小倉町便り

<小倉町の歴史>

<内容> 1.第二次世界大戦前   2.第二次世界大戦後

1.第二次世界大戦前

     調査中。情報があれば、ご連絡下さい。ogura.akishino@gmail.com

■弥生~鎌倉時代
アゼクラ遺跡 弥生後期から鎌倉時代にかけての土器、瓦器、須恵器、土師器などが小倉町付近から出土
■古墳時代中期(5世紀頃)
牧野車塚古墳

車塚古墳

(文化庁データベースより)
・前方後圓型ニシテ東面ス前後ノ直徑約五十二間環隍ニ水ナシ前方部ノ前端ニハ發掘ノ跡殊ニ著シク圓筒埴輪ノ破片散在ス
・牧野車塚古墳は、枚方台地の北縁に沿って標高22m余りのところに築かれた古墳時代中期の前方後円墳である。 主軸は地形と平行する東西方向であり、全長107.5m、後円部の直径54.5m、前方部の幅44mを測る。 墳丘の周りに濠をめぐらし、西と南には外堤を設けている。

■平安時代
粟倉郷 下記の類聚国史にある粟倉寺が今の小倉町付近にあったと推定され、このあたりを粟倉郷と称した
類聚国史 弘仁5年(814年)に嵯峨天皇(786-842年)が交野へ行幸されたときに、佐為・百済・粟倉の3寺に綿を施されたという記録が『類聚国史』(菅原道真編纂 892年完成)にある。
「施捨佐為。百済。粟倉。僧尼三寺各綿一百屯」
粟倉瓦窯跡
(がようあと)
現粟倉神社の裏手に開発された住宅開発に際して、昭和47年に2基の瓦窯(瓦を焼成する窯)跡が発見された。 粟倉寺の瓦を造っていた可能性が高いとされている。
粟倉瓦窯跡
渚の院 小倉の隣村にあたる渚村にあった。
在原業平(825~880年)作とされる「伊勢物語」に、惟喬親王が鷹狩りに出た交野の渚にて「今狩りする交野の渚の家、 その院の桜、ことにおもしろし。その木のもとに下りゐて、枝を折りてかざしにさして、上、中、下、みな歌よみけり。 馬頭なりける人の詠める。
  『世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし』
・・・」とある。
■江戸時代
粟倉神社 枚方市史によると「大字小倉字渚の岡 旧粟倉郷後の小倉村の氏神としては古くから有ったが、元和二年(1616年)新に八幡大神を勧請して社殿を造営し、 八幡宮と称し、小倉及び渚村の産砂神と仰いだ」とある。
詳細は、粟倉神社のサイトを参照してください。

2.第二次世界大戦後

  戦後から今日までの空中写真による地域の変遷(各写真の出典:国土地理院空中写真)

1948年の空中写真 1948年(昭和23年)

・小倉、渚、三栗、阪、片鉾の各村が点在

1961年の空中写真 1961年(昭和36年)

・村々の状況に大きな変化はないが、三栗二丁目や黄金野に住宅開発が始まっている

1975年の空中写真 1975年(昭和50年)

・小倉小学校ができた
・渚池や今池が埋め立てられ、住宅地や公園となった
・車塚古墳の横に関西外大ができている

2008年の空中写真 2008年(平成20年)

・関西外大が移転し、車塚公園ができている