上赤阪城

 所 在 地   大阪府高南河内郡千早赤阪村桐山  別 名   楠木本城 小根田城 桐山城
 遺 構   曲輪、竪堀、土橋  形 式   山城(標高350m)
 築 城 者   楠木正成  築 城 年   元弘年間(1332頃)
 歴  史  上赤阪城は、楠木正成の本城であり、楠木本城ともいわれる。
元弘元年(1331)の後醍醐天皇の挙兵に楠木正成は呼応し、下赤阪城で鎌倉幕府軍を迎え撃つが、金剛山に退去して潜伏する。
そして翌、元弘2年(1332)、護良親王とともに楠木正成は再挙して挙兵する。
上赤阪城には平野将監と弟の楠木正季が立て籠もり、圧倒的な幕府軍と戦うが、元弘3年(1333)、水路を絶たれて陥落する。楠木正成は、千早城に拠って幕府軍とさらに戦う。
上赤阪城は、南北朝時代にも、南朝方の城であったが、正平15年(延文5年:1360)、細川氏清に攻められ、落城する。
歴 代 城 主 楠木氏


         三の木戸跡
木戸は城門のことであり、本丸までの道を城阪と称し、四つの木戸があったとされる。
    「そろばん橋」と呼ばれる土橋。
この土橋の両側に複数本の竪堀がある。四の木戸があり、曲輪群への最後の関門でもある。


       二の丸(ニの曲輪)
二の丸は東の城ともいわれ、南側の下に、削平された曲輪がみえる。
     本丸(一の曲輪)の石碑
この地点より、富田林などの河内平野を見渡たすことができる。


上赤阪城は、下赤阪城の他、猫路城、国見山城、枡形城、川野辺城、ニ河原辺城などと共に、金剛山の尾根上に楠木正成によって築かれた城砦群の一つであり、中心的な城でもある。標高350mの山頂に本丸を置き、比高150mの山城である。
幕府軍八万に対して、三百人の城兵で奮戦した合戦の模様は、「太平記」でよく知られるところである。現在、大手口まで車で入ることができ、大手口からも緩やかな山道が本丸に続いているので、難攻不落さを実感することは難しい。


大手口の一の木戸から四の木戸を通過すると、曲輪群に達する。案内板には比高150mとあるが、大手口から本丸までの比高はせいぜい数十m程度というのが実感。どこを基準とした比高だろうか。


<アクセス>
千早赤阪村の森屋の三叉路を建水分神社へと向い、この神社を過ぎた次の三叉路を右折する。やがて右手に「上赤阪城遠望」の派手な看板が見え、これを過ぎるとすぐ左手に案内板がある。この案内板のある三叉路を左折して細い坂道を入っていくと、十数台の駐車スペースがある。ここが、上赤阪城への入り口(大手口)。あとは、尾根に沿って登り、本丸まで徒歩20分。(2008.10.04)

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