前田利家(まえだ としいえ) ????〜1599 
○犬千代 孫四郎 又左衛門 大納言
◇父:前田縫殿助利昌 兄:前田蔵人利久、利玄、安勝 弟:佐脇藤八郎良之、前田右近秀継 室:篠原主計女・まつ 子:前田孫四郎利勝(利長)、利政、猿千代利常
 尾張・
織田信長臣。若くして槍をよく使い、"槍の又左"と怖れられ活躍した。また、かぶき者でもあった。信長の寵愛厚く、4男ながら、家督を継いだ。越前・朝倉氏滅亡後は、北陸方面を柴田勝家の下転戦、やがて、能登に所領を得た。信長死後は、柴田麾下にて、同僚にて仲の良かった羽柴秀吉と賤ヶ岳の合戦を戦う。この敗戦後は、秀吉政権の為尽力。秀吉も、利家を深く信頼した。秀吉は利家に後事を託して1598年没するが、利家も病がちで、やがて亡くなった。
前田長種(まえだ ながたね) 1550〜1631
○甚七郎 対馬守
◇父:前田与十郎種定 室:
前田利家
 尾張・織田信長臣。小牧長久手の戦いで羽柴方につき尾張・蟹江城を守るが、徳川・信雄軍に敗れ父は戦死、長種は利家を頼った。やがて加賀前田藩の下越中・守山城を守り、幼少の3代藩主利常を扶育した。
前波吉継(まえなみ よしつぐ) ????〜1574
○九郎兵衛 桂田長俊 播磨守
◇父:前波景定 兄:前波藤右衛門景当
 越前・朝倉氏重臣。姉川の合戦にも参加するが、その後朝倉を見限り、尾張・織田氏に投降した。朝倉家滅亡後は、
織田信長より越前守護代に任じられ、名も桂田長俊と改めた。しかし、守護代となってからは専横な振る舞いが目立ち、これに不満を持った一向宗徒や同じ朝倉からの寝返り組の富田長繁らに攻められ敗死し、国を奪われた。
真壁氏幹(まかべ うじもと) 1550〜1622 
○右衛門大夫 安芸守
◇父:真壁久幹 養子:真壁房幹
 常陸・真壁城主。武勇に優れて、"鬼真壁"として怖れられた。常陸・佐竹氏に従い、太田資正、梶原政景と共に、常陸・小田氏治を小田城より追放。相模・北条氏と度々争っている。文禄の役にも従軍。

真柄直隆(まがら なおたか) ????〜1570 
○十郎左衛門 直元?
◇弟:真柄直澄 子:真柄直基?隆基?
 越前・朝倉家中屈指の剛将。近江・姉川の戦いにおいて崩れたつ朝倉軍を支え、太郎太刀を振るって奮戦するが、老齢であることもあってやがて討ち取られた。

正木時勝(まさき ときかつ) ????〜1564
○掃部助
◇父:
正木時忠 子:正木左一衛門頼定、甚右衛門
 安房・里見氏臣。第2次国府台合戦において討死。
正木時茂(まさき ときしげ) 1515?〜1573? 
○久太郎 弥九郎 大膳亮
◇父:
正木通綱 子:正木大太郎、信茂道俊 養子:正木憲時
 相模・三浦氏裔。安房・里見氏の内訌(稲村の変)にて、父と兄を失い家督相続。里見義堯義弘に従い転戦、槍をよく使い“槍大膳”と呼ばれた。弟時忠と共に東上総に侵攻、1542年勝浦城攻略して弟が入り、1544年には上総・小田喜城主真里谷朝信を攻略、ここを居城とする。兄弟共に上総攻略の拠点として活躍した。1564年の国府台の敗戦においては、囲む敵兵21人を斬り倒して戦い抜いた。1565年矢作城主伊能景信を激戦の末攻略。1567年三船山の合戦では奇襲で勝利に貢献した。弟と比較して、陸戦での武功が多かった。1561年すでに死没とも。
正木時茂(まさき ときしげ) 1576〜1632
○里見氏 弥九郎 時堯? 大膳亮
◇父:
里見義頼 養子:正木采女正忠堯、伝左衛門時俊、甚十郎時次
 安房・里見氏一族。正木憲時滅亡後、上総・小田喜城に入り跡を継いだといわれる。1614年里見氏は改易され、伯耆・倉吉へ配流された当主忠義に従い放浪の末、鳥取藩に仕官した。
正木時忠(まさき ときただ) 1520?〜1576 
○八郎 左近大夫
◇父:
正木通綱 子:正木時通、平六郎時成、時勝、兵庫時秀、頼忠、玄蕃時富 養子:正木憲時?
