駿府城

 所 在 地   静岡県静岡市駿府公園  別 名   静岡城 霧隠城
 遺 構   堀、石垣、再建櫓門  形 式   平城
 築 城 者   徳川家康  築 城 年   天正17年(1589)
 歴 史  駿府(駿河府中)は、駿河守護・今川氏の居館のあったところ。桶狭間の合戦のあと、今川氏は没落し、永禄11年(1568)に、武田信玄は今川氏真を駿府から追って、領地とした。次いで、天正10年(1582)に武田氏が滅ぶと、駿河は徳川家康のものとなる。
徳川家康は、天正13年(1591)より駿府城を新たな居城として築城を開始し、天正17年(1589)に完成させる。が、その翌年に徳川家康は関東移封となり、駿府城には中村一氏などが入城する。
慶長6年(1601)、内藤信成が伊豆韮山より入封する。慶長11年(1606)、内藤信成は近江長浜に移封になる。
慶長12年(1607)に徳川家康が、大御所の隠居城として駿府城に入城し、天下普請で大増築する。
慶長14年(1609)、家康の十男、徳川頼宣が、常陸水戸より、50万石で入封する。元和5年(1619)、徳川頼宣は紀伊和歌山へ転封する。
寛永2年(1625)、徳川秀忠の三男、徳川忠長が、甲斐府中より、50万石で入封する。寛永9年(1632)、徳川忠長は乱行により改易される。以後、幕府の番城として、城代が在城する。
寛永12年(1635)に大火により、天守以下大半の建物を焼失する。以後天守は再建されなかった。
明治元年(1689)、徳川幕府瓦解により、徳川宗家を相続した徳川家達が70万石で入封し、駿河府中藩をを立藩する。明治2年(1869)、駿河府中藩を、静岡藩に改名する。「府中」が「不忠」に通じるからとの由。
歴 代 城 主 徳川氏、中村氏、内藤氏(4万石)、徳川氏、



三の丸の石垣と二の丸堀
三の丸の石垣

大御所の城だけあって、石垣の多くが見事な切込ハギである。
二の丸の石垣と二の丸堀 発掘された本丸堀


大手門跡の枡形内      二の丸の巽櫓(手前)と東御門(奥)
巽櫓は平成元年に復元、東御門は平成8年に復元。東御門は高麗門と渡櫓門及び高麗門からなる枡形虎口となっている。


駿府城は、徳川家康が秀忠に将軍職を譲ったあとの隠居城として拡張整備された。城域は、720m四方の三の丸を外郭とする壮大なものであり、本丸には五重七階の壮麗な天守があげられていた。最初の天守は慶長12年(1607)に完成したが、直後に失火により焼失した。翌年に再建された天守は、寛永12年(1635)の大火により焼失し、以後再建はされなかった。
現在、二の丸の石垣と堀がほぼ完存し、三の丸の石垣と掘りも一部残っている。また本丸石垣と堀も一部が発掘されている。


現地案内板の地図

駿府城は典型的な平城であり、防衛力を高めるため、方形の本丸を、同じく方形の二の丸、三の丸で囲む典型的な輪郭式の縄張りとし、また各堀の塁線を屈曲して横矢掛りを設けている。

本丸の北西隅に天守台があったが、完全に撤去されて残っていない。


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