大垣城

 所 在 地   岐阜県大垣市郭町  別 名   巨鹿城
 遺 構   堀・石垣(再建;天守・櫓)  形 式   平城
 築 城 者   宮川安定  築 城 年   天文4年(1535)
歴 史 天正13年(1585)に、豊臣秀吉の命により、一柳直末が城主として天守を造営し、天正16年(1588)に 天守が完成する。
慶長5年(1600)、城主伊藤盛宗のとき、関が原合戦の西軍拠点となる。石田三成は、大垣城から関ヶ原に出撃した。大垣城はその後、落城する。
慶長6年(1601)、石川康通が入封する。三代にわたって城を改築し、現在の姿になる。
寛永12年(1635)、戸田氏鉄が、摂津尼崎より入封する。以後、明治維新まで戸田氏が藩主を勤める。
昭和20年7月29日の米軍の空襲により、天守が焼失する。惜しまれる。
歴 代 城 主 石川氏3代(5万石)・松平(久松)氏2代(5万石)・岡部2代(5万石)・松平(久松)1代(6万石)戸田氏11代(10万石)


 天守
(昭和34年、外観復元、コンクリート造り)
(構造)  層塔型
(重・階) 四重四階
(形式)  東と西に多聞櫓が付属する複合式
(高さ)  約18m

米軍の空襲で焼失する以前は、国宝指定の天守。
コンクリート製で外観を復元しているが、窓の大きさなど細部は異なっている。


本丸と二の丸を三の丸で囲み、さらに竹曲輪、天神曲輪で囲むようにした輪郭式縄張りであり、三重の堀で囲まれていた。
廃城後も、天守や櫓が保存されていたが、米軍の無差別爆撃により失われた。現在、城域の多くは市街地になっているが、本丸を中心に大垣公園として整備されている。


乾隅櫓
(昭和42年、復興、コンクリート造り)
艮隅櫓(左)と東門(旧柳口門)
(昭和60年、外観復元、コンクリート造り)
東門(旧柳口門)
(昭和60年、外観復元、コンクリート造り)
水之手門跡


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