大内氏館

 所 在 地   山口県山口市大殿大路  別 名    ―
 遺 構   土塁、再建門  形 式   屋形
 築 城 者   大内広世  築 城 年   正平15年(1360)頃
 歴  史  大内氏館は、大内氏24代当主の大内弘世が、山口に本拠を定めて移る際に、正平15年(1360)頃に居館として築かれたといわれる。
大内氏の繁栄と共に、戦乱が続く京から文化人が集まり、山口は西の京といわれるほどに貴族文化が盛んであった。
しかし天文20年(1551)、重臣の陶隆房の叛乱により、大内氏当主の大内義隆は自害し、大内氏は31代で実質的に滅びる。陶隆房(晴賢と改名)は大友晴英を擁立し、大内義長と改名させて大内氏の当主を継がせ、大内義長が大内氏館の主となる。
弘治元年(1555)、陶晴賢は厳島合戦で毛利元就に敗れて自害する。そして、毛利元就の大内氏領への侵攻によって、弘治3年(1557)、大内義長は山口を放棄して逃亡するが、自害して果てる。これにより、大内氏館も役目を終える。
同年、大内義隆の菩提を弔うため、毛利隆元により、館跡に龍福寺が建立された。
歴 代 城 主 大内氏歴代


              復元された西門
館の西辺で門跡が見つかり、復元された。規模が小さいので、正門ではなく、館内を仕切る内門みられている。


館の南側に復元された摸擬の堀と土塁。西側の土塁に沿って、石組みの排水溝が発掘されている。 館内の南東部の池泉庭園の発掘跡


館は100間四方の堀と土塁に囲まれた規模といわれ、一定の防御力を有する城館である。 館内の南東部に池泉庭園が、北西部に枯山水庭園があった。館跡は龍福寺の境内などとなっている。


館跡の横に駐車場がある。龍福寺は境内自由であり、いずれも無料。

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