金沢城

 所 在 地   石川県金沢市丸の内  別 名   尾山城
 遺 構   門・長屋・堀・塀・石垣 再建(櫓・長屋)  形 式   平山城
 築 城 者   前田利家・利長  築 城 年   慶長15年(1610)
歴 史 城域は、もとは、一向一揆の拠点のひとつで、金沢御堂(尾山御坊)のあった地。
天正8年(1580)、織田信長の命を受けて柴田勝家が、尾山御坊を陥落させ、与力の佐久間盛政を据えた。盛政は御坊を大改修して尾山城を築くが、賎ケ岳合戦で柴田勝家と共に敗れて滅亡した。以後、豊臣秀吉に与した前田利家が加賀を支配する。
天正11年(1583)、 前田利家は、能登七尾城から居城を移し、尾山城に入り大改修した。天正14年(1586)には五層天守が築造された。
慶長7年(1602)、 天守と本丸御殿が、落雷により焼失した.。
慶長15年(1610)、前田利長の代になって、築城工事が終了した。
宝暦9年(1759)、 金沢大火に際して、天守台上に上げた代用の御三階櫓が焼失する。以後、天守は再建されなかった。
歴 代 城 主 前田氏歴代(120万石)


  石川門
(国重要文化財)


天明8年(1788)再建





金沢城の搦め手門にあたる。
高麗門櫓門からなる枡形に形成されている。さらに二重隅櫓を設けて、防備を固めている。
屋根には鉛瓦が葺かれている。


金沢城の縄張りは、高山右近によるとされる。本丸には五層天守があったが、本丸御殿と共に炎上した。その後、御三階櫓をあげて天守代用とするが、これも焼失した
明治初頭に多くの建物が破却された。また明治14年(1881)、二の丸御殿、橋爪門、五十軒長屋が、焼失した。
特に明治31年に第九師団司令部が設置され、また戦後は金沢大学が置かれたため、現存する主な建物は石川門、三十軒長屋程度である。


 三十軒長屋
(国重要文化財)


二層二階の多聞櫓
一階の壁は海鼠壁

安政5年(1858)に建造された。
現在の長さは二十六間半。


五十軒長屋  平成13年(2001)復元にて再建された
左から橋爪門続櫓、五十軒長屋、菱櫓 左から菱櫓、五十軒長屋、橋爪門続櫓


右から橋爪門続櫓、橋爪門、太鼓塀(二重塀) 平成13年復元 極楽橋 右上三十軒長屋


石垣積みの種類
石垣の積み方には、大きく分けて野面積み、打込ハギ、切込ハギがある。
野面積み 未加工の自然石を積み上げた石垣。勾配をあまり急にすることができず、高く積むことが難しい。「野面乱積み」と「野面布積み」がある。
「野面乱積み」では石材の大きさを揃えて積まないので、横目地が通らない。
「野面布積み」ではほぼ大きさの揃った石材を横に並べるため、ほぼ横目地が通る。
打込ハギ 石材の接合部を加工して、石材間の隙間を減らし、隙間に間詰石を詰めた石垣。「打込ハギ乱積み」と「打込ハギ布積み」がある。
「打込ハギ乱積み」では、粗割り石の角部を加工した程度で、横目地が通らない。
「打込ハギ布積み」では、規格化するように石材を加工し、ほぼ横目地が通る。
切込ハギ 石材を徹底的に加工し、石材間に隙間を全く無くした石垣。石垣積みは、野面積み、打込ハギ、切込ハギの順に進化して完成された。「切込ハギ乱積み」と「切込ハギ布積み」がある。
「打込ハギ乱積み」では、石材の大きや形状を揃えていない多角形をした石材が多く、一般に目地が通らない。
「打込ハギ布積み」では、規格化された石材を隙間無く積み上げるため、横目地が通る。


金沢城の石垣
東の丸北面石垣 野面積み(乱積み)」 戌亥櫓石垣 打込ハギ(乱積み)
二の丸北面石垣 「打込ハギ(乱積み)」 大手堀石垣 「打込ハギ(乱積み)」
         石川門枡形内の石垣
左側「打込ハギ(乱積み)」 右側「切込ハギ(乱積み)」
鉄門石垣 切込ハギ(乱積み)」

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