山中城

 所 在 地   静岡県三島市山中新田  別 名 
 遺 構   堀、土塁、曲輪  形 式   山城(580m)
 築 城 者   北条氏康  築 城 年   永禄年間(1558-1570)
 歴 史  山中城は、小田原を本城とする後北条氏の西方防御の最重要拠点として、北条氏康により、永禄年間(1558-1570)に築かれたとされる。
天正17年(1589)、豊臣秀吉の小田原攻めに備えて、岱崎(だいさき)出丸や西ノ丸を増築するなど、大幅に改修されるが、未完成のまま、天正18年(1590)3月に豊臣軍の攻撃を受ける。松田康長を城将として4千人の兵で守ったが、豊臣秀次の7万人の大軍により、半日で落城する。
以後、城は廃されたとされる。
歴 代 城 主 後北条氏


西ノ丸と西櫓の間の障子堀

山中城で注目されるのは、なんといっても障子堀畝堀

障子堀は、空堀の底に畝を障子桟状に設け、堀を越えようとする敵兵の動きを制限するようにしたもの。
障子堀は後北条氏の城に特徴的なものとされる。
岱崎出丸の北西面の畝堀

堀を横切る畝が等間隔で設けられている。空堀に沿って敵兵が移動することを防ぎ、防御性を高めている。


岱崎(だいさき)出丸

6000坪以上もある巨大な出丸である。
豊臣軍の来襲に備えて築造されたが、未完成のまま戦闘に突入した。副将・間宮健俊が守り、壮烈な戦死を遂げる。
            三ノ丸堀
三ノ丸の西側を横切るように設けられている巨大な空堀。
             本丸
本丸の北東隅には天守台がある。天守台といっても井楼や櫓程度の物見が建っていたのだろう。案内してくれた同行のH氏。
西ノ丸の北側の障子堀

西ノ丸は、豊臣軍の来襲に備えて築造された曲輪である。周囲を障子堀や畝堀で囲み、また西櫓を馬出のように付設しており、西方の防衛の拠点となる曲輪である。


城域は、本丸、二ノ丸、三ノ丸、北ノ丸、西ノ丸などからなる本城と、東海道(国道一号線)を挟んで設けられた岱崎出丸とからなる。
昭和48年から発掘調査され、各曲輪の配置や架け橋、障子堀、畝堀などの様子が明らかになった。これらは復元され、公園として整備されている。国指定史跡。


現地案内図
右側が本城であり、上から西ノ丸、二ノ丸(北条丸)、本丸と連なり、本丸の右(北)に北の丸、左(南)に弾薬庫や兵糧庫があり、さらに三ノ丸へと連なる。
また国道一号線を隔てて、左側が岱崎出丸であり、北東に御馬場曲輪、南西にすり鉢曲輪を付設する。


<アクセス>
国道一号線の三島塚原IC信号から箱根方面へ8km、国道沿いに山中城跡がある。国道一号線の北側が本城、南側が岱崎出丸である。国道に面して無料駐車場がある。(2008.07.12)

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