興福寺五重塔

所在地 奈良市登大路町 種別 寺院(法相宗)
構造形式 三間五重塔婆、本瓦葺
時代区分 室町中期 年代 応永33年(1426)
指定年月日 1952.03.29 所有者 興福寺
興福寺は、藤原氏の氏寺であり、南都七大寺に数えられる。法相宗の大本山。
起源は、藤原鎌足の妻、鏡の女王が夫の病平癒を祈願し、山城国山階に創建した山階寺とされる。後に、天武天皇のとき、藤原京に移され、厩坂寺と称する。そして、和銅3年(710)の平城京遷都に際し、鎌足の次子・藤原不比等により、左京三条七坊に移され、寺号を興福寺とする。
奈良・平安時代を通じて、氏社・春日大社とともに、藤原氏隆盛の象徴として、興福寺は栄え、東大寺などの官寺に負けない規模と壮麗さを誇る。しかし、平安末期、治承4年(1180)の平重衡による南都焼き討ちの際に、伽藍の殆どを焼失する。鎌倉期に再興されたものの、江戸時代の享保2年(1717)の大火で、中心堂宇を再び失う。さらに、明治維新の廃仏毀釈によって荒廃し、仏像など多くの寺宝を失う。
明治30年(1897)の古社寺保存法の制定以後、序々に再興され、日本有数の仏教文化財を有する大寺として今に至る。
五重塔は、藤原不比等の娘、光明皇后の発願により、天平2年(730)に創建された。創建当時の総高は約45mで、当時最も高い塔であったという。その後、5回の焼失と再建を繰り返す。
現在の五重塔は、室町時代の応永33年(1426)に再建されたものである。


総高50.8mであり、現存の塔では東寺の五重塔に次ぐ規模を有する。

室町時代の再建であるが、純和様の建築形式を保ち、創建当時の姿をよく伝えているとされる。

当初は、初重内部の四方の仏壇には、東方に薬師如来、南方に釈迦如来、西方に阿弥陀如来、北方に弥勒如来の各浄土が描いた図像が安置されていたといわれるが、現在は、各如来の三尊像が置かれているという。

明治維新の廃仏毀釈の折、売りに出されたが、解体費用のほうが高くつくということで買い手がつかず、かろうじて取り壊しを免れたという有名な話が残っている。


一層目の軒下の構造

組物三手先組中備間斗束であり、和様である。
一層目の軒先

屋根先に鬼瓦とその上の鳥衾瓦が突出し、軒先の下には風鐸が下がる。

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