郡山城

 所 在 地   広島県安芸高田市吉田町  別 名    ―
 遺 構   曲輪、石垣、土塁、堀切  形 式   山城(標高390m、比高200m)
 築 城 者   毛利元就  築 城 年   大栄3年(1523)
 歴  史  毛利氏は、相模・毛利荘の出で、承久の乱で地頭として安芸・吉田荘に入部したとも、建武3年に毛利時親が吉田を領したともいわれる。
郡山城は、毛利時親が建武3年(1336)に築城したのが始まりとされる。また享徳2年(1452)の築城が始まりともいわれる。いずれにしても、そのときの城域は、郡山城の南東麓に位置する小規模なものである。
郡山城の本格的な築城は、毛利元就が大栄3年(1523)に入城してからなされ、天文9年(1540)までに郡山の全山に城域が及ぶ大城郭が築かれた。
元亀2年(1571)に毛利元就が死去した後、家督を継いだ孫の毛利輝元によってさらに拡張・整備がなされた。
天正19年(1591)に、毛利輝元が本拠を広島城に移した後も、郡山城は維持されたようだが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後に毛利氏が防長に移されたあと、元和2年(1616)に、一国一城令により、郡山城は破却された。
歴 代 城 主 毛利氏


本丸跡 左の小高い部分は櫓台 二ノ丸跡


三ノ丸への虎口の箇所の石垣の跡 三ノ丸の周囲の石垣の跡


郡山城遠景            現地案内図
山頂の本丸・二ノ丸・三の丸を中心に、大小270もの曲輪が配置されていたとされる。


最盛期の郡山城は、東西約1000m、南北約800mの、全山が城郭化された、最大級の山城であった。標高390m(比高200m)の山頂の本丸を中心に放射状に延びる6本の尾根と、さらに延びる6本の支尾根に曲輪を設け、また尾根間の谷を曲輪や道で結合した、複雑な構造となっている。
現在、麓は公園化して整備されているが、山中の城郭跡にはあまり手が加えられていないため、樹木が多く、山頂の本丸群以外、曲輪の跡を確認し難い。戦国山城として全国的に名が知られた郡山城であるが、山歩きをする積もりで入山する必要がある。

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