 安房・里見氏臣。稲村の変時、両兄の不在に、里見義豊臣糟谷石見守の攻撃を受けるが、わずか13歳にて正木能登守らと防戦、石見守を討ち取ったとか。ホンマかいな。兄時忠と共に各地を転戦。勝浦を中心とする海賊衆を掌握して、有力な水軍の将となった。1556年里見水軍を指揮して、三浦三崎にて相模・北条水軍と戦う。1564年第2次国府台敗戦後、子頼忠を人質として北条氏配下に入る。後に再び里見氏に帰順。
正木時通(まさき ときみち) ????〜1575 
○十太郎 正康? 左近将監
◇父:
正木時忠 養子:正木頼忠
 安房・里見氏臣。第2次国府台合戦に参陣するが敗戦。戦後父が相模・北条氏に降るとこれに従い、上総の里見領に侵攻した。その後再び里見氏に仕え、上総・勝浦城に拠る。武勇に秀でていたという。
正木信茂(まさき のりとき) ????〜1564
○平七 源三郎 太田氏?
◇父:
正木時茂
 安房・里見氏臣。父より家督を受け上総・小田喜城主となり、下総方面に勢力拡大を図る。第2次国府台合戦において討死。
正木憲時(まさき のりとき) ????〜1581
○房王丸 弥九郎 大膳亮
◇父:
正木弘季 養父:正木時茂
 安房・里見氏臣。1567年相模・北条氏との三船山合戦において、勝利に貢献する。養父時茂の死後、上総・大多喜城主となった。1578年当主里見義弘没後、その弟義頼が義弘の遺児義重を出家させて当主に就く。これに憤慨した憲時は、1580年挙兵(正木憲時の乱)。義頼勢と戦うが敗れ、翌年家臣に刺殺されて落城。跡を義頼次子時茂が継ぐ。
正木弘季(まさき ひろすえ) ????〜1564
○弾正左衛門
◇父:
正木通綱 子:正木憲時
 安房・里見氏臣。安房・金山城主。1564年第2次国府台合戦において討死。
正木通綱(まさき みちつな) ????〜1533
○三浦氏 時綱? 大膳亮 大膳大夫
◇父:三浦時高 養父:正木義時? 室:里見民部少輔義実女 子:正木弥次郎?弥五郎?、
時茂時忠弘季
 1494年幼少にて父を失い、安房・安西氏を頼って逃れる。在地の土豪正木氏を嗣ぎ、さらに安房有力豪族・里見義通と血縁を結ぶ。義通死後も、その弟実堯の下1518年神余氏等の内乱鎮圧、1526年三浦侵攻等で戦功を挙げ、勢力を拡大した。しかし、義通の遺児義豊が反乱を起こし、当主実堯と共に、稲村城で誘殺された(稲村の変)。
正木道俊(まさき みちとし) ????〜1611
○岩見守
◇父:
正木時茂 室:里見義弘女 子:正木岩見守頼房?
