ブルックナー放談

 

  

スクロヴァチェフスキ/ザールブリュッケンRSO

  久し振りに素晴らしい週間となった。11/4−6のスクロヴァチェフスキ/ザールブリュッケンRSOによるブルックナーシリーズ。流石に三日連続は苦しいし感激性も薄れると思い、真中の7番をはずし、初日の5番と後の日の8番を聴きに行ったのだけれど、期待を超えた素晴らしいコンサートだった。Web上の先のコンサート評で、ザールは弦が粗いの、スク爺はスコアをいじるの、流れを揺らすの、いくつかのネガティヴなコメントも見られたが、それらはすべて私から見ればブルックナーの世界創りにはむしろ必須なポジティブな傾向。第5番の時の座席は二階バルコニーで、あの巨大な万華鏡のような音楽が足元のそこかしこから沸きあがって、オペラシティホールのピラミッド空間に殷々と響き満たされて行く、えもいわれぬ絢爛豪華で重厚な世界。数日を経て、いまだに各楽章のメロディ断片が頭の中に行き交っている有様。醒める間もなく一日おいて第八番、この日はNHKの録画が入っていて、TVカメラを見た時には少し興ざめたものの演奏が始まってからは、全く意識の隅にも無くなった。この曲の緩抒楽章がこれほど多様に濃厚に響いた演奏は初めての経験。少数の弦と木管のかけ合いの、それは美しかったこと。コンミス?の女性のヴァイオリンソロは、何度ブラヴォを叫んでも足りないくらい味わい深く、しっとりと麗しくブルックナーの粋を表現していた。彼女はブルックナーを全身全霊で愛しているか理解し尽くしているのだろうか。重弦の強奏、金管の咆哮、そしてハープ2台のエレガントな音色。フルートの溜息的な表現も尺八の世界に合い通じていて一音成仏の妙だったし。猪突猛進的演奏が功を奏すこの曲に対して、随所にアク抜きのようにテンポを落とし、音量を落とし、一見軟弱化のようにみえて、実は緻密な柔構造の大伽藍を描き出す結果になっていた。終楽章の終わり方も大見得を切る形はとらず、スパッと切れ味良く終結させた鮮やかさ。名演奏を支えて、両日に共通していたことは、聴衆のマナーが信じられないほど優れていたこと。東京の大会場にありがちな私語の囁き、パンフレットの頁めくり、と言った無作法ノイズはもとより、バッグや冊子を床に落とすような偶発ノイズもまったく一切無く、あの短からぬ楽曲の最初から最後まですべてにわたって、固唾をのんで精神を研ぎ澄まして聴き込んでいると思われる人々だけで座席が占められていた。心からブルックナーが好きな人々だけでホールが埋まっていたと信ずるしかない。両日とも演奏後の拍手は15分以上続いたのではなかろうか。スク爺さんは少なくとも6回は呼び出されたと思う。団員がすべて退いたあとも数回、ステージのすそに群れをなして集まった聴衆の拍手の前に姿を現してくれたわけだから。

大町/東京フィルの「第九番」

 お彼岸の21日、待ちに待った「大町さんのブル9」体験に東京オペラシティへ出かけた。ホールの天井空間はいつ見ても正にブルックナー仕様と言う壮大な感じ。バブルの中でエスカレートしてきた、爛熟しきったような解釈がデフォルトとなりつつあった九番も、長引く右肩下がりの経済環境の中で、クラシック音楽自体の価値基準と共に、変質をし始めているのだろうか。大町さんのブルックナーでは「金管浴」が魅力のひとつで、今回もある程度それも堪能できたのだけれど、この日の九番では金管が非常に硬質になっているように感じられた。元々この曲は、演奏する楽団の木管パートの人達がどれだけブルファンかで要所が決まるようなところがあるけれど、「若い九番」とでも言うか、精悍さとも律儀さとも異なる即物的のような印象で、メロディの進め方もタメを排したストレートな解釈。この九番の楽節一つ一つは祈祷文と言うか経文のような味わいを秘めていて、ブラームスやベートーヴェンの朗読文的、檄文的フレーズの場合のようにタメがマイナス作用することは無いと思うのだけれど・・・。全体の印象として東大寺大仏殿を思い描いて、聴いてみたら京都駅ビルだったと言うような何か構造的だけれど無機質っぽいものが後味に残って、いきなり勃発した戦争が演奏者達の意識の下に陰を落としているのでは、と感じたのは単なる思い過ごしかも。そのためか、いつもはビジネスライクに聴こえる事が多いヴァイリンパートに、みずみずしいクリアな息づかいの主張がいたるところで印象的に感じられたのが面白かった。最近は「音楽とビールは生に限る」との思いが日ごとに強まっていて、CDの名演を何枚聴いても得られない快い緊張をベースとした時空間の共有はやはり貴重なものと再認識できた次第。このプログラムでは、コンサートで普通に見かける親子連れやカップル等の複数組は流石に少数派で、孤高のブルファンが各地から単騎集結と言った様子。従ってS/N比も非常に良かったし、楽章間の咳払いの大合唱も無く、素晴らしい雰囲気のブルックナー浴となった。

