YUTAのモスクワ留学はちゃめちゃ通信
ウクライナはちゃめちゃ紀行 キエフ編

 これからどんな旅が始まるんだろうと期待しながらも少しの不安を抱きつつ、7月27日に20:30分発のウクライナキエフ行きの電車へと乗り込みました。僕が購入した座席の券は2等寝台車2段ベッドを向かい合わせた4人1部屋の寝台席でした。ですが今回は僕と仕事でキエフへ行くと言うロシア人のおじさんの2人だけでした。1部屋4人乗りといってもベッドはかなり狭く、日本人の僕でさえきついのに体の大きなロシアは大変だなと思ったらそのおじさんは体をくの字にしてしんどそうに寝ていました。

 

 発車時刻が夜とあって電車に乗り込んで早々みんなもう寝る支度を始めたので僕も明日に備えて寝ることにしました。ですが真夜中に国境を越えるので寝ている最中にみんな起こされ、出入国審査が始まりました。審査官らしき人が1部屋ずつ回って行き、パスポートの確認をしていきました。僕はその時、何時に出入国審査があるのか知らなかったので気持ちよく寝ていたら審査官の人に起こされ、寝ぼけながらパンツ1丁で出入国審査を受けました。まさかこんな格好でウクライナに入国するとは思ってもいませんでした。今まで海外旅行と言ったら飛行機で、出入国審査は空港で行うものと思っていたので、電車で国境を越えるのは初めての経験だったのでとても不思議な感じでした。

なにはともあれ約12時間でキエフへと到着しました。

到着して一番最初にしなければいけないのは宿探しで、キエフは首都だけあってどんな安いホテルでも1泊50ドル位はするので駅でアパートは貸すのを商売にしているおばさんがいると言うのは聞いていたので、宿は値段の安いアパートにしようと決めていました。その1人と交渉した結果、5泊するので値引きしてもらうことにして1泊18ドルでアパートを借りることにしました。

おばさんにアパートへ連れて行かれるとその部屋はかなりの大きさで部屋は3つもありベッドも3つあり、キッチンベランダまでありました。それにテレビ、食器、アイロンと言う生活用品まで揃っていました。モスクワの寮の狭い部屋で共同生活をしている僕にとっては考えられないほど良い部屋でした。ですが、2〜3人で来ていたら宿泊代割りカン出来たのになーと少し思ったりもしました。

 早速、キエフ観光へと行きたかったのですが、その前に滞在ビザのことで1つ疑問に思っていたことがあったので、キエフ市内にある日本大使館へと行くことにしました。大使館へ行く最中に街中には素晴らしい建築が沢山あり、想像していた以上にきれいな街なのに驚かされました。
 地図を見ながら行ったのですがどうも場所が分からなくて、タクシーで行こうと思い、白タク(安いが正規のタクシーではない)を道端で捕まえようと思ったら向こうからどこに行きたいんだと声を掛けてきました。値段交渉の末、5グリブナ(約115円)で乗る事になりました。僕はタクシー代どうこうより、この車が白のベンツだったのでベンツに100円で乗れた事の方がうれしかったです。今まで一度もベンツに乗った事がなかったので。
 日本大使館に白のベンツで到着し、事務所の中に通されると大使館員らしき出てきたのですが、まるで刑務所の面談の時のように窓越しに現れて、声もマイクを通して話すと言うものでした

僕が滞在ビザの事で質問すると、その大使館員らしき人は始終あまり目を見て話してくれず、ずっとマイクに顔を向けながら僕と会話していました。以前に歯痛4月号を見て下さい)の事でモスクワの日本大使館に訪れた時の対応とは全然違っていたのであまりの差にがっかりでした。滞在ビザの疑問も解決して、これでやっと観光しようと思いましたが、今日は疲れてしまい、明日から出かける事にしました。

