金山城

 所 在 地   岐阜県可児市兼山  別 名   鳥ケ峰城
 遺 構   石垣、曲輪、虎口  形 式   山城(標高267m、比高160m)
 築 城 者   斎藤大納言正義  築 城 年   天文6年(1537)
 歴 史  金山城は、天文6年(1537)に、斎藤道三の命により、その猶子の斎藤正義によって築かれた。しかし斎藤正義は、天文16年(1547)、久々利城主・土岐三河守に討たれた。
永禄8年(1565)、織田信長は東美濃経営の拠点として、金山城に森可成を城主として入れる。以来、森可成、長成、忠政の三代の居城となる。可成は近江・宇佐山城で戦死し、長成は長久手の戦いで戦死した。あとを継いだ森忠政は、豊臣秀吉に従う。忠政は、秀吉の死後、徳川家康に接近し、慶長5年(1600)、信濃川中島に移封される。
金山城は犬山城主石川光義の所領となるが、破却され、天守、櫓の一切を取り壊して、犬山城の拡張・整備に利用された。
歴 代 城 主 斎藤氏 森氏


本丸大手の虎口。完全な枡形として残っており、左端が一の門の跡、手前右端が二の門の跡となる。


金山城は、木曽川の支流を見下ろす山頂に築かれている。三の丸、二の丸、本丸、天守台(天守曲輪)からなり、石垣が多用されている。本丸や天守丸の枡形虎口が良好に残っている。特に本丸虎口の枡形は広く、見ものである。この虎口の一の門は犬山市の寺に移築されており、土台石の寸法が一致するという。


三の丸 二の丸


天守曲輪の西南角の石垣。一応、算木積になっている。 天守曲輪の東南に設けられた搦手の虎口。この虎口も枡形になっている。
天守曲輪の南面の石垣 天守曲輪。案内板には「天守台」と表示されているが、天守曲輪はこのように広い曲輪であり、その一画に、二階櫓の上に望楼が載った天守が建てられていたらしい。


県道381号線に面する兼山小学校の、北側に沿った道に入ると、城山公園へと行くことができる。車は、城の直下まで入ることができ、専用の無料駐車場が完備している。(2009.06.03)

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