二条城二の丸御殿

所在地 京都市中京区二条通堀川西入二条城町 種別 住宅
構造形式 二の丸御殿遠侍及び車寄
遠待: 桁行八間、梁間八間、一重、入母屋造、本瓦葺
車寄: 桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺
時代区分 江戸前期 年代 慶長7〜8年及び寛永2〜3年
構造形式 二の丸御殿式台
桁行正面三間、背面五間、梁間右側面四間、左側面六間、一重、入母屋造、本瓦葺
時代区分 江戸前期 年代 慶長7〜8年及び寛永2〜3
構造形式 二の丸御殿大広間
桁行右側面八間、左側面七間、梁間正面七間、背面五間、一重、入母屋造、本瓦葺
時代区分 江戸前期 年代 慶長7〜8年及び寛永2〜3
構造形式 二の丸御殿蘇鉄之間
桁行右側面八間、左側面九間、梁間正面一間、背面三間、一重、入母屋造、本瓦葺
時代区分 江戸前期 年代 慶長7〜8年及び寛永2〜3年
構造形式 二の丸御殿黒書院(小広間)
桁行正面七間、背面八間、梁間右側面六間、左側面八間、一重、入母屋造、本瓦葺
時代区分 江戸前期 年代 慶長7〜8年及び寛永2〜3年
構造形式 二の丸御殿白書院(御座の間)
桁行六間、梁間六間、一重、入母屋造、本瓦葺
時代区分 江戸前期 年代 慶長7〜8年及び寛永2〜3
指定年月日 1952.03.29 所有者 京都市
二条城については、日本の城の項を参照。
近世の城郭において、天守は軍事的機能の象徴であり、居館・政庁としての機能は御殿がになっていた。このような御殿は、明治維新以後殆ど失われている。二条城二の丸御殿は、江戸中期の火災などで完全な形ではないが、貴重な遺構である。
二の丸御殿は、車寄・遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の六棟が斜めに連なって形成されている。


右手前車寄、中央遠侍、左大広間

屋根は各棟ともに入母屋造であり、車寄が檜皮葺である以外、本瓦葺である。
車寄の彫刻 車寄の蟇股
遠侍の入母屋破風

入母屋の妻飾狐格子
懸魚三つ花懸魚。彫刻で装飾された大きな鰭が付く。


遠侍 左式台 遠侍 中央式台 左大広間


黒書院 右大広間

車寄から大広間までが公的空間で、蘇鉄の間から白書院にかけては将軍の私的空間となっている。
遠侍は登城した大名の控え室。式台は大名が老中と挨拶を交わした所。将軍への献上品もここで取り次がれた。
大広間の三の間は外様大名の控えの間。大広間の一の間で慶喜による大政奉還の発表がなされた。
黒書院は奥御殿であり、将軍と親藩大名との対面所。白書院は将軍の居間と寝室。

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