出石城

 所 在 地   兵庫県豊橋市出石町内町  別 名   高城
 遺 構   堀、石垣、再建櫓  形 式   平山城
 築 城 者   小出吉英(よしふさ)  築 城 年   慶長9年(1605)
 歴  史  出石の地は、日本全国66カ国のうち11カ国の守護となり、「六分の一殿」といわれた山名氏嫡流の本拠が置かれたところである。しかし戦国時代には山名氏は但馬の地方大名に過ぎなくなっていた。但馬山名氏は出石の此隈山城を本拠としていたが、永禄12年(1569)に木下秀吉に攻められ落城する。山名氏は有子山城を築いて移るが、天正8年(1580)に再び、羽柴秀長に攻められて落城する。
文禄4年(1595)、小出吉政は、豊臣秀吉より出石6万石を与えられて、有子山城に入る。小出吉政は関ヶ原では西軍に属するが、東軍についた弟・秀家の功により所領を安堵される。
慶長9年(1604)、二代目・小出吉英は、有子山城を廃して、有子山の麓に出石城を築く。
元禄10年(1697)、小出氏が無嗣改易されたあと、松平(藤井)忠周が、武蔵岩槻より入封する。
永保3年(1607)、松平氏と交替で、信濃上田から、仙石政明が入封する。
天保6年(1835)、仙石騒動により、仙石氏は知行が3万石に減じられる。
歴 代 城 主 小出氏9代(6万石)、藤井松平氏1代(4.8万石)、仙石氏7代(5.8→3万石)


西の曲輪から見た、左:二の丸の石垣、右:本丸の石垣。櫓は、昭和43年に再建された本丸西隅の摸擬二重櫓


西の曲輪の石垣。平成6年に再建された登城門と登城橋。背後の山は有子山。 本丸跡。石垣は、本丸よりも高所にある稲荷曲輪。
城は、有子山城の麓の居館部を利用して築かれたと考えられる。
山裾を四段に削平して造成し、稲荷曲輪、本丸、二の丸、下の曲輪及び西の曲輪を階段状に配置する。
これらを大きな三の丸で囲むが、三の丸が整備されたのは松平氏の時代。城は山の北側斜面で日当たりが悪いので、平地に三の丸を整備し、城主の居所も藩庁もこちらに移された。
稲荷曲輪からみた、本丸跡と出石市街。右の櫓は昭和43年に再建された本丸東隅墨の摸擬二重櫓。


出石城は、有子山の山頂の不便な城を廃して、北側山麓の斜面を利用して築かれた。上から稲荷曲輪、本丸、二の丸、下の曲輪及び西の曲輪と、段々畑のように続き、これらを大きな三の丸で囲む、梯郭式の縄張りとなっている。

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