 次の日早起きしてキエフ観光へと出かけました。

 先ず最初に向かったのが、かつてのロシアの女帝エカテリーナキエフ来訪を記念して建てられた「アンドレイ教会」でした。
 長い間、修復のため中には入ることができなかったのですが、最近公開されるようになったそうです。教会内に入るには入場料が必要だとガイドブックには書いていたのですが、無料で入れました

 この教会はイタリア人が建築を手掛けたこともあって、他のキエフの教会とは形が異なっており、どことなく雰囲気も違っていました。

 この教会は遠くからでも近くからでも、どの方向どの角度から見ても素晴らしかったです。

 このアンドレイ教会が見下ろすアンドレイ坂はキエフのアルバート通りみたいなもので、お土産屋さんやお洒落なオープンカフェがたくさんありました。僕はここのお土産屋でウクライナが生んだ英雄、今はイタリアサッカーのセリエA、「ACミラン」に所属しているシェフチェンコ選手のユニホームをなぜか!?2枚も購入してしまいました。

 キエフはモスクワと違って坂がとても多く、その分よりヨーロッパの感じがしました。観光で歩き回るには結構体力がいりますが・・。

  アンドレイ坂の途中にある、「ウクライナ歴史博物館」に入りました。ここは先史時代の出土品から、ウクライナの独立までの、50万点にのぼる膨大な資料が展示されています。あまりの資料の多さにここだけで丸1日費やせそうでした。この博物館の前庭には939年に建てられ、全東スラブ世界で最古の「聖母教会の跡」が、あるのですが、1240年のモンゴル軍来襲の際、逃げ場を求めて教会の屋根に登った人々の重みで、彼らもろとも崩れ落ちてしまったそうです。

 ヤロスラフ賢公遊牧民ペチェネ−グ人に対する勝利を記念して建てられた「ソフィア大聖堂」は現存するキエフ最古の教会1037年に建てられました。入場料はロシアでの大学の学生証を使うことができ、半額の5グリブナ(約115円)で入れました。
 ホントは写真を撮るなら別に写真撮影の券を購入する必要があるのですが、他の観光客みんなその券は買わずに写真を撮っていたので、僕も券を買わないままこっそり写真を撮っていました。 
 この「ソフィア大聖堂」から道路を挟んで真正面に見えるのは、「聖ミハエル修道院」で、内部には前面青く塗られた珍しい教会があり、とても美しかったです。
 ここの入場は無料でした。無料だけあって、人々は読書をしたりベンチに座っておしゃべりをしたりと、まるで公園のようにくつろいでいました。

 「聖ミハエル修道院」をひととおり見学してベンチでひと休みした後、近くにあるケーブルカ−でふもとに下りました。ふもとの前には道路を挟んでドニエプル川が流れていました。

 ドニエプル川はとても大きな川で、人々は釣りをしたり川で泳いだりしていました。川沿いにはクルージングの為の船が何隻かあったので10グリブナ(約230円)を払ってドニエプル川のクルージングをすることにしました。
 船に乗って一番最初に目に飛び込んできたのがドニエプル川を見下ろすように建てられている「ウラジーミル聖公像」でした。

 その後に剣をかかげたとても大きな巨像と、キエフ観光での一番の見所である「ペチェールスカ大修道院」が見えました。巨像は半端ない大きさで、クルージングをしている最中、一番目に付きました

1時間ほどでクルージングは終わり、もう夜の7時を回っていたので家に帰ることにしました。家に帰って夜10時過ぎに風呂に入っていると凄い勢いでドアをノックする音が聞こえました。

僕は風呂に入っていたので居留守を使おうと思ったのですが、そのノックはいつまでたっても止まず、ドアをこじ開けんがごとくドアノブをガチャガチャ回してドアを開けようとしていました。僕は堪りかねて急いで風呂から上がり、ドアを開けました。

