海北綱親(かいほう つなちか) ????〜1573 
○善右衛門尉
◇子:海北友松
 北近江・浅井氏家老“
海赤雨の三将”の一人であり、軍奉行を務めた。様々な用兵術に通じた戦上手で、木下秀吉の軍を破り、秀吉に“我が兵法の師”とまで言わしめた。浅井氏滅亡の際に討死した。
香川親和(かがわ ちかかず) ????〜1587 
○長宗我部氏 五郎次郎
◇父:
長宗我部元親 養父:香川元景(信景)
 土佐・長宗我部元親2男。元親に降った讃岐・香川信景の養子となる。長兄信親戦死後、父が溺愛する弟盛親に跡を継がせたいとしていたことから、これを気に病み、元来体の弱かったこともあり、若くして病死した。
香川光景(かがわ みつかげ) ????〜????
◇子:
香川行景
 安芸・八木城主。阿生山の大蛇を臣香川勝雄に命じて退治させたことから“大蛇退治のご領主”と呼ばれたという。安芸・武田氏から離反し、安芸・毛利氏に仕えた。
香川行景(かがわ ゆきかげ) ????〜1517
○兵庫助 ◇子:
香川光景
 安芸・八木城主。御霊大明神・鎌倉権五郎兼政の裔、経高が相模香川荘に住み香川氏を名乗り、経高の子経景が承久の乱の功で安芸・佐東郡八木に移ったのが初め。安芸・武田氏の元、毛利氏との有田合戦に参加、武田元繁戦死を聞いて、毛利勢に突っ込み討死した。
柿崎景家(かきざき かげいえ) ????〜1575 
○弥次郎 和泉守
◇子:柿崎祐家、左衛門大夫家憲(晴家)
 越後・長尾(上杉)氏臣。黒に統一された部隊を率い、果敢な突撃戦法で越後随一の猛将として名を轟かせた。が、一方で思慮に欠ける面があった様である。まさに戦国のビッテンフェルト。上杉七人衆の一人として奉行職を務める。小田原城攻撃や川中島の合戦等で活躍し、また外交の任も務めたが、越中攻めの際、
織田信長に内通した嫌疑を受けて殺されたといわれる。
蠣崎季広(かきざき すえひろ) 1507〜1595 
○卯鶴丸 彦太郎 若狭守
◇父:蠣崎民部大輔義広 室:河野季通女 子:蠣崎舜広、(明石)元広、
(松前)慶広、正広、長広、定広、包広、吉広、仲広、守広、員広、貞広
 蝦夷・蠣崎氏4代当主。領内の統治を進めつつ、先住のアイヌ民族との和解共存を図り、道南に和人地を確保する。また、安東氏の軍役に数度と応じ、一大将として働いている。安東氏と婚姻関係を結ぶ等、諸氏との連帯も図った。
蠣崎慶広(かきざき よしひろ) 1549〜1616 
○天才丸 新三郎 志摩守 若狭守 伊豆守 民部大輔 松前氏
◇父:
蠣崎季広 室:村上季儀女、斎藤実繁女 子:松前若狭守盛広、隼人正忠広、(南部)長門守利広、由広、次広、河野景広、蠣崎安広、満広
 兄二人の死後、蝦夷・蠣崎氏5代当主となる。外交手腕を発揮させて豊臣秀吉に接近し、蠣崎氏を名実共に出羽・安東氏から独立させる。朝鮮出兵の時には肥前・名護屋まで参陣して秀吉に“狄の千島の屋形、遼遠の路を凌ぎ来る”として感激させ、アイヌ民族との交易独占等の蝦夷支配の安堵を得た。秀吉死後は徳川家康に蝦夷地図や家譜を献上し、1599年松前氏(松平+前田)に改姓、初代松前藩主となる。
葛西晴清(かさい はるきよ) 1517〜1547
○伊達氏 牛猿丸
◇父:
伊達稙宗 養父:葛西左京大夫稙清(守信)
 出羽・伊達氏一族だが、陸奥・葛西氏に入嗣する。養父稙清が急死すると、反伊達の機運が高まるが、実家の威勢をもって家督を継いだと思われる。程なく伊達氏では稙宗・晴宗父子が争う“天文の大乱”が発生し、父の稙宗側へ、叔父晴胤は晴宗側へ与して領内抗争を繰り返すが、その最中に若くして没する。
梶原景宗(かじわら かげむね) ????〜????
