勝瑞城

所  在  地  徳島県板野郡藍住町勝瑞  別  名  阿波屋形、下屋形、勝瑞城館
遺  構  堀、土塁、曲輪 形  式  平城
築  城  者  細川氏 築  城  年  14世紀中ごろ
歴  史 勝瑞城は、阿波守護の細川氏が、正平18年(1363)に守護所を秋月から移したことに始まるとされる。勝瑞城を中心に守護町が形成され、阿波の政治・文化の中心として栄えた。
天文22年(1553)、三好義賢は主の守護・細川持隆を殺害して実権を握るが、三好氏の時代になっても勝瑞城に本拠が置かれた。城下には多くの寺が建ち並び、市も開かれ、阿波の中心都市として賑わった城下町が形成された。
天正10年(1582)、長宗我部元親が阿波に侵攻したとき、勝瑞城は十河(三好)存保が城主であったが、讃岐に退いている。この頃、勝瑞城は廃城になったと考えられている。そして天正13年(1585)に蜂須賀氏が阿波に入国すると、寺院や商人は徳島城下に移され、町は衰退した。
歴 代 城 主 細川氏、三好氏


本丸の南側の水濠と見性寺本堂。見性寺は、三好氏の菩提寺であり、城の西方にあったが、江戸時代に本丸跡に移された。 本丸の北側の東寄りの水濠。水濠は幅が13m、深さが4mの大規模なものである。


勝瑞城の遺構として、水濠に囲まれた本丸が残っているが、この本丸は、天正10年(1582)に長宗我部元親の侵攻を受けた際の、中富川の戦いの時に急造された詰めの城として築かれたものである。現在の本丸の西南に東西120m、南北150mの方形の館跡が確認されており、堀や礎石建物跡、庭園跡が検出されている。


本丸の北東隅に残っている土塁。発掘調査によれば、基底部幅12m、高さ2.5m、上部幅14mの大規模なもの。 北側から見た本丸の全景。本丸は東西84m、南北60mのほぼ矩形で、周囲が幅の広い水濠で囲まれている。


<アクセス>
県道14号線(西条北島線)に沿って、JR高徳線の勝瑞駅北側の線路上の高架を西に越えると、2つ目の信号の手前の右側に勝瑞城の本丸跡がある。この勝瑞城本丸跡の北側に駐車場(と思う?)があり、ここに車を停めて、見学することができる。周囲に街並みはなく、阿波一の賑わいを見せた往時の面影はない。(2010.10.17)

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