長比城

 所在地   滋賀県米原市長久寺  別 名   野瀬山城
 遺 構   曲輪 土塁  形 式   山城(標高400m)
 築 城 者   浅井長政  築 城 年   元亀元年(1570)
 歴  史  元亀元年4月、織田信長が越前朝倉を攻めた際に、浅井長政は信長から離反した。この結果、近江湖北の浅井は、美濃岐阜に根拠を置く織田方と国境を接して敵対することになる。そこで、浅井方によって、近江と美濃の境目の地に、防衛拠点として長比(たけくらべ)城が築かれた。
「信長公記巻3」によれば、浅井方が越前衆の後援を得て長比と苅安(上平寺城)に要害を構えたこと、織田方の調略によって、堀秀村、樋口直房が内応し、城兵の退散により無血で落城したこと、信長が長比城に二日間滞在したこと、が記載されている。落城の9日後に、織田・徳川連合軍と、朝倉・浅井連合軍が激突した、姉川の合戦が行なわれた。
歴 代 城 主 浅井長政


主郭の東の曲輪

東の曲輪は75m×50mの大きさの矩形

東の曲輪の残存状態はあまり良好ではなく、一部の土塁は明瞭でない。


近江と美濃の国境において東山道を押える地に野瀬山があり、長比城はその山頂に築かれている。越前朝倉の援助により、大幅に修築されたものであり、越前衆の築城技術が垣間見られるという。
東の曲輪と西の曲輪からなり、両曲輪は30mほど離れた「別城一郭」となっている。東側の曲輪のほうが高い位置にあり、面積も3倍程度あるので、主郭であると思われる。


東の曲輪の東北角の食い違い虎口 東の曲輪から北東、柏原方面の眺望


           副郭の西の曲輪
西の曲輪は東西50m、南北最長箇所30mの三角形。東隅に食い違いの虎口がある。
     西の曲輪の西隅の虎口
西の曲輪は、残存状態が良好であり、分厚く高い土塁が周囲を囲む。


<アクセス>
国道21号線柏原東の信号を北へ折れ、100mほどでJRの踏切を越えて右折すると、すぐ左手に「長比城跡登り口」の案内板がある。この案内板を入り口とする舗装路を入っていくと、突き当たりの手前に秋葉神社への道標板があり、ここから山道に入る。車は、その手前の広いスペースに置くことができる。
秋葉神社の小さな祠の横の道を奥へ進むと、この道の左手に斜面へと登る道がある。ここを通り過ぎてしまうと間もなく行き止まりになるので要注意。山の斜面を直登していくと、10分ほどで尾根筋に出る。この尾根筋に沿ってさらに20分ほど直登する。明瞭な道はないが、踏み跡が比較的はっきりしており、テープを目印に登っていけば迷うことはない。ただし、ひたすら直登するために、結構きつい。尾根沿いに登り詰めると、西の曲輪に到達する。(2009.04.12)

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