山口城
所 在 地 | 山口県山口市滝町 | 別 名 | 山口屋形 |
遺 構 | 門、堀、石垣、土塁 | 形 式 | 平城 |
築 城 者 | 毛利敬親 | 築 城 年 | 元治元年(1864) |
歴 史 | 幕末の文久3年(1864)、長州藩は藩庁を萩から山口に移す。攘夷に際して海に面した萩は防衛の上で問題があり、また萩は防長の中心から片寄り過ぎている等が理由とされているが、幕府に対して申請もせず、許可も受けていない。 翌、元治元年(1864)、鴻ノ峰の南東麓に堀を廻らして藩庁を造った。これが山口城であり、簡素なため山口屋形ともいった。 元治元年10月の第一次長州戦争後、完成したばかりの山口城の一部を破却して、萩に藩庁を戻す。 慶応元年(1865)、再度藩庁を山口に移し、明治維新に至るまで、山口城が防長2国の政治・軍事の中心になる。 |
歴 代 城 主 | 毛利氏 |
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山口城の建築遺構として唯一の正門 |
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正門の形式は薬医門 |
毛利氏は関ヶ原の敗戦後、長門・周防の2カ国に減封された際、城の築城地として、防府の桑山、防長の中心地で大内氏の本拠であった山口の鴻ノ峰、山陰の寒村の萩の三つを挙げたが、最も望まない萩を幕府から指定されたといういきさつがある。幕府の威光が地に落ちた幕末に、強引に望みの地に本拠を移したわけである。 山口城の遺構は、山口県庁内に正門が残されている。その他、石垣や堀の一部も残っている。また背後の鴻ノ峰には、大内氏時代から江戸時代初期の石垣が残っており、詰の城を想定していたものと思われる。 |