人間存在研究

人間とは何か―その本質は言葉である

――言葉、アイデア、イデオロギーが世界を変える――

言語・観念・思想の力で人間と社会の変革をめざそう東西思想を超えて人類の哲学を創造しよう!

by the Life-wordsTheory    to our Reserch for HUMANBEING

Human Being Institute
人間存在研究所

フロイト批判

――生命言語心理学の立場から無意識を考える――

生命言語説にもとづく新しい「心の構造」仮説によってフロイト理論を批判する>

「ああもう嫌だ、あんなこと(不快刺激)見たくもない、考えたくない、思い出したくもない。」
そのような経験はありませんか。大人なら「そうは言いながらも」不快な感情(ストレス)を適当に処理(解消・発散)して、言語的な思考(理性・道理・意味づけ・合理化)によって問題解決の方向を見いだします。

 しかし、親の保護と権威のもとにある子どもには、それがとても難しいのです。幼少期に与えられた不快な刺激(躾けや大人のもめ事、事件など)は、子どもの問題解決能力や適応力を低下させ、無意識のうちに抑圧され、歪めて学習・記憶されます(心的外傷・トラウマ・欲求不満)。その影響は成人になっても続き、不快な刺激に対する異常な否定的感情反応となって、神経症や身体症状(心身症)として現れることもあります。

 さてこのような問題は、どのように解決されるべきでしょうか。フロイト的な精神分析は治療的に有効なのでしょうか。フロイトは、クライアントを寝椅子に座らせ自由連想をさせることによって、医師として独自の性欲理論にもとづいて権威主義的な精神分析(セラピー)を行ってきました。しかし、かれは心(精神)の中で言葉(内的外的刺激)がどのように機能しているのか、言葉がどのように欲求や感情・情動と関わりを持っているかを考えたことがあるのでしょうか。

 そこでわれわれは、心の重要な構成要素である言葉、日常でも最重要な人間の本質である言語に注目します。「言語とは何か」、心の中で言語がどのような働きをしているかの解明によって(「言語とは何か」参照)、行動理論と認知理論を統合した生命言語理論が、心の三要素(欲求・感情・言語)の内的相互関係を明らかにして、否定的感情の処理の誤りから生じる神経症の諸症状の根源を明らかにすれば、心に安らぎと自信(自己信頼)をもたらし(「心を強くする方法」参照)、不適応行動の克服や治療が可能であると考えます。そのようなサイコセラピーやカウンセリングの動きはすでに始まっています(「カウンセリングと心理療法」参照)が、最も頑迷・保守的で人間の心の理解と成長を阻んでいるのがフロイトによる心の構造理論とそれにもとづく治療理論なのです。フロイト理論の心理療法における歴史的役割は、すでに終わっているのです。

(※) 下の不適応行動の過程を模式化した「心の構造・不快刺激の心的処理図」は、無意識を重視したフロイトとユングの「心の構造」と、言語を重視した生命言語心理学による「心の構造」との違いを明らかにしています。生命言語心理学の心の構造図では、意識における言語の役割と、無意識とはなにかを「欲求と感情」によると明らかにしています。さらに、外的刺激と反応の関係を明示して、心は孤立しているのではなく外部環境との相互的・縁起的因果で成立していることを示しています。この図は否定的感情を引き起こす不快刺激中心の人格形成を表していますが、肯定的・意志的感情を加味すれば無意識における欲求と感情のメカニズムが理解できて、ウンセリングの場で役立ちます。また、フロイトの無意識は否定的感情を、ユングの無意識は肯定的・意志的感情(生きる力)を重視していることを想起して下さい。フロイトの心の構造の致命的な欠陥は、心を構成する要素としての感情、とりわけ不安や怒りなどの否定的感情が欠落していることです。フロイトには否定的感情を背景とする神経症の無意識的物語はあるのですが、その根源を理解できないため治療が権威的で失敗も多くなるのです。