○備前守
 相模・北条水軍の頭領。1562年安房・里見氏と三浦半島城ヶ島で戦う。1580年には大型安宅船で駿河湾に出没、陸上の甲斐・武田氏の軍に砲撃したという。小田原の陣後、当主
氏直に従って高野山に赴いた。
片桐且元(かたぎり かつもと) 1556〜1615 
○助作 直盛 直倫 且盛 東市正
◇父:片桐直貞 弟:片桐貞隆 子:片桐采女、出雲守孝利、九兵衛、為元
 北近江・浅井氏家臣。浅井氏滅亡直前にその下を去り、羽柴秀吉に仕える。賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人として武名をあげた。その後、朝鮮出征などで功をあげる。また、秀吉の検地奉行を務め、その行政能力の高さもうかがえる。秀吉の死後、豊臣秀頼の後見役として重要な地位にあり、一方で徳川家康の信任を受け摂津・茨城城主となって豊臣・徳川の折衝役となった。しかし、方広寺鐘銘事件から豊臣方の信任を失い、大坂城を出る。大坂落城後、豊臣を見捨てたと世の批判を受け、切腹したといわれる。

桂 忠詮(かつら ただのり) ????〜????
○太郎兵衛
 薩摩・島津氏家臣。朝鮮出征の途上には梅北の乱に参加する。関ヶ原の戦いにおいては、敗れた西軍についた島津軍が退却する際、大将
島津義弘を逃がすため戦った。
加藤信景(かとう のぶかげ) ????〜????
○弥五郎 伊賀守
◇子:加藤太郎左衛門弘景
 安房・里見氏臣。当主
義弘の没後、その子梅王丸の後見役を務めるが、義弘の弟義頼と家督争いが生じた際、義頼に鞍替えした為、梅王丸は敗れて幽閉された。以後、梅王丸の後の佐貫城代を務める。
加藤信邦(かとう のぶくに) ????〜????
○駿河守
◇子:加藤丹後守景忠、弥五郎(初鹿野昌次)
 鎌倉期以来の名族。甲斐・武田氏臣。当主
信玄の弓矢の師(軍師)。
加藤光泰(かとう みつやす) 1537〜1593
○作内 景教 遠江守
◇父:加藤景泰 弟:加藤光定 子:加藤貞泰
 美濃・斎藤氏滅亡後、尾張・
織田信長の臣羽柴秀吉に仕えた。近江・横山城を浅井氏に急襲された時負傷、以後びっこになったという。各地を転戦して功を重ね、美濃・大垣城主となったが、不正を働き一時知行を失う。後に復しやがて甲府24万石を領す。朝鮮出征の際、兵糧不足から諸将と不和となり、宮部長房の陣中にて仲直りの酒宴を行ったが、酒宴から帰って後血を吐き急死した為、毒殺されたともいわれる。
金上盛備(かながみ もりはる) ????〜1589
○盛満? 兵庫 遠江守
◇子:金上左衛門盛実
 磐城・蘆名氏一門筆頭。1578年越後・上杉氏の御舘の乱では、蘆名からの援軍として、
上杉景虎を援けて戦う。1581年には使者として上洛、織田信長にも謁見している。蘆名氏当主盛隆死後の継子問題では、伊達氏の小次郎を抑えて、常陸・佐竹氏より盛重を擁立することに成功した。1589年摺上原の合戦にて戦死。
金光宗高(かなみつ むねたか) ????〜1570
◇父:浦上村宗? 子:金光文右衛門
 備前・石山城主。備前守護代浦上宗景の弟といわれる。備前・宇喜多氏、備中・三村氏等その旗幟を再三変え、最後は宇喜多直家に毛利に通じた疑いを受け、切腹に追い込まれた。この後直家は石山城を乗っ取り、岡山城として改築、本拠とした。

印牧能信(かねまき よしのぶ) ????〜1573 
○弥六左衛門
 越前・朝倉氏家臣。越前・鉢伏城主。越前・刀禰坂の戦いの際、力尽きて捕虜となった。
織田信長がその名を惜しんで許そうとしたが、これを拒んでその面前で自害する。
狩野泰光(かのう やすみつ) ????〜1590
○宗円 大膳亮 飛騨守
◇子:狩野主繕照宗
 相模・北条氏の評定衆。小田原征伐の際、八王子城を守り戦死。

亀井茲矩(かめい これのり) 1557〜1612 
○湯氏 新十郎 武蔵守
◇父:湯三郎左衛門尉永綱 室:
山中幸盛養女(亀井秀綱女) 子:亀井豊前守政矩
 実家湯氏は佐々木源氏流の出雲豪族。やがて亀井氏を継ぐ。織田信長の支援を受け出雲・尼子氏再興を図る山中幸盛の下、安芸・毛利氏と戦う。その後は羽柴秀吉に仕え、鳥取城攻め等に活躍する。秀吉に琉球征伐を願って気宇壮大なところを見せ、琉球守の判形と出兵の許可は出たが、実行されることはなかった。関ヶ原の戦いでは東軍に属して、3万8千石の大名となる。
亀井秀綱(かめい ひでつな) ????〜1566
○能登守
◇父:亀井安綱 弟:亀井利綱 養子:
亀井(湯)茲矩
 出雲・尼子氏重臣、寺社奉行。当主経久に従い上洛した際には、山城・船岡山にて摂津・三好氏と戦う。その後も各地を転戦活躍するが、安芸・毛利氏臣杉原盛重に因幡・竹内で殺された。
川上久朗(かわかみ ひさあき) 1536〜1568 
○源三郎 左近将監
◇父:川上忠克 子:川上久辰
 薩摩・島津氏重臣で島津四勇将の一人。兄忠頼死後当主となる。18歳にして当主
義久から守護代に任ぜられようとした程の才幹の士。太刀、長刀、鎌槍を自由自在に使いこなした剛将であったという。堂ヶ崎の合戦において、多勢に無勢で大隅・菱刈氏らの軍に向かおうとする島津忠平(義弘)を諫めるが聞き入れられなかった。結果島津軍は敗走し、久朗は重傷を負い亡くなった。
川崎祐為(かわさき すけため) ????〜???? 
○祐長?
 日向・伊東氏臣。伊東氏没落後も、流浪する当主
義祐を見捨てず豊後、伊予へ従った。
革嶋一宣(かわしま かずのり) ????〜????
○越前守
◇父:革嶋就宣 子:革嶋秀存、正宣、忠宣
 清和源氏佐竹昌義流。山城・革島庄を本領とする国人。1565年
三好三人衆石成友通のため、山城から丹波に逐われ、本領を三好氏臣鶏冠井氏に奪われるが、織田信長入京に与して、本領を奪回、安堵された。以後、山城・勝竜寺城主・細川藤孝に従うが、藤孝の丹波入封には同行せず、明智光秀に臣従したため本能寺の変後は没落した。
河田長親(かわだ ながちか) 1545?〜1581 
○豊前守
◇父:河田元親 室:北条安芸守輔広女 弟:河田九郎左衛門基親 子:河田岩鶴丸、下条駿河守忠親 養子:河田(折下)八左衛門貞親、源七郎
 近江・守山の出。1559年越後・長尾景虎(上杉謙信)が上洛した際、これに従う。温厚な性格で智略に優れ、功を重ねて信任を得た。謙信死後
織田信長に内応を誘われるが、これを拒否する。越中・松倉城を守って織田軍の猛攻を支えるが、病死した。
蒲生氏郷(がもう うじさと) 1556〜1595 
○鶴千代 忠三郎 賦秀 教秀 レオン 飛騨守 左近衛権少将
◇父:
蒲生賢秀 室:織田信長女 子:蒲生飛騨守秀行
 父は南近江・六角氏臣。六角滅亡後、織田信長に認められその娘を娶せられる。信長の死後は羽柴秀吉に従い多くの武功をたてた。1590年会津42万石の領主となるが、これは秀吉がその大器を怖れて、僻地奥州に敬遠したからといわれる。朝鮮出征の為西下中、大坂城にて吐血し40歳の若さで亡くなるが、秀吉が毒殺したともいわれる。利休七哲の一人で、切支丹でもあった。
蒲生賢秀(がもう かたひで) 1534〜1584 
○左兵衛大夫
◇父:蒲生定秀 室:
後藤賢豊女、三条(鯰江)為定女 弟:青地茂綱、小倉豊前守実隆 子:蒲生氏信、氏春、氏郷、重郷、貞秀
 南近江・六角氏臣。近江・日野城主。尾張・織田信長の六角氏侵攻に対し、これに降った。本能寺の変の際、賢秀は明智光秀より厚遇をもって勧誘されたが、これに応ぜず、日野城に籠もった。この時、賢秀は安土城の留守に任じられていたが、安土城の女子供を避難させる際、財宝を移して城に火をつけて去るべきだという意見が出たが、信長が心血注いで建てた城を焼くのは忍びないとして、そのままで立ち去った。
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