スクロヴァチェフスキ/N響の「第九番」

 4月5日のNHKホールにブル詣で。この曲については、大向こうをうならせる思い入れたっぷりの深遠重厚な演奏が好きなのだけれども、ミスターSの棒さばきは終始すっきりとしたテンポの客観的解釈で、ゲネラルパウゼも、残響を宙に漂わせるエアポケットとか深い嘆息の発露等の表現とは無縁の、場面切り替え幕間と言うか「幕の内弁当の仕切板」のような感じで進められていた。その意味ではロマン派と言うより古典派音楽の世界となり、楽員も冷静忠実に端正で完璧な技法を注ぎ込んでいて、それを職人芸と見るかビジネスライクと見るか・・・・。ミスターSはこの曲を七番のようにアダージョの頂点を、曲全体のクライマックスに置いた組み立てをしていたみたいで、それはとてもスリリングで素晴らしい不協和音の強奏が鳴り渡った。それを聴いて逆にスケルツォの表現に感心しなおしたり・・・。2Fロビーのプレ・ミニコンでは弦楽五重奏のアダージョが演奏され、最初のS氏の「管弦楽の為の協奏曲」も第二楽章の副題が「アントン・ブルックナーの昇天」と名付けられたもので、ブルックナーづくしのプログラムになっていた事もまとまって充実した印象を強める結果となった。すべて計算され尽くされて筋書き通り、に文句は無いのだけれどブルックナーの世界にはやはり何か計算外の不穏なものが隠し味に欲しいと感じるのは、無い物ねだりの我儘というものだろうか・・・。S氏の協奏曲で不穏で絢爛豊饒な音響世界を十分に堪能し、特に打楽器群の各メンバーの才の迸りのようなものに圧倒された上に、贅沢を言ってはいけないのかもしれない。いずれにしても思い返してみるとホールへの街路樹の鮮やかな新緑に相応しいブル9で、とても気持ちの良い、内容のあるコンサートとなった。こう言う解釈もなかなか楽しめるのを再発見。

大町/東京フィルの「第三番」ノヴァーク版

 2月24日に大町さんのブルックナー・チクルスNo.4を聴きに行きました。毎度ながらの入りのよさですが年配の女性が結構目についたのが特徴的か。そう言えば、東京フィルは弦楽器に女性が多くて、曲のスタートがなんか及び腰のような感じがする時がある。きっとこれは、弦の漣で始まるブルックナーの場合、女性の弦奏者達は「ブルって、なんか訳わかんないし、とにかく手首が疲れるのでやーね。でも金管があんなに大喜びしているし、コンマスも気合入っているから、私達もガンバローか。」みたいな感じで始まっているのかもしれない。今回は第三番「ワグナー」ノヴァーク版で、トランペット協奏曲のノリでとても筋肉質の鮮やかなブルックナーだった。楽章を追うに従って、一体感が深まって、緩急の呼吸も熱気をはらんできて終楽章の大団円は、「聴きに来て本当によかった」と満足できるものとなった。終楽章だったか、ブラームスとマーラーが握手しているようなところがあったのも面白かった。大町さんは、はじめの口上で、朝比奈さんやヴァントさんに触れていたけど、指揮者それぞれのブルックナーであって良いのだし、聴くほうも、例えそれが現在最も人気のある解釈であっても、規格化されたような権威に縛られていない人も多いはずなのだから、等と気を回してしまった。ブルックナーファンに特有の絶対唯一主義と、大御所の呪縛への配慮か・・・。いよいよ来年は「第九番」を振られるとの事。とても楽しみ。