不快刺激の心的処理

(※)上の図は仏教の根本原理である人生苦を、欲求を疎外し抑圧する不快刺激によると考え、それが通常(煩悩具足の凡夫にとって)どのように内的に処理されるものであるかを、簡潔に示したものです。

 不快な刺激(欲求の充足を「阻害」し、否定的感情を引き起こす要因)が過大(心的外傷)であったり、処理に失敗すると、心に欲求不満や不快感情が充満し、問題を解決しようとする心の合理的(言語的)処理能力が衰えます。その結果、自己を防衛するために、攻撃や退行のような問題をこじらせる非合理的で不適応な行動となりがちです。

 このように不快な刺激によって起こる内的過程(煩悩)は、心の構造と心的過程を理解し、その人の個性にあった正しい訓練・治療を行えば必ず克服できます。仏教の明智は非科学的で目標が高すぎる面もあるのですが、カウンセリングや心理療法の知識とも結びつくものなのです。

  参照⇒仏教と生命言語説―三毒と心の三要素 今よみがえるブッダのことば 

転換性障害(転換性ヒステリー)の場合 不快な体験(ストレス)の記憶(心的外傷・トラウマ)を抑圧して、想起や連想による不快感情の反応(不安・罪悪感・恐怖等)が起こらないように、自己防衛する心の機能から生じる運動や感覚の障害が現れます。運動機能や感覚機能自体は正常であるが、その活動や認知能力が無意識的に遮断され、随意運動や認知のコントロールが困難になり症状として現れます。不快体験が、再生・想起・連想されることにより、直接不快感情が生起する(表現できる)のではなく、手足が不自由になったり、見えている対象が認知できなくなるような身体・知覚症状に「転換」されます。このようにフロイトのヒステリー治療体験が、精神分析理論の基本となっていることが了解できます。

■ まえがき

 驚くべきことにフロイトの精神分析理論は、理論的にも治療実践的にも批判され尽くされたという理解をしていましたが、ネットの状況を見てみるとそうでもないらしいです。ネットを検索してみれば、相変わらずフロイトの「心的装置論」(エス・自我・超自我)が幅をきかせています。それというのも、人間の心の理論や学問(心理学)が確立していないからでしょうか?人間の心は、脳科学的にも研究が進められていますが、心という概念で統一できる見通しがあるとは言い難い学問的状況でもあります。(ちなみに 2025年7月1日 段階で 「心の構造」を検索すれば、Microsoft の 生成 AI copilotでは 我々の「生命言語説」の心の構造論が、説明の基本になりますか、それに対して、 Google の生成 AI gemini検索では上位になりますが、 生成 AI の説明としては生命言語説は 全く無視(除外)されています。)

 そこで我々の「生命言語論」の立場にもとづく欲求感情言葉(心の三要素)の構造的理解によってフロイトを批判してみます。

 その批判の観点は、本来「自我(ego, self)」の中には、エスも超自我も含んでおり、またエス(情動)に含まれていると考えられる感情は、自我や超自我にも含まれていることが決定的に重要です。 フロイトの主張するように、自我(無意識を含む意識、言語的思考領域)は、西洋思想における「理性」と同様に、エス(欲望)や超自我(道徳感情)から独立した思考・反応能力を持つものとは思われないのです。つまり、超自我というのも 結局、「眠い」 という欲望を抑えるには、「 眠ってはいけない」 という外部からの注意や威圧(否定的感情)を考えた(学習した)上でのことであり、決して 内的な無意識的超自我の働きて目覚めようとしているとは限らないからです。そのかわり、自我の内容(概念、捉え方)に意識的な「言語的思考能力」を加えて、自我(私の心)は「欲求感情言葉」の三要素で構成されていると考え、言語的思考という要素が欲求を抑制していると考えるのです。意識は知的覚醒のもとにあり「言語的思考」と一体のものですが、無意識は「欲求」と「感情」のはたらきを基本としており、それらを構造化(言語化)することで意識することは可能なのです。これは大脳生理的反応としても捉えられます。そうすればフロイトが重視した「無意識的行動」は、三つの感情のうち抑圧されやすい否定的感情の言語化(「思い出すのもイヤ」「思い出したらぞっとする」と言う意識)によって無意識を抑圧するメカニズム(言語刺激)が意識化され、脳科学的な説明が可能になります。