ドアを開けると50代くらいのウクライナ人の夫婦がいて、その夫の方がいきなり早口のウクライナ語で僕になにかを言ってきました。ウクライナ語がロシア語とほぼ同じだとは言っても、僕は全くその人の言っていることが理解できず、この人が怒っているのか普通に話しているのかさえ分かりませんでした。

僕が呆然としていると、理解できないと思ったらしい奥さんのほうが、ゆっくりなウクライナ語で夫が言っていることを僕に話してくれました。その内容は、「私たちはこの部屋の主で、今はここは貸しているけれど、もうここに戻りたいからあなたはいつまでここにいるの?」というものでした。僕が「3日後の8月2日の朝10時まで借りることになっています。」とその夫婦に言うと、「わかりました。では2日の朝10時にまた来ますね。」と言って帰ろうとしましたが、僕は1つ疑問に思い、「アパートを貸す仲介業の人からは何も連絡はいってないのですか?」と尋ねると、今ここは貸してはいるけれど仲介業の人とは何も連絡はとっていないと言いました。

こんな事は日本だとまず考えられないことですが、とにもかくにも8月2日の朝10時にはここを出て行かざる得なくなりました。このアパートは駅、スーパーからも近く便利で、初めは5日間の宿泊の契約でしたが、ここが気に入ったので宿泊の延長しようと考えていた矢先の出来事でした

翌日、この部屋を紹介してくれた仲介業の人に電話して昨日の事を伝え、8月2日以降は別のアパートを紹介してもらうことにしました。その後、少し憂鬱な気分のままキエフ観光へと出掛けました。

 僕は海外にいったらそこから日本へ絵ハガキを送るのが毎回の行事みたいになっていて、昨晩のうちに書いておいた絵ハガキを持って中央郵便局へと行きました。いつもは2〜3枚くらいなのですが今回は9枚も絵ハガキを出しました。

 その後、ガイドブックに載っている「黄金の門」に行ったのですが今は修理中で中には入れず、外観も黄金と言うには言い過ぎかなって感じでした。次に血の色の大学として有名な「キエフ大学」を見に行きました。なぜこんな色かと言うと、昔この大学の学生達が徴兵拒否運動を起こし、その罰としてロシア皇帝二コライT世建物を血の色で塗りつぶすよう命令した名残だそうです。

 8月2日になり、今借りているアパートを出て行く日になりました。ここの持ち主であるウクライナ人の夫婦が前話した時に、朝10時にここへ来ると言っていたのに、2時間も前朝8時に部屋にやってきました。僕はまだ寝ていて何も出て行く用意はしておらず、慌てて用意をして追い出される様に朝9時にはこの部屋を出て行きました。

 次にアパートを貸す仲介業の人に紹介された部屋も前回同様これもまた駅から近く、スーパーありました。場所的にも前回の部屋より少しですが都心に近づきました。

 なによりも良かったのは部屋の内装で、ホテルのようにきれいでした。キッチンには食器も沢山置いてありました。チェスの道具まで置いてありました。

 中でも一番気に入ったのが壁に「モナリザの微笑み」の絵が飾られていたことでした。

 まさか自分がモナリザの絵のある部屋で寝るとは思ってもみませんでした。値段も前回同様、一泊18ドルでした。

 2日後の8月4日にここキエフを離れ、キエフから南にある街、オデッサに行く為の電車のチケットを買いに行きました。オデッサは「黒海の真珠」と呼ばれる所で、ここからフランス、イタリア、ギリシア、トルコなどと結ぶ船が出ている港町です。

駅の切符売り場に着くと、とても混雑していたのでいったん切符売り場を離れ、ふらっと近くにあった長距離バスの事務所に入りました。バスで行くつもりはなかったのですが一応オデッサまでの値段と時間を受付のお姉さんに尋ねると、なんとキエフからオデッサまで電車だと約12時間かかるのに対し、バスだと約8時間でオデッサに到着し、値段も57グリブナ(約1300円)と安かったのでした。僕は迷わず当初の目的だった電車のチケットを買うのを止め、バスでオデッサへ向かうことに決めました。時間は昼くらいにオデッサに着きたかったので、早朝6:45分発のチケットを購入しました。

