田辺城

 所 在 地   京都府舞鶴市字南田辺  別 名   舞鶴城
 遺 構   石垣、櫓(模擬再建)、門(模擬再建)  形 式   平城
 築 城 者   細川藤孝・忠興  築 城 年   天正13年(1585)
 歴  史  天正8年(1580)、細川藤孝(幽斎)が、織田信長より丹後の国を宛がわれ、宮津城を築いた。
天正11年(1583)、嫡男の細川忠興が、細川藤孝が隠居城としている田辺城を改築し、天正13年代に完成したといわれる。
慶長5年(1600)、細川忠興が徳川家康に従って出陣した留守に、関ヶ原合戦の前哨戦として、西軍方の1万5千に攻められる。細川藤孝は5百の兵で田辺城に籠城したが、後陽成天皇の命により、双方、撤兵と開城をし、細川藤孝は危急を免れる。
慶長6年(1601)、関ヶ原の功により、細川忠興は豊前中津へ39万石で転封する。田辺城は、宮津城に入封した京極高知の支城となる。
元和8年(1622)、京極高知の遺命により、次男の京極高三が田辺3.5万石を領し、立藩する。
寛文8年(1668)、京極高盛は但馬豊岡へ移封され、牧野親成が、3.5万石で入封する。以後、牧野氏が明治維新まで在封する。
歴 代 城 主 細川氏、京極氏3代(3.5万石)、牧野氏10代(3.5万石)


天守台の石垣

天守台に天守はあげられなかった。


本丸内の石垣


模擬隅櫓 右模擬城門 模擬隅櫓は右に多聞を付設する形式、彰古館として使用されている。
模擬城門
模擬城門は、櫓門形式で建築されている。田辺城資料館として使用されている。


田辺城址は、本丸が舞鶴公園として整備されている。
舞鶴公園内には、石垣と、天守台石垣が残されている。石垣は、穴太積み(野面積み)であるので、石垣を築いたのは、細川忠興であると考えられている。
舞鶴公園には、入り口に城門が、未申の位置に隅櫓が再建されているが、いずれも史実に基づかない模擬建造物。


現地案内板の復元図

本丸を、二の丸、三の丸、外郭と、それぞれの堀で囲む、輪郭式の平城。

日本の城目次へ戻る
前の頁に戻る                次の頁に進む