に降伏してからは隠居していたが、九州征伐の時、秀吉の希望で出征し、その最中豊前・小倉城で病死した。
久徳義時(きゅうとく よしとき) ????〜????
○左近兵衛尉
 北近江・浅井氏臣。尾張・織田氏侵攻を受け、近江・姉川で敗れ織田氏に降った。同じ浅井から寝返った同僚高宮右京亮が、織田氏の間隙を突いて再び反旗を返した際には、これを織田方に知らせ、怒った右京亮が攻撃してきたが、援軍が派遣される前に、逆に右京亮を討ち取った。

京極高清(きょうごく たかきよ) 1460〜1538
○乙童子丸 六郎 高秀? 秀綱 中務少輔
◇父:京極持清 養父?:京極勝秀? 子:
京極高広高佳、上坂高景(信光)?
 近江守護・京極氏当主。応仁の乱では東軍に加担。南近江・六角高頼と近江の覇権をかけて戦う。一時、家臣の多賀宗直が反乱を起こし、甲賀へ逃亡するが、1487年宗直を討ち取り帰国。叔父政経と家督を争い、1490年に政経が家督とされると、高清は敗れて越前・敦賀に逃れている。しかし2年後に家督を得て、1499年には重臣上坂家信を味方につけて北近江を奪回した。1505年には家信の仲介によって政経の子経秀と和解し、高清の北近江支配に成功した。しかし家信が没すると、その子信光が専横を極め、国人衆の反感を買う。次子高佳に家督を譲ろうとして、浅見氏ら長男高広を擁する国人衆の抵抗に遭い、1523年高清、信光は尾張へ追放された。1528年浅見氏を逐った浅井亮政を、信光と共に攻めるが、内保河原で敗れる。晩年は亮政の保護を受けた。
京極高次(きょうごく たかつぐ) 1563〜1609
○小法師丸 小兵衛 若狭守 近江守 参議
◇父:
京極高佳 室:浅井長政女 子:京極忠高、高政
 近江守護・京極氏一族。幼少より織田信長の下にて人質として過ごす。本能寺の変に際し、明智光秀に与し、羽柴秀吉の本拠長浜城を攻めた。その為、山崎の合戦後、秀吉方の追及を受けて、妹の嫁ぎ先たる若狭・武田元明を頼り逃れる。元明も秀吉に滅ばされるが、妹が秀吉の側室となったことから、その口添えで秀吉に帰参が叶った。その後、九州征伐、小田原征伐等で功を重ね、1595年には近江・大津6万石を得た。関ケ原の戦いでは、東軍の徳川方に属し、西軍に囲まれた大津城をよく守ったが、関ヶ原の合戦前日に降伏開城。これを恥じて高野山に入るが、後に大津城に西軍を引き付けた功が認められて家康に召し出され、若狭・小浜8万5千石を得た。
京極高知(きょうごく たかとも) 1572〜1622
○生双 長寿丸 修理亮 丹後守 侍従 羽柴氏
◇父:
京極高佳 室:織田信澄女、毛利秀頼女 子:京極高広、高三、田中満吉 養子:京極(朽木)主膳正高通
 近江守護・京極氏一族。兄高次と共に羽柴秀吉に仕えた。1593年舅毛利秀頼の遺領、信濃・伊奈6万石を継いで飯田城主。城下町の整備に尽力。秀吉が死ぬと、徳川家康に味方して越後・上杉氏討伐軍に加わり、美濃・岐阜城攻撃において1番乗りの功を挙げた。関ヶ原の合戦にも参戦し、大谷吉継隊と戦う。戦後、兄高次が籠もる近江・大津城の救援に向かうが、既に開城後であり、謹慎する高次の復帰に奔走した。関ヶ原の戦功により丹後12万3千余石を受け、田辺城に入り、後に宮津城を築城。大坂両陣にも参陣。熱心なキリシタンとしても知られる。
京極高広(きょうごく たかひろ) ????〜????
○六郎 高延 高秀 高峰? 武蔵守
◇父:
京極高清 子:京極高弥(高秀)
 1523年、父が弟高佳に家督を嗣がせようとして、浅見氏ら国人衆に追放されると、近江守護・京極氏第16代当主に担がれた。浅見氏が専横から、浅井亮政に逐われると、引き続き亮政の傀儡となるが、1541年浅井亮政に反旗を翻し敗れる。亮政没後の1544年、上坂定信と結んで亮政の子久政と争うが1549年和議した。その後南近江守護・六角氏とも争っている。
京極高佳(きょうごく たかよし) 1508〜1581
○高慶 高吉 高朝? 長門守 中務少輔
◇父:
京極高清 室:浅井久政女 子:京極高次高知
 近江守護・京極氏第17代当主。1523年父と共に兄高広と家督を争い、高広を擁する浅見氏ら国人衆に逐われて尾張へ逃げている。1528年浅見氏を逐った浅井亮政を、信光と共に攻めるが、内保河原で敗れる。 1538年父が没すると、六角定頼の支援により小谷に攻め込んだ。将軍義輝が死んだ時、その弟義昭の為に奔走して功があったが、後に台頭した織田信長と対立し、子高次を人質に出して、近江・上平寺城に蟄居した。
京極政経(きょうごく まさつね) ????〜1508
○六郎 政高 大膳大夫 治部少輔
◇父:京極持清 子:京極経秀(材宗)
 近江守護・京極氏一族。父、兄勝秀の遺児孫童子丸が相次いで死ぬと、自らの子経秀に家督を嗣がせようとするが、甥
高清を擁する国人衆によって追放され、その後争いを繰り返す。1473年幕府から、正式に北近江、出雲、隠岐の守護に任命されている。1475年一時的に近江を奪回するが、再び追放され、守護代尼子清定が地盤を固めていた出雲に入国。出雲に本拠を定め、寺社本所領の横領を進めていた守護代尼子経久を1482年に追放するが、1486年経久が富田城を奪回され京に逐われた。1490年再び北近江領に攻め入り高清を破るが、1499年重臣上坂家信の助勢を得た高清によって近江を奪回されている。
吉良親貞(きら ちかさだ) 1541〜1576 
○長宗我部氏 左京進 播磨守
◇父:
長宗我部国親 子:吉良如淵、親実
 土佐・長宗我部一族。安芸七雄の一つで絶えていた吉良氏の名跡を継ぐ。当主である兄元親を助けて各地を転戦、自らも槍を振るって戦場に立った。また、知略にも優れ、多くの戦いを勝利に導くが、若くして亡くなった。
吉良親実(きら ちかざね) 1563〜1588
○新十郎 左京進
◇父:
吉良親貞 室:長宗我部元親
 土佐・長宗我部一族。当主元親の嫡男信親戦死後、幼少の四男盛親擁立の動きに反対して、家老久武親直の讒言により、切腹を命ぜられた。
メイン