 安房・里見氏臣。1580年義兄憲時が乱を起こすと、これに従い金山城を守るが、勝浦城主正木頼忠により興津城に逐われた。憲時が殺害されると、降伏して再び里見氏に帰属し、後に知行530石を得る。
正木頼忠(まさき よりただ) 1551〜1622
○権五郎 時長 邦時 環斎 左近大夫
◇父:
正木時忠 養父:正木時通 室:北条氏隆女、里見義堯女 子:正木左近将監直連、三浦長門守為春、糟屋軍次郎、正木左馬允康長、左京亮時明、三浦勘助定利、真鍋定時 養子:正木金太郎義俊
 安房・里見氏臣。父が相模・北条氏についたときには、その人質として赴いている。父死後、安房・勝浦城を継ぐが、徳川氏の関東入国後、同地を去る。娘・万が家康の側室となって、紀伊家頼宣、水戸家頼房を生んだ縁から、子為春が紀州家家老となり、頼忠もその下で後生を送った。
町井貞信(まちい さだのぶ) 1514〜1581
○左馬允 貞之
○父:町井貞国 子:町井貞直
 清和源氏新田氏流。室町幕府より伊賀木興荘の地頭職に任ぜられる。現在の三重県上野市一帯の木興城を本拠とする。1571年
織田信長の支援を受けた仁木義視を守護として迎え入れるも、その後追放。第1次天正伊賀の乱に際しては副大将・軍師を務め、織田信雄を敗走させる。1581年、第2次天正伊賀の乱に際しては自城である木興城で篭城。信長の大軍を迎え撃つが、衆寡敵せず、一族郎党37名と共に討死する。(町井@神奈川県 殿情報)
松下之綱(まつした ゆきつな) ????〜????
○加兵衛 嘉兵衛 左助 兵部 石見守
◇父:松下長則 子:松下石見守重綱
 近江源氏佐々木氏流といわれる。駿河・今川氏臣の飯尾氏臣にて遠江・頭陀寺城主。若年の羽柴秀吉が一時期仕えていた。今川氏没落後、三河・徳川氏に仕えたが、1583年旧縁から秀吉に迎えられて丹波、河内に2千石を得、やがて遠江・久野城1万6千石を領す。

松田憲秀(まつだ のりひで) ????〜1590
○尾張守
◇父:松田顕秀?康光? 弟:松田筑前守康定?康郷? 子:笠原新六郎政堯、松田左馬介直憲
 相模・大庭氏の流れ。相模・北条氏譜代の重臣。豊臣秀吉の小田原征伐の際、籠城策を主張した。しかし籠城中、秀吉方堀秀政の誘引を受けて、嫡男政堯らと共に寝返ろうとしたが、2男直憲がこれを密告、未然に発覚し捕らえられる。重臣筆頭の内応発覚は城内に少なからず動揺を与え、これが落城を早めたといわれる。小田原開城の時、秀吉の命で切腹させられた。

松波義親(まつなみ よしちか) ????〜1577 
○畠山氏 常陸介
◇父:
畠山義綱 弟:松波丹波守義行 子:長与六左衛門連親、松波義重(義直)
 奥能登の国人松波畠山氏の5代当主義龍早世の為その跡を継ぐ。能登・畠山氏に従う。1577年越後・上杉氏の能登侵攻時、七尾城の救援に向かい、防戦。落城後は松波城に逃れたが、再挙を図る暇なく、上杉氏臣長沢光国の軍に包囲される。寡兵にて戦うも敗北、自害した。51歳。人徳あって文武に優れた将であったようだ。
松前由広(まつまえ よしひろ) 1594〜1614
○綱丸 数馬介 種広
◇父:
蠣崎慶広 養父、兄:松前盛広
 蝦夷・蠣崎慶広4男。一時長兄盛広の養子となるが、結局家督は実子公広が継ぐ。大坂冬の陣で豊臣方に内通した嫌疑を受け、工藤祐種に殺された。
真里谷信政(まりやつ のぶまさ) ????〜1552
○武田氏 三河守
◇父:真里谷丹波守信隆
 真里谷氏は房総武田氏流。父信隆は庶長子であったため、叔父信応(嫡次子)と争う。しかし、小弓公方、安房・里見氏を味方に得た信応に逐われ、信政は父と共に相模・北条氏を頼った。1538年第1次国府台合戦後、北条氏の力で上総・椎津城に戻る。その後、両勢力間において去就を明らかにしなかったが、1552年北条氏に通じたところ、これを知った里見氏に攻められ、北条氏の援軍を得て迎え撃つが、大敗して自刃。
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