ロザリン・テューレック逝去  
 

   何とか、一度は実演に触れてみたかったテューレック女史が2003年7月17日に他界された。

ガーディアン紙に記載されたジェシカ・デュッヘン氏の記事を読んで彼女を偲んでみた。

 

 

「あなたはご自分のスタイルで弾かれますが、私はバッハのそれで演奏します。」、これは不屈のハープシコード奏者ワンダ・ランドフスカとの対話の中で、同じく不屈のロザリンテューレックが述べた最も有名で最も彼女らしいステートメントのひとつ。彼女は2003年7月17日に88歳でニューヨークにその生涯を閉じた。JSバッハこそは、この意志強固で、厳しく恐ろしいほどに知的なこのアメリカの鍵盤奏者が、演奏者としてまた音楽学者としてその一生を捧げた大作曲家でした。彼女はシカゴに有名なキエフ朗詠者の孫娘として生まれました。彼女の主要な教師はソフィア・レヴィン、ジャンChiapussoおよびオルガSamaroff (コンダクタ、レオポルド・ストコフスキーのアメリカ人の妻)、およびハープシコードではガヴィン・ウィリアムソン。

 彼女の才能は幼い時から既に発揮されて、9歳のときにシカゴで公にデビュー、16歳でニューヨークのジュリアード音楽院のオーディションを受けた時には、バッハの平均律全曲のほとんどを暗譜で演奏することを申し出て、審査員達を唖然とさせました。すぐ後、彼女はジュリアードの練習部屋での神秘的なエピソードに、自分の将来の方向をはっきりと定めました。それは、バッハのフーガを演奏中に短い間でしたが、無意識をさまよい、バッハの演奏に要する特別なキーボード技術を身に付ける必要があるという内的な啓示を受けて我に返りました。彼女の教師はそのことを聞いて、「素晴らしいが不可能なことです。」と答え、それに対して彼女は教師を変更しました。そのとき以来、彼女はこの捉えがたい概念を追求することを生涯やめませんでした。

 

 しかし、テューレックが注力したものはバッハのみありませんでした。10歳のときに、彼女はロシアの楽器発明者でもあるレオン・テレミンに出会い、彼の姓によって知られた電子機器「テレミン」の音色を聞きました。この体験は彼女に一方ならぬ感動を与えたと見え、ジュリアードでの最初の週に、テレミン演奏志望の学生に利用可能な1年の奨学金があることを知り、ただちにオーディションでぶっつけ本番でイギリス国家を演奏し、受賞しました。カーネギー・ホールでの彼女の1932年のデビューはピアノではなくテレミン演奏でなされました。彼女は、常にロバート・モーグ等の先駆的電子機器(彼らはシンセサイザーの1つを彼女に捧げています。)およびヘンリーBeniof(彼は20年間彼女と電子ピアノの開発に取り組みました。)、を支援し続けました。1935年にニューヨーク・ピアノリサイタルデビューをして、同じ年、彼女の最初の全バッハシリーズの演奏会を行いました。その後、彼女は、ニューヨーク(1944年から1954年まで、および1959年から1980年代まで)、ロンドン(1953年から)、コペンハーゲン(1956年から)、およびパサデナ(1960年代および70年代)に毎年の全バッハ・シリーズ演奏会を行ってきていました。22歳で、彼女はカーネギー・ホールでユージン・オーマンディの指揮のもと、フィラデルフィア管弦楽団と共コンチェルト・デビューをしました。ブラームスのあの巨大な第二番を、彼女の華奢な外見(彼女は身長5ft 2inでした)で堂々と、非常に柔軟な両手を駆使して弾ききったのです。

彼女の若い頃の経歴を見ると、いわゆるスターの座に必要なすべての要件が備わっていました。彼女は米国をよく演奏旅行しました。- 大ピアニスト定番公演風に - 彼女は、専用列車で、ミトロプーロス/ミネアポリス交響楽団一座と演奏旅行していた時のことを愛情込めて、こう語っています。まだ22歳の時に、毎晩、ラフマニノフ第2番コンチェルトを町から町へ演奏していきました。1940年代の初めの録音からは、彼女が気難しいバッハ演奏者ではなく、類稀なヴィルトゥオーソだったことが実感されます―、VAIラベルで、若きファイアブランドのタイトルの元に再リリースされた彼女の一連の録音では、リストのパガニーニ練習曲のはつらつとした演奏を聴く事が出来ます。同様に現代音楽も積極的に録音しました。特にチャールズ・アイヴスのようなアメリカの作曲家の作品、ウィリアム・シューマンおよびデービッド・ダイヤモンド; ダイヤモンドの1947年の最初のピアノ・ソナタは彼女のために書かれました。また、彼女はW.シューマンのピアノ・コンチェルトを初演しました。現代音楽作曲への関心の結果、アーノルト・シェーンベルクに作曲レッスンを受けさせるまでになりましたし、1952年には、米国初の試みであるテープと電子音楽のプログラムを実施しました。こうした経歴は多くの音楽家を満足させたでしょうが、彼女はそこに満足はしていませんでした。1947年のコペンハーゲンでのデビューおよび1953年のロンドン・デビュー(3回のバッハ・リサイタル)で、彼女の国際的名声が確立された後、彼女はさらに自らの境地を開拓していきます。自分のオーケストラ(テューレックバッハ・プレーヤー)を設立し、そしてそれは1960年から1972年まで継続しました。また、彼女はロンドン(1959)で(1958年のニューヨーク・フィルハーモニック定期公演でまた1959年にはロンドンでフィルハーモニア・オーケストラを率いて女性初の指揮者となりました。

 

彼女は様々な形で教職と教授職を引受けていきました。ニューヨーク(1940-44)でフィラデルフィア音楽学校(1935-42)、Mannes音楽学校、ジュリアード音楽院(1943-55)、コロンビア大学(1953-55)等; さらに、1982年から1984年までメリーランド大学の音楽教授、1970年には、Stヒルダ大学(オクスフォード)の生涯フェローになり、3年後にオクスフォードのWolfson大学の客員フェローとなりました。そうした間にも、彼女は、アメリカ同様にデンマーク、スペインおよびオランダからイスラエル、ブラジル、チリおよびアルゼンチンの教育機関で講義をおこないました。彼女の著書には3巻からなる(OUP、1960年)、バッハ演奏法入門があり、また、バッハの作品の校訂をいくつか行っており、イタリア協奏曲(1983)をはじめ、ギタリスト、シャロンIsbinとリュート組の2作品等があります。「私の生涯の大部分の時期は、世界と地域の対立の時代だったように思われます。」と彼女は1993年に私に述べています。そして、正にそのために、彼女はいくつかの音楽研究協会を設立しました。ニューヨーク、1949-53の「今日の作曲家」;1966年、国際バッハ協会、およびバッハ研究学会、2年後のニューヨーク研究所、テューレック・バッハ研究所、ニューヨーク、1966-90、そして最近では1993年のオクスフォードのテューレック・バッハ研究財団(TBRF)です。TBRFは毎年のシンポジウムを開催し、そこでは、音楽から宇宙物理学およびエジプト学まで及ぶ様々なジャンルの優れた講演者が、構造または装飾と言った同じ題材について取り上げました。そうした機会に、彼女はハープシコード、シンセサイザーからスタンウェイまで様々な楽器でバッハを演奏しました。そしてそれは、しばしば1つのコンサート中でいくつかの楽器を弾き分けました。彼女は、バッハは彼の時代の楽器で演奏されるべきであると言った保守的な姿勢をほとんど受け付けませんでした。したがって、1997年のシンポジウムは、先の四半世紀の間音楽界を支配した、歴史的に当然視されてきた確実性の概念に挑戦するために、それが基本的に欠陥であったと主張する様々な学問分野からの講演者らに、多くを費やしてもらいました。彼女は強烈な個性の持ち主で、実際自分自身に対しても他に対しても高い水準を要求し続けました。とは言え、彼女は非常にチャーミングで、知的で、それは彼女の80代中頃でも保持されていました。その頃、私は彼女が頭のてっぺんからつま先までレザー製品で身を包んでいるのに出くわしたことがあります。1964年、50歳のときに彼女はアメリカの建築家、ジョージ・ウォリングフォード・ダウンズと結婚しましたが、(彼は同年、不慮の死を遂げ、彼女は二度と再び結婚することはありませんでした。

1990年代の初め、彼女はオクスフォードに移り、TBRFに多くの時間を注ぎました。彼女は演奏活動も幅広く継続し、セントペテルスブルグ、ニューヨーク、そしてウィグモア・ホール(ロンドン)でコンサートを行い、1998年には、ドイツ・グラムフォンのために、恐らく彼女に最もかかわりが深かったバッハのゴールドベルグ変奏曲の新しいピアノ録音を行いました。彼女はコンサートでこの曲をしばしば2通り演奏しました。始めにハープシコードで、その後ピアノで、と言う具合に。彼女の初期の録音はフィリップス、VAIおよび他のラベルで聴く事が出来、それらは歴史的な名演です。昨年、彼女は住居をニューヨークへ戻しました。テューレックのピアノのスタイルは、かの有名なグレン・グールドに多大な影響を与えたのですが、頑固なまでに正確で、知的で、細部にまで神経の行き届いたものでした。彼女は、例えば、適正な装飾音と言うところにも非常な注意を払っています。しかし、聴衆に常に確信させるものは、その繊細さによって隅々にまで行き渡った、人を動かさずにはおかない白熱するばかりの福音の精神です。彼女は「バッハの司祭長」として迎えられ、正にそれによって、彼女は人の記憶に残されていくでしょう。

 

 
  Rosalyn Tureck, musician, born December 14 1914; died July 17 2003

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