次の日はキエフ観光最後の日なので、メインイベントにとっておいたキエフ観光での一番の見所である「ペチェ−ルスカ大修道院」を訪れることにしました。

 「ペチェ−ルスカ大修道院」を訪れる前に、前日に予約したオデッサ行きのバスの事で気になる事があったので、もう一度バスの切符売り場のある事務所へと行きました。気になる事とは8月4日早朝出発のバスを予約したつもりなのになぜかチケットには“8と3”の数字だけが書いてあり、どこにも日付を示すような“8と4”の数字は書いてありませんでした。チケットは全てウクライナ語で書いており、どれが月でどれが日なのかも解らなかったのですが、まさか予約するときあんなに何度も4日と言って強調したのだから大丈夫だろうと思っていてこの“8と3”と言う数字は日付ではなくバスの番号か何かの違う意味があるのだろうと油断していたのが大きな間違いでした。ここは日本と違い「外国」なので。

 案の定チケットは8月3日出発として予約されており、それは今日の早朝のバスなのでもうバスは出発してしまった後でした。僕は販売員のお姉さんに「僕はチケットを買う際、何度も4日の出発と言ったのになんで3日のチケットなんですか?」と言うと、「あの時あなたは3日のチケットを下さいって言ったでしょ。あなたウクライナ語全部理解しているの?」と言ってきました。たしかにウクライナ語があまり理解できない僕の言い間違いと言う可能性もあるかなとは一瞬思いましたが、それは考えられませんでした。なぜなら言葉が通じない時のためにチケットを購入する際に前もって紙に出発日時、行き先、何人分かをきっちり書いて販売員のお姉さんに見せたからでした。その際お姉さんも自分で“8月4日”とその紙に大きく書いてお互いに確認もしました。僕はお姉さんが書いたその“8月4日”と書かれた紙を見せ、「ほら、この通りあなたも8月4日って書いているじゃないですか」と言うと、彼女は「あれは8月4日じゃないのね?と言ったつもりで紙に書いたのよ」と訳のわからん言い訳をしてきました。普通に考えてそんなバカな話は考えられません。現に僕は最初から紙にきっちりと出発の日は“8月4日”と書いていたし、“8月3日”などと言う言葉は一度も発しておらず、“8月3日”などという文字も僕も彼女もお互いどこにも紙には書いてはいないのでしたから。途中で責任者らしきも出て来て3人で口論になりました。ですがやはり母国語のウクライナ人にはかなわず、引き下がりそうになりましたが僕には絶対に間違っていないと言う自信があったのでチケットの変更をしてくれるよう食い下がりました。その様子を見ていたチケットを買う為に並んでいた周りの人達が「彼は外国人なんだからどうにかしてやれよ」みたいな事を言ってくれ援護してくれたこともあり、9グリブナ(約207円)を払えば変更の手続きをしてくれると向こうは言ってきました。チケット代が57グリブナ(約1311円)なので6分の1の金額で変更できればいいと思うかもしれませんが、僕は「そっちの手違いのはずなのになぜ金を払う必要があるんだ」となかば怒鳴るように言うと、周りの人達が「それで手を打っとけ。もうこれ以上言っても変わらない」と口々に言うので、僕はしぶしぶ9グリブナを支払いチケットの変更の手続きをしました。

 バスの事務所を出てからも頭に血が上ってムカムカしていましたが、あとから落ち着いて考えて見るとここはなんでもきっちり仕事をする日本と違い、「外国」なので、なにが起こるか解らないと言うことを常に頭に入れておき、何でも慎重に行動、確認することが大切だと身をもって教えられました。自分では一人での海外旅行なので慎重に行動しているとは思っていたのですが、バスのチケットを購入してすぐには出発日時の確認をしなかったのも気が抜けて油断していた証拠かもしれません。これがもし飛行機のチケットならもっと大変なことになっていたでしょう。この事件があったおかげでよりいっそう気が引き締まり、新たな気持ちで「ペチェ−ルスカ大修道院」へと向かいました。

 

 「ペチェ−ルスカ大修道院」はドニエプル川沿いの深い緑のなかに広がる、東スラブで最も長い歴史を持つ修道院で、毎年たくさんの観光客と、同じく無数の巡礼者たちがこの修道院へとやって来ます。

 「ペチェ−ルスカ大修道院」はそのむかし、修導僧たちが河岸の洞窟内で生活を営み、洞窟内で祈り、横穴を掘り続け、その後も洞窟内に葬られたことにより洞窟を意味する“ペチェ−ラ”からその名前が付いたそうです。

 修道院内はとても広く、中にはたくさんの施設があるのですべての施設を見て回ろうとすれば優に6時間はかかります。

 僕は学生証を使い、5グリブナ(約115円)の入場料を払い中に入りました。中に入ってまず最初に入った施設は、修道院内の景色を一望することができる「大鐘楼」で、ここも学割を使い3グリブナ(約69円)でこの展望台に登りました。ここからの景色はとてもきれいで金色に光り輝く教会がいくつも見えました。

 その後、「ウスペンスキー大聖堂」、「聖三位一体教会」、平べったい屋根のドームが目を引く「トラペズナ教会」、「国立ウクライナ歴史文化財博物館」、「ウクライナ歴史文化博物館」、髪の毛ほどの大きさの像や彫刻、米粒大の絵画などいわゆる“極小芸術”ばかりを集めた「ミクロミニアチュール博物館」へと行きました。

 これらの施設をすべて駈け足で見たにも関わらず、4時間はかかりました。修道院内の施設はまだこれで全部ではないですが、修道院内のメインの箇所は大体押さえたので、最後に僕が一番見たかった場所である修道層のミイラが置かれている「地下墓地」へと向かいました。

 「地下墓地」は地下洞窟を掘り続けた修導僧たちがそのまま洞窟内に葬られ、湿度や気温や様々な条件によって腐らず自然にミイラ化した遺体が置かれている洞窟です。この“奇跡”は人々の厚い信仰を集め続け、今に至っています。

 地下墓地の入場料は無料なのですが、洞窟内は真っ暗で照明用の明かりとしてろうそくを買ってみな中に入っていました。僕も1グリブナ(約23円)を支払い、ろうそくを購入して地下洞窟の中へと入っていきました。静まり返った洞窟内は人が一人通れるだけの狭い通路で曲がりくねっており、下に下りていくほど洞窟内はより暗くなっていきました。

 遺体はその狭い通路の所にいくつか置かれていて、上がガラス張りになった棺の中に入れられています。棺の上の壁には葬られている修道僧の肖像画が飾られていました。遺体はきちんと聖衣を着せられているので肌は見えないのですが、胸に置かれているミイラ化した手は見ることができました。他の人々は洞窟内を歩いている途中、棺を見るたび祈りを捧げ、棺に接吻を繰り返しながら歩いて行きました。

 20分ほどで出口へと出ましたが、あの空気はなんともいえないものでした。ミイラが見たいと興味本位で訪れていた僕にとって、真面目な顔で祈りを捧げ、棺に接吻を繰り返す人々を見るとここはロシア聖教以外の人間が来る場所ではないなと反省してしまいました。まさに聖地という感じでした。もちろん写真なんて撮れるわけがありません。無論、写真を撮ろうなんて気も全く起こりませんでした。なぜならここは聖地なのですから。

 次の日、早朝6時45分のオデッサ行きのバスに乗る為、朝5時には起きてバス乗り場へと向かいました。

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