竹田城

 所 在 地   兵庫県朝来市和田山町和田山竹田  別 名   虎臥城 天空の城
 遺 構   石垣、曲輪  形 式   山城(標高353.7m、比高250m)
 築 城 者   太田垣氏  築 城 年   嘉吉年間(1441-1443)
 歴  史  但馬守護・山名持豊(宗全)の有力国人である太田垣氏によって、嘉吉年間(1441-1443)に築城されたのが、竹田城のはじまりとされる。
永禄12年(1569)、但馬に侵攻した羽柴秀吉軍の攻撃を受ける。
天正5年(1577)、羽柴秀吉軍の再度の侵攻を受け、羽柴秀長に攻略されて落城する。羽柴秀長の武将、桑山重晴が竹田城主となる。
天正13年(1585)、桑山重晴は、和歌山城代となり、替わりに赤松広秀が竹田城主となる。
慶長5年(1600)、赤松広秀は、関ヶ原合戦で西軍に属し、田辺城を攻める。西軍敗戦後、東軍に寝返って鳥取城攻めに参加するが、城下焼き討ちの責めを受け、切腹となる。以後、竹田城は廃城となる。
歴 代 城 主 太田垣氏6代、桑山重晴、赤松広秀(斎村政広)


城域の中央の最高所に位置に配置された本丸の石垣。左の最も高い石垣が天守台。


             虎臥山
山頂に石垣が連なっているのが、肉眼で数キロの遠方からはっきり見えるが、写真ではそれが表れていないのが残念。
           大手門跡
石垣は野面積。現地のパンフレットでは、穴太積であることが強調されている。近江穴太衆が但馬まで動員されたとは考えにくいのですが。
三の丸 奥は、武の門跡 南二の丸 奥は、本丸石垣
天守台から見下ろして、南二の丸とその奥の南千畳 左側:南千畳 その右側:南二の丸


築城当初は土塁造りの、小規模な城郭であった。桑山重晴から赤松広秀の時代にかけて、現在残っているような総石垣造りの城郭になった。標高353.7m、麓から比高230mの山頂に、南北400m、東西100mの範囲に、石垣が連なる壮大な規模である。
国指定の史跡であり、石垣は復元補修されており、城域も公園として整備されている。


      現地案内板の縄張り図
中央に本丸を置き、西北方向に二の丸、三の丸、北千畳が連なり、南方向に南二の丸、南千畳が連なる連郭式の縄張りである。さらに本丸の裏手の西側に花屋敷がある。これは西の丸のようなものか。


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