■ フロイト批判の前提 ―感情・情動と無意識について―

 感情や情動について述べるとき,フロイトの創始した精神分析による「無意識」の概念について批判的に触れざるをえません。人間の精神(心的)構造における無意識的過程については,今日では脳神経生理学においてかなり解明されつつあります。それらの知見を取り入れながら,まずは無意識と情動反応,そして不安,憎悪等の不快情動の抑圧と神経症の関係,さらに動物にはみられない自我についての構造仮説を述べ,安心や快楽、自信等の快情動・肯定的感情への解放や煩悩からの救済についても触れ、フロイトの心的装置論を批判してみます。

1.意識と無意識
 人間には,知覚や脳内の自動的情報処理(認識,判断,思考)による意識(自覚)することのない情動反応や行動が存在します。このような表現がなぜ必要かといえば,人間は通常自己の認識や行動についてすべて責任をもち意識的にコントロールしていると思っているからです。しかし人間の行動でも,食事のとり方やドアの開け方,自動車の運転のように習慣的な自動的行動や、催眠・夢遊状態の行動,睡眠中の夢は,自覚されることなく脳内での神経系の回路によって自動的に行われています。

 前者の習慣的日常的な無意識的情報処理過程は,問題状況(心的葛藤)が起こらない限り快・不快の情動反応をほとんど起こしません。また,意識しようとすれば容易に意識化することができます。それに対し後者(催眠・夢遊状態の行動,睡眠中の夢)では,無意識状態の睡眠中に怖い夢を見ると冷や汗をかいたり,夢にうなされるような強い情動反応を引き起こします。また催眠状態の行動や夢遊状態の行動のように,通常の情動反応や行動のようでありながら――実際には通常と違う朦朧状態であるが――意識化されないか、意識化が困難な行動があります。このように人間にとって無意識的情動反応や行動は,ごく日常的に夢や習慣の中に存在しています。 フロイトは,これらの事実に加えて,ヒステリーや強迫神経症等の神経症患者では,不安や憎悪等の不快情動を避けるために意識下に抑圧した情報(表象・観念・否定的情報)が無意識的なものとして存在すると主張し,主に抑圧された情報を無意識と考えました。このように、無意識は<日常的・自動的無意識>と<抑圧的無意識>に分類することができます)

2.欲求と情動(感情)反応
 一般に動物は,欲求充足を促進するため快と不快の情動反応によって行動を自動的(反射的)にコントロールします(快を求め不快を避ける)「欲求は,個体と種族を維持する内的刺激」となって欲求充足活動を誘発し,その活動をさらに活性化するため,交感・副交感の自律神経が興奮と抑制の拮抗的信号を出し,アドレナリンなどの内分泌物質が放出されます。その結果興奮や緊張(そして安静、安息)など、活動的に快と不快の情動が生起し,行動のエネルギーとなります。

 そのとき内分泌や神経伝達物質の量や質に個体差があらわれ,反応・行動の様式も個体によって異なってきます(人格の多様性)。また,欲求充足行動の結果として,充足に成功すれば快,失敗すれば不快の情動反応を引き起こし,次の行動のコントロールを行います。不快な情動が強く、ストレス(欲求不満)が持続すると,実験動物では活動を減退し食欲を失ってやがて死に到る場合があります。人間の場合,意識的判断力や免疫力が低下し,神経症や胃潰瘍など精神的身体的症状(心身症)があらわれる場合があります。

