下赤阪城

 所在地  大阪府高南河内郡千早赤阪村森屋  別 名  赤阪城
 遺 構  なし  形 式  山城(標高186m)
 築城者  楠木正成  築城年  元弘元年(1331)
 歴 史  下赤阪城は、楠木正成によって築城された。
元弘元年(1331)に後醍醐天皇が挙兵すると、楠木正成はこれに呼応し、下赤阪城で鎌倉幕府軍を迎え撃つ。寡兵で大軍を翻弄した合戦の様子は「太平記」で広く知られるところである。しかし、にわか造りの城は大軍に耐え切れず、楠木正成は金剛山に退去して潜伏する。
翌、元弘2年(1332)、護良親王とともに楠木正成は再挙し、下赤阪城を奪還する。しかし幕府の大軍に下赤阪城は再度落城する。楠木正成は上赤阪城、さらに千早城に拠って幕府軍と戦い、この間に鎌倉幕府は滅亡する。
下赤阪城は、南北朝時代にも、南朝方の城であったが、正平15年(延文5年:1360)、細川氏清に攻められ、落城する。
歴代城主 楠木氏


「史蹟 赤阪城址」の石碑

城址であることを偲ばせるのはこの石碑のみである。


下赤阪城は、標高186m、比高61mの山城である。しかし、城域は棚田などとなっており、山城をイメージするのは難しい。城の遺構は残っておらず、場所自体も異論がある。
千早赤阪村役場の上手付近が主郭であったといわれ、また千早赤阪中学校の裏手に石碑が立っている。


城址の石碑のある高台の裏手に、棚田が広がる。
下赤阪の棚田は、日本の棚田百選に選ばれている由であり、この棚田を見るためにも、城址の石碑を尋ねてみる価値がある。


石碑は千早赤阪中学校の裏手にある。千早赤阪中学校のバス停に数台の車を置くことができるスペースがある。この駐車スペースから右手に棚田を見ながら坂を上ると、中学校の敷地に入る。校舎の間の通路(村道らしいので通行するのに遠慮は不要)を通り抜けると、石碑のある高台に出る。(2008.10.04)

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