千早城

 所 在 地   大阪府高南河内郡千早赤阪村千早  別 名    ―
 遺 構   曲輪  形 式   山城(標高660m)
 築 城 者   楠木正成  築 城 年   元弘2年(1332)
 歴  史  千早城は、上赤阪城の詰の城として、楠木正成によって築城された。
元弘元年(1331)、後醍醐天皇の挙兵に呼応して、楠木正成は下赤阪城で鎌倉幕府軍を迎え撃つが、金剛山に退去して潜伏した。
翌、元弘2年(1332)、楠木正成は再挙し、下赤阪城を奪還するが、再度落城した。楠木正成は上赤阪城、さらに千早城に籠って幕府軍と戦った。「太平記」によれば、千早城に籠った千人の兵で、百万の幕府軍の攻撃に百日間持ちこたえたという。藁人形で大軍を装う奇策などで、大軍を翻弄したという逸話は「太平記」に詳しい。幕府の大軍が千早城に釘付けになっている間に、新田義貞によって鎌倉が陥され、鎌倉幕府は滅亡した。
千早城は、南北朝時代にも、南朝方の楠木氏の城であったが、明徳3年(元中9年:1392)、畠山基国に攻められ、落城したる。
歴 代 城 主 楠木氏


五百数十段の石段を登ると、売店のある広場にたどり着く。ここが四の丸の曲輪の跡。 四の丸から奥へ進むと、社務所のある平坦地に出る。ここが三の丸の曲輪の跡。


三の丸の曲輪跡に建てられた石碑 三の丸からさらに階段を奥に進むと、神社本殿が鎮座する平坦地に到着する。ここが二の丸であり、本丸は、この社殿のさらに裏手にある。


本丸から四の丸へと尾根伝いに曲輪が連なる連郭式の縄張りであり、南側の妙見谷、北側の風呂谷に挟まれ、天然の要害となっている。本丸は標高660mであり、登城口となっている府道からの比高は150mである。
城域は現在、千早神社の境内となっており、城址の遺構は殆ど残っていない。千早城は日本城郭協会選定の日本100名城に選ばれているが、城郭らしい遺構が残っていない現場を見ると、選定理由が全くもって不明。


現地案内板の地図
府道の神社入り口が大手口であり、ここから、長い急な階段が延々と続く。20分ほどかけて階段を登りつめると、ようやく広場に出る。この広場が四の丸の跡であり、ここから奥へ10分ほどで、神社本殿が建てられている二の丸に着く。
本丸は、社殿の裏手の山中にある。
大手口からの急な長い階段は、後世のものであり、当時は急勾配の山道が四の丸まで続いていたと思われる。両側が峻険な谷であるので、幕府軍はこの細い道から攻め上がるしかない。いかに大軍で攻めても、総攻撃をすることは難しいであろから、少人数で守りきることができたことが、実感として理解できる。


<アクセス>
金剛山ロープウェイへ向かう府道に「金剛山登山口」のバス停がある。このバス停のすぐ前が千早神社の入り口である。ここが千早城の大手口になる。車の場合、バス停付近にいくつかある有料駐車場を利用することになる。(2008.10.04)

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