3.欲求不満・ストレスの原因
 高等動物は,快の情動を求め,不快な情動(不安、怒り、悲哀、失望などのストレス,フラストレーション)を避けるか、または解消・克服するように行動します情動は,欲求を充足する行動のエネルギー(興奮や緊張)か,または行動の結果としての快・不快を表出するものであり,基本的に反応です。しかし,この結果としての反応が快であればそれを求め,不快であればそれを避けるか克服する行動の動因,すなわち快楽追求の欲求または苦痛回避の欲求となります(「欲求の分類」のページを参照)。

 通常は,快も不快も永続するものではなく,人間は常に不安定な内的外的環境の中で安定を求めています(内的恒常性の維持)。個体の安定・安全を求めることは,個体維持の欲求の重要な一部です。そのため,人間主体は不断に安定を求めるための適応的な認識と行動が求められます。この過程は無意識的な自然的条件反応過程であり,人間はこの過程を必ずしも意識的に認識(自覚)しているとは限りません。

 人間は,常に自己の情動の変化や行動を意識しているというより,その時々の快楽を求め不快を避けるように行動します。何を快とし,不快とするかは生得的な欲求充足の基準(生理的欲求)に加えて,後天的(生活)経験的に学習された判断・行動様式(条件反応様式――人生観,価値観,道徳,超自我,こだわり等の社会的・文化的欲求)によって日常の問題を解決しながら,無意識的に認識・判断・行動することがほとんどなのです。これらの欲求が実現しない場合欲求不満状態になり、ストレス(否定的不快情動)が発生して不満解消の行動が起こります。

4.適応能力や欲求不満耐性
 人間は,不快な情動の持続を阻止するため
,その情動反応を生じさせる不快情報(嫌悪や恐怖・不安をもたらす記憶・表象・事象)を忌避し,その情報を忘却または抑圧しようとします。人間は,不快な情動に耐え,それを克服し,適応的行動をとるメカニズム(適応機制・条件反応様式)を備えていますが,いつも欲求充足に成功するとは限りません。
 適応能力や欲求不満耐性は、人によって異なり,ある程度以上の不快情動(ストレス)が持続すると,その情報を適応的に判断・処理しきれなくなって正常な発話や行動自体が困難となり,「すくみ(忌避)」反応が起きるかパニック状態となります。このような状態が持続すると刺激に対して過敏になり不安で否定的な情動が起こりやすく,判断力が低下して柔軟性が失われ,強迫的行動やヒステリーなど神経症といわれる適応障害を起こすことになります。

5.適応と不適応の原因
 人間において抑圧された不快「情動(反応)」,その情動を引き起こした不快「情報(表象・刺激)」を伴って記憶・蓄積され,コンプレックス(不快な情報と情動の複合体――特定の情報が特定の情動の原因となることは明らかですが,特定の情動が特定の情報を想起させるかどうかは複雑であり未解明です。)を形成し,現実適応的な判断能力を減退させます。最も影響を受けやすい不快情報と情動は,適応機制能力の未発達な幼少時における否定的な養育環境,すなわち無理解な保護者による緊張に満ちた不安な威圧的人間関係(養育環境)です。

 安全で安心できる基本的信頼感に支えられて躾・養育をされた子どもは,不快な情報・情動に対する適応的な判断力を形成しますが,不信や不安のために不快情動を克服する能力を奪われると,否定的情動に歪められたコンプレックスを形成し不適応な神経症を発症させることもあります。不快情動を伴う問題状況(葛藤)が起こった場合に,その状況に関連のある過去の不快情報・情動(コンプレックス)が無意識的に想起され(条件反応),それによって不快情動が増幅して適応的認識や判断を困難にし(適応障害),病的状態を生じさせるのです。

 なかでも転換ヒステリー症状は,直接的無条件的不快刺激(不快事象・情報)が,適応的判断能力の低下のもとで,他の対象や知覚・運動神経に転嫁され条件づけられたもの(無意識的条件反応の成立)です。しかし,不快情報を生じさせる環境条件がなくなり,また自我(言語的思考)が適応的に不快情報・情動を処理・克服する能力をつければ,病的状態は軽快しまたは健康な適応能力を保つことができるのです。

6.無意識の捉