形あるもの全てについて必ず最後がある。館「平成の隠居」の最後はどうなるか、
今のうちにはっきりさせておく。遺言に相当するものだが法的には遺言とはなり得ないので軽い気持ちでしたためる。
館主がパソコンに触れなくなる状態によるのだが、交通事故・突然の病気などの全く余裕が無い状態であれば、大家さんが
館「平成の隠居」をクローズする。大家とはプロバイダーとの契約者の事で、
実は館主は間借り人の立場なのだ。
かねがね大家さんには「館主が亡くなったら、あの世からのE-Mailを替わって出すように」と頼んである。未だMailの中身、
あて先は準備していないのだが大家さんもその気になっている筈だ。ついでに館も閉鎖してくれるであろう。
今年頂戴した大先輩からの年賀状に、「来年から年賀状は失礼します」と書かれているのがあった。
ご本人さん、年賀状をしたためるのも一苦労の健康状態らしい。高齢を省みず無理して賀状を交換してもそれの対価として得られる
「感動・感激」はごく僅かのような気がする。それだっら、はっきりと止めると宣言した方が遥かに良い。
共感する所が多く「最後の締めくくり」は全てについて本人がやるべきと思うようになった。
年末になると「喪中につき賀状を失礼します」の挨拶を何通か戴く。中には本人の代理人からの場合もある。
本人がお亡くなりになった事をその葉書を見て初めて知る事さえあるのだ。ちょっとひどすぎると思うのは私だけだろうか。
そこで、自分が死んだ時にはせめてE-Mailで連絡が取れる人には「あの世からのE-Mail」を届けるのも趣向だと思っている。
十羽一からげなら簡単に解決できる。しかし夫々の人に、「感謝・恨み・××」を込めた最後の言葉を準備し、
印刷したりE-mailするのは大変だ。Excelあたりを使って工夫できないものかと考えている。
良いソフトが出来上がり、「ビジネス」に将来なるような気もするが如何な物か!。
その他大勢には、ホームページの「閉館のご挨拶」を準備しておけばよかろうと思う。「閉館」の前に「休館」があるかもしれない。
パソコンに触る余裕の有る場合には後者となり、館主自らの手で宣言できる。
ホームページのオーナーは是非「休館」・「閉館」をはっきりさせて欲しいものだ。検索エンジンで折角たどり着いたのに「行方不明」
の場合ががままある。我がホームページの最初に考えていた名前は「隠居の館」であった。
同名のサイトらしき物の存在が判り同じ名前もいやだから今の名前としたいきさつがある。
ところが「隠居の館」は館主の事情で休館中らしく代理人がそれらしい事を掲載している。肝心ののホームページにはたどり着けていない。
どうなってるの!
たいした事ではないとしても物事は「最初と最後」ははっきりさせるのが「平成の隠居」のマナーではないだろうか。(04/4/27 雨の日に)
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もう一つの世界
極めてお粗末な話だが、先日ひょっとした事から気が付いたのがタイトルの「もう一つの世界」である。お粗末さ加減を少し詳しく披露してみる。
人間は1日24時間の生活を繰り返している。その中で、「時間が足りない」「お金がない」「健康で無い」「飯がまずい」とブツブツぼやいている。
これらは物理的な時間の制約を受ける世界の話であって、全く無縁の世界があるのだ。誰しもが経験しているのだが余裕がないせいか気付かずにいるように思う。
少なくとも「明石の隠居」は最近まで認識していなかった。
常々、「残る人生を楽しく過ごすには」と考えている中で、結局いかに多くの「感動・感激」を味わえるかにあるとの結論に達した。
しからば「感動・感激」はどうしたら味わえるのかと言うことが課題として残ったままであった。一般論として新しい経験が、自分にとって好ましい物であれば
「感動・感激」が味わえる。好ましいとは、少なくとも自分の過去の経験・それから導かれる予測を上回る事が条件の一つであるとまでは整理していたのだが、
その先が見えていなかった。ところが、先日NHKで放映されたある著名な画家の話がヒントとなり少し前進した。それが「もう一つの世界」なのだ。
人間、誰しも「夢」「想像」「空想」する事が出来る。「もう一つの世界」とは、世の中に現実には存在しない自分の頭の中で作り上げる
「架空の世界」の事である。極端に自分のそれを吹聴すると「あさっての話」とか「ホラ吹き」とか良い方の評価は得られないのが世の中で、
ついそれを口にしなくなってしまう。結局夢見る事を諦め、想像力を衰えさせる結果となる。しかし、それを職業としている人も沢山世の中にはいる。
小説家・画家・作曲作詞家等々数えればきりがないくらい幅広い分野があるのだ。職業としている人々は自分のそれを他人に見聞きさせる事で「感動・感激」
を味わわせる事が出来るし、人間の「感動・感激」のツボを心得ているからお金に換えることさえ出来るのだ。
凡人の我々でもこの「もう一つの世界」を自分なりに工夫すれば「感動・感激」を味わうことが出来ることに気が付いた。
それも普段の生活の中でちょっとした事から始められる。自分が今日まで数多く経験した得意の分野を生かすことも出来るのだ。ただ、
「もう一つの世界」を強く意識し、その世界をどんどん広げ大きくする努力は必要である。
何か物事を始める時、人はアイディアに時間的・経済的・技術的なそれぞれの裏づけをとり、計画に纏め上げている。
これは意識していない場合が圧倒的に多いのだが気が付いていないだけの事と思う。なによりの証拠に結果が思わしくなかった時、「そんなはずはない」とか
「予想外」だとかの言葉が必ず出てくるではないか。そして実行により得られる結果は、殆どの場合計画時の予測範囲に終わるのだが、
この予測を大きく上回る結果が得られる場合がある。この時、人は「感動・感激」を味わうのだ。予測からの乖離が大きければ大きいほど深い「感動・感激」となる。
予測との乖離が大きいのは、未経験の分野・参考となる情報が乏しい・世の中で初めての事・達成が不可能と考えられる事等の場合である。
それを自らの手でつかんだ時のみならず、他人がつかんだ時にでも味わう事が出来るのだ。スポーツ観戦が身近な例としてあげられる。
阪神は滅多に優勝することは無い。しかしファンはあたかも自分が監督になった気持ちになる・・まさに架空の世界・・
「ああでもないこおでも無い」と思いを巡らせ、二死満塁の9回裏、点差3点の場面で代打は使い切ってしまった。残るは投手陣のみ。監督井川を起用、
サヨナラホームランを打って宿敵巨人を負かす。それが優勝決定戦の出来事となれば大いに盛り上がるではないか。
優勝へのありえないシナリ
オを作りその通りの結果となればシナリオを作った人も、シナリオをどおりのプレーをした人も、観戦した人も大いに「感動・感激」が味わえると言うわけだ。
このような現実にはあり得ない「もう一つの世界」を自分の中で作る事は自由である。
そしてそれを実現に向けて色んなシナリオを描き実行してみる。駄目であれば別のシナリオで又やって見る。そして夢が現実として達成できた時、
人は必ずや「感動・感激」を味わうであろう。「もう一つの世界」は世の中に害を与えない限りいくつあってもかまわない。それが痴呆の世界であっては困るのだが!