Naxos音楽の旅「Bruckner交響曲第4番」

 NaxosのDVDシリーズで20種類ほど出ているなかの表記のものを鑑賞(DVDI-1008)。演奏はギュンター・ノイホルト/ロイヤル・フランダース・フィル。やや平板ながら節度良く、染みとおるようにじっくり纏め上げた渋い演奏。ノヴァーク版とあるが第四楽章なんかは弦にかなり個性的な表現を出している。それよりも何よりも素晴らしいのが各楽章の映像。第一楽章ではオーストリア田園風景とホーホオスタヴィッツ城の情景を楽曲の展開に合わせて見事な切り口で描写している。森の木々のざわめきや小川のせせらぎ、一面の麦畑。ヒーリングDVDとしても秀逸ではなかろうか。第二楽章では聖フロリアン。冒頭の寂寥感あるテーマにのせてブルックナーの棺。大オルガン。彼の肖像画。デスマスク。このデスマスクは画面いっぱいに映し出されたものを見ると、右の目に涙が一粒のこされている様。そして、朝比奈さんの7番のジャケットでもおなじみの、修道院の天井いっぱいに描かれたカルローネの筆になる壮麗なフレスコ画。第三楽章ではホーエンブルン宮殿。狩猟博物館となっており、いたるところに「へら鹿」の頭部の剥製のデコレーション。狩猟を描いたバルビゾン風の絵画。アルプスの山岳風景は「サウンドオブミュージック」と似た雄大な風景描写。そして最終楽章ではシェーンブルン宮殿とベルヴェデーレ宮殿の内外部の姿。ここでもブルックナーの肖像画や使用していた鍵盤楽器を見ることができる。雲の流れや庭園のアウトテリア。このDVDが¥2000でおつりが来るとはさすがNaxosさま。

ベイヌムのブルックナー

 エドゥアルド・ヴァン・ベイヌム、1900年9月3日オランダ生れ。生誕月日はブルックナーの誕生日9月4日と一日違いなのも偶然とも思えず。1959年4月13日にリハーサル中に心臓発作で亡くなっている。4月13日はこのHPの誕生日だし。一般にブルックナー演奏の表情は、コクのあるドイツ風、芳醇なオーストリア風、実直なイギリス風、開放的なアメリカ風、鋭角的なロシア風、重厚な日本風とそれぞれ傾向があるように感じますが、このオランダ風は硬派の豪快さと言うか、管を前面に打ち出して作り出すブルックナーの原始性が魅力に思えます。彼の録音は五番、七番、八番、九番が収録されていて、ブルックナー臭さがどこか足りないながら、それぞれ交響曲の全体像として心を捉える存在感があります。当然のことながらハイティンクで感じたものと共通する因子ですが、五番と八番が特にその曲想ともマッチして、非常に魅力的なものになっている。ぜひ三番を聴いてみたかったと思うのは私だけだろうか。

チェリビダッケ正規盤セット

 チェリビダッケはチャイコフスキーにしてもシューマンにしてもムソルグスキーにしても恐ろしく重たく、かつ独特な繊細さに造り上げられている。その流れにブルックナー物もならっているようで、最も圧巻だったのが第4番、ついでミサ曲3番。第9は別格として、3番、5番が素晴らしく、8番は海賊盤の方が若干メリハリが有るようで、6番はさすがと言えばさすが、以外に凡庸だったのが7番、と言うのが第一印象。いずれにしても彼の演奏は、ヨッフムやフルトヴェングラー等と違って、「ビビビ」と来るような断面はあまり持っていない。聴いている間中、まったく別の世界に連れて行かれて曲の終了と共にその世界が終わる。前者が「鉄道旅行」とすると、彼の演奏はあたかも「船旅」のよう。日の出と日の入りだけで他は大海原の波の繰り返し。ゼロ番、一番と二番も欲しい。

  ブルックナーを日本でメジャーにする作戦。まず、その@ 曲を紹介するときにエーザー版がどうの第2稿がどうのと、版のことを言わないこと。そのA カラヤンは駄目だとかウイーンフィルの音はブルックナーでは無いとか了見の狭いことを言わないこと。そのB 女性には第6番の第2楽章と弦楽五重奏を勧めること。そのC 近所の小学校の音楽室に第七番の第3楽章と第九番の第2楽章のCDを寄贈して鑑賞に使ってもらうこと。 そのD 近所の中学校の音楽室に第八番の第4楽章、第三番の第1楽章のCDを寄贈して鑑賞に使ってもらうこと。またブラスバンド部にそれらのアレンジ版をプログラムに入れてもらうこと。 そのE 近所の高校に第九番のCDを寄贈し鑑賞に使ってもらうこと。また文化祭には音楽部の人逹にハ短調弦楽四重奏を演奏してもらうこと。 そのF 近所のママさんコーラスにミサ曲第三番の数曲をプログラムに入れてもらうこと。 そのG 近所の図書館のCD貸し出しコーナーにブルックナーが備わっていないときはヨッフムのでもヴァントのでも、とにかく全集を寄贈すること。みんなでこれを実践すれば、10年後にメジャー化まちがいなし!?。最近、テイト/ロッテルダムの第九番を聴き直して、各楽章ともブルックナーが言いたかったことだけを完璧に描いた黙示録としての超名演第九であることを再確認。          

  不自然な自然?!

 ブルックナーの交響曲は「自然」、「素朴」、「オルガン的」等いずれも良く目にします。分厚い響きがブルックナーであるとか、重厚なテンポがブルックナーであるとかこれらもよくあります。(音楽はただ聴けば良いものなのに、どうしてこうピントはずれの解説や愚にもつかぬ説明が延々と付属するのでしょう。海賊版のCDはその点理想的です。)「田園」や「アルプス交響曲」等の自然描写とブルックナーとは全然違って、コリン・ウィルソンが「賢者の石」で述べているのは「超自然を現実化する」、或いは「自然と同一化する」音楽であると言う。それはそうかもしれない。彼の「第九」を聴いていると時々「超新星の誕生」とか「島宇宙の衝突」シーンをイメージしてしまうのだけど、これらも広く「自然」の一種なのかも。(往年の名映画「2001年宇宙の旅」のBGMを全編ブルックナーでやっていたらどんなにか素晴らしくなったろうことか)。他の作曲家の交響曲では何種類も繰り返し聴こうと言う気にはならないけどブルックナーだけはいろいろ聴きたくなるのはなぜでしょう?。彼の音楽がストーリー的ではなく情景的だからでしょうか。レコードやCDによる演奏比較は、肖像画やブロマイドだけで美人コンテストをしているようなものなのに、何かハマッてしまうものがあります。結局、「比較」にかこつけて彼の音楽に何度もひたりたいのでしょうか。昨日、大町/東京フィルの第7番にひたってきました。細かいところは色々凝って欲しいところもあったけれど、素直で直線的な解釈で、あの東京オペラシティCHの大天井空間を満たす森林浴ならぬ「金管浴」の素晴らしいパラダイスでした。もちろん弦も素敵だった。木管はもうちょっとデリカシーが欲しかったかな。

  コリン・デーヴィスのオルフェオ盤

 以前から有名なコリン・デーヴィスの謎のCD。謎と言われているだけあって、なぜスケルツォを二番目に持ってきたか真の理由はわかっていないようです。緩抒楽章に悲痛な葬送曲的色彩を持たせたものはベートーヴェンでは交響曲3番変ホ長調と7番イ長調、ピアノソナタでは12番変イ長調「葬送」と29番変ロ長調「ハンマークラビア」が有名ですが、彼は交響曲ではその緩抒楽章を両方とも第2楽章に置いているけれど、ピアノソナタでは両方とも第3楽章に持ってきている(ショパンの「葬送ソナタ」なんかも第3楽章)。ピアノソナタと交響曲では墨絵と油絵の違いなので、後者では強烈な悲劇性は簡単には回復できません。7番のスケルツォは彼の全作品の中でも最高の出来ですが、これを回復剤に使わざる得ないわけです。従って、アダージョ作曲家としてのブルックナーが第6番からその本領を発揮して7番ホ長調では悲劇性を含ませた大緩抒楽章を核に据えたのだけれど、やはりこれはベートーヴェンの3番や7番と同様に第2楽章に置くのが妥当と言うことになります。ベートーヴェンの第9は主調がニ短調ですから緩抒楽章は長調で悲劇性は無く、その上終楽章が圧倒的な規模を有しているので比較対象にはなりません。ブルックナーも第8番では荘重な長調緩抒楽章を第3楽章に置きましたが、強大苛烈な第4楽章を用意してバランスさせています。ブルックナーの第9を聞き終わると何か落ち着かず、また第1楽章を聴くとか他のアレグロを聴きたくなるとか言うのも正にこれが理由でしょう。圧倒的な第4楽章による最終解決が必要なのです。7番の第4楽章だけでは優美で弱すぎると思う。先日、真のブルックナーファンが集ったサントリーホールのインヴァル第8番第1稿を楽しみましたが実に素晴らしく、初期の交響曲のような香りも漂い「原点ぶるっくなー気分」が満点で、ハープと木管の絡みなんかは空前絶後の美しさでした。また終曲ラストもこの方が格調高く余韻が残る。

オルガン編曲のブルックナー  

 7/25(日)にベルンハルト・ハースのパイプオルガンによる交響曲第6番を聴きました。文字通りハース版。楽章と楽章の間にじっくりと時間を取って、瞑想の果てに鍵盤に触れる。演奏が開始されるのを早く早くと待ち焦がれる。彼の演奏、編曲が実に秀逸なことによるのかもしれない。こうした編曲版はCDで4番(シュメグナー)、8番(ロッグ)を聴いたことがあるが、この6番が最もオルガンに合った曲想のように感られる。オケ版ではクレンペラー盤とスクロヴァチェフスキ盤を愛聴しているが、それらよりも深みのある表情が楽しめて、バッハの組曲か何かのように多くの舞曲やプレリュード等の小曲が寄り集まった「曲集のような感じ」を受けたのも新鮮な驚きだった。オケ版ではピアノからフォルテへの変化がうるさすぎる演奏が多い中で、パイプオルガンで聴くと実に自然なひろがりの音楽になっていたこともさらなる驚き。(オーディオ再生の限界と言ってしまえばそれまでだけど、ブル爺さんの本音を身体全体で受け止めた気分?)ぜひ、また聴いてみたい。最近、7番のオルガン編曲版CDを聴いたがこれはお話にならないくらいお粗末。演奏・編曲者を弁護すれば、曲想が合っていないとも言えるように思う。

清浄でまっすぐなブルックナー

 ショルティ/CSOのブルックナー全集を聴き直した。合わせて昔のレコード評なんかを読み直すと、彼に対するものは少なく、あっても「金管が豊かに鳴っているだけ」みたいな言い方をされている事が多い。あるHPに投稿している人だったかが「ショルティの9番が座右の一枚」て言っていたけど、今回聴き直してみると同感するところが多く感じられた。率直で伸びやかな表現。9番3楽章の有名な不協和音表現ひとつとっても、奈落の断末魔としなければブルックナーではないみたいな向きがあるけれど、ショルティは実に音楽的な調和音、五色の彩雲のように響かせる。4番は別として、5番や8番の終楽章なんかの金管もうるささは全くなく、かといって爽やかってものでもなく、木管のソロや弦の美しさを引き立てる荘重で豊穣な表現で金管の強奏の有るべき姿を示しているみたい。私の9番のデフォルトはヨッフム/BPOで、ヨッフム以外にハイティンク、朝比奈、シューリヒト、チェリビダッケを好んで聴いてきている。最近、あるきっかけでマタイ受難曲の説明会に出席して、いくつものアリアで目が潤む事が多くなってしまった。同じキリスト教をベースとした西洋音楽で、マタイのほうは最も具体的神聖で感動的な物語に大天才が最もふさわしい調べをつけているわけだから、誰がどう演奏しようと、極東の無宗教人の一人が感動してしまうのは当然かもしれない。かたやブルックナーは徹底した抽象の世界で、最大規模の器械音源を駆使して多様な音色とpppからfffまで使って神を賛美しているわけで、こちらは指揮者、演奏者で結果が大きく変わるのは仕方の無いところ。以前の新聞のコラム欄に、フランスの極右政党がアジ演説のBGMにブルックナーを多用しているとか記されていたが、記事中に、政敵をこき下ろすBGMとして「おどろおどろしい彼の交響曲が合うのだろう」と述べられていた。しかしショルティの演奏ははとてもまっすぐで気持ち良く、まさに単刀直入で神や自然への祝福音楽として沁み入ってくる。大枚はたいてチェリの全集を買いつつも、「昔ヨッフム、今ショルティ」で全集の楽しみ方の幅がまた広がった感じ。0番、3番なんかもとても素晴らしい。

交響曲へ短調 第00番

 暖かくさわやかなこの曲を、4枚のCDで聴き比べた。スクロバチェフスキ(36:12)、アシュケナージ(43:51)、ロジェストヴェンスキー(52:02)、ティントナー(37:25)の4種類。これらの中で最もブルックナー的な表現をしているのはスクロバチェフスキで、たっぷりと時間を取って悠々と独自の境地で作っているのはロジェストヴェンスキー。最もすッきりしていて気に入ったのがティントナーで、がさっと大きく創っているのがアシュケナージか。第0番がモーツァルトの香りがするのに対してこの00番はメンデルスゾーンやシューマンの香りがする。習作などとはとんでもない、とてもチャーミングな貴重な交響曲に思われる。この曲は1番以降の巨大な作品群とは違う位置付けであって、無理に金管の咆哮や分厚さを表に出したブルックナー的表現は必要なく、素直にさりげなく唄って良いのではないだろうか。その点からみて抑制の効いたティントナーの曲つくりはもっともふさわしく好ましいものに思える。正にブルックナーの「スコットランド交響曲」の雰囲気。

「チェリビダッケの庭」ドキュメンタリー仏映画(TOBW-3501)

 昔、銀座ヤマハで映写会の予告ポスターを見て、予定していながら結局観ていなかったものが、たまたまDVDで店のタナにあった。私も好きな黒澤映画に魅入られたと言う息子さんの作だけに、素直だが味わいのある風景アングルと要所要所をみずみずしく主張した自然、生物描写からのカットの連続で、飽きることが無く、音楽もブルックナー九番を背骨にしてモーツァルトのレクイエムで肉付けし、バルトーク、シューベルト、ハイドンの管弦楽曲をちりばめた、これまた見事な音による起承転結だった。なかで弦楽四重奏曲を使って指揮者志望の学生達に練習をさせているのはとても面白かった。 まず最初の音楽が九番第一楽章のコーダで導入され、ラストシーンが同じく第三楽章のおわりと共に、彼が画面から遠ざかって見えなくなって終結すると言う、思わず涙ぐんでしまうようなエンディングにも深くため息をつくしかなかった。「音楽の始まりと音楽の終わりの同時性」とか、「響きを十分に伝達する必要最適な時間で定義されたテンポ」とかのお話は、物理的合理性と宗教的芸術性のはざまで、理性と感性と悟性がすべて刺激されるすばらしい二時間半で、これはチェリビダッケの音楽に賛成しない人も自然派ブルックナーファンであれば納得できる内容と思う。

コンヴィチュニー/RSOライプツィッヒの第九番(SSS0007-2)

 久しく忘れ去っていた本来の愚直率直なブルックナーを聴いた思いがした。1962/05/22の実況録音とあるが、まさに亡くなる2ヶ月ほど前の白鳥の詩?と言うことになるのだろうか。

昔の録音だからあたりまえかもしれないけれど、昨今、弦を主体に分厚く巨大に創り上げられた九番がもてはやされる中で、切り捨てられてきたブルックナーの姿がしみじみと蘇ってきた。一楽章、二楽章、三楽章とも、それぞれの表現指定どおり繰り返しを素直に繰り返し、愚直な中に真実が浮かび上がってくる、そう言う演奏。

コンヴィチュニーの音楽の創り方が、後半に焦点を置いて、徐々に熱を帯びて、満を持して大向こうをうならせるような構築をしているから、これがブルックナーの交響曲の進め方とぴったり一致している。

緩急強弱も実に自然体で演奏者のテクニックや録音技術を超えて、真のブルックナーが迫ってくる。これこそが彼が九番で語りたかったところなのだよ、とコンヴィ先生の実直な指揮振りが伝えてくれた。最近の超弩級の九番に何かしっくりしないものを感じておられる向きや、高忠実度録音の底なし沼から脱出したい向きにはぜひお薦め。