凡人である「明石の隠居」は余り大きな夢は描いてはいない。小さな夢を沢山持っている。そして、一つの小さな夢を少しずつ広げ楽しんでいる。
残念ながら殆どの夢が予測範囲の中で終り大きな感動を味わえるには至ってない。しかし、夢を膨らませシナリオを描くだけでも結構楽しめるものだ。
最近は「ミミズ」と遊ぶ中で夢を膨らませ、色んなことをやってみている。新しい発見、思いがけない成果も多少は経験している。
人は自己満足としか評価しないだろうが、自分の描いたシナリオの通りの結果が得られるだけでも感激を覚える。他人をうならせる事の出来る結果を早く出し、
HPで披露したいと念じている。(04/10/8 雨の日)
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老後に備えて
平成17年6月6日斉藤実さん(71歳)が、翌日に堀江謙一さん(66歳)がヨットで無寄航世界一周を達成した。それぞれが記録をもつ快挙である。その斉藤さんがTV取材の中で面白い発言をしていた。要旨は「サラリーマンを続けたとしてせいぜい部長になるのが精一杯であろう。そんなものに執着するのではなく、50歳過ぎたら自分の好きな事に挑戦しなきゃー」であった。数ある新聞記事はどれも達成した記録を讃える快挙を報じる内容であったが、TBSの「土曜ワイドショー講座」でこの発言が報じられ、おおいに賛同した。
同時にこれを聞いて、名古屋で100歳を越した姉妹として有名だった故人「金さん銀さん」の言葉を思い出した。それが「老後に備えて」である。TVに出演し貰ったギャラを何に使うかの質問に対する答えで、この人たちいったい何歳まで生きる心算なのだろうと思ったものだ。
しばしば「金さん銀さん」の言葉は一種のさげすみの意味を込めて引き合いに出される。しかし、引き合いに出している本人は斉藤さんの言葉に賛同する一方で「金さん銀さん」との同類項の人が意外と多い。自分も同類だと思って苦笑してしまった。
先日、県立淡路景観園芸学校を訪れた。そこでは園芸療法の紹介がされており、腰より高くしつらえられた花壇でスイカが栽培されていた。腰痛にさいなまされている自分にとって、このような畑であれば助かると思い、わが庭にそのうちに作ろうと大いに参考になった。
その場所を何処にするとか、どれくらいの高さにするとか色々考えているのだが、その考えの中に「老後に備えて」に類するキーワードが多数出て来るのだ。[車椅子でも作業出る様にするには][ミミズのながら栽培に適した構造は][材料費を安く上げるには]等々。
改めて考ええてみるに「老後に備えて」の意味には二つの側面がある。その一つは、「現状維持ができなくなるだろう先に供え、今のうちから準備しておく」の意味合いで実際の年齢とは無関係の場合、もう一つは「年老いてやれる事が限られる」という本来の意味合いである。「老後」というより「将来」の意味合いが強く使われたのが「金さん銀さん」の言葉なのだ。
その「老後に備える」のに、金銭的・経済的な側面は良く取り上げられているのだが、それよりも大事な事があまり騒がれていない。世界で初めて「介護保険制度」が設けられたわが国であるが、つまるところ全てを金銭で解決しようとしている。文化がまだまだ未熟と言うべきなのか?
ヨットの斉藤さんは海の上の航海を楽しんでいる。その準備は若い内からやっていたに違いない。だからこそ「50歳過ぎたら好きな事に挑戦すべき」という言葉が出てきたのであろう。ところが、ほとんどの日本人、働く事そのものが楽しみと思っている人が存外に多い。「団塊の世代」が間もなくリタイヤーの時期となる。どうリタイヤー後の日々を過ごすかを、金銭の側面とは別にかんがえるべきだと思ている。(反省を込めて)
せめてと考え色々トライしている隠居であるが、下の空白はその一つで、園芸療法(暇を持て余している腰痛老人の癒しの場)の準備状況を載せるスペースである。何時になったら埋まるか不明だが、これも一種の「老後に備えて」の為と思っている。(05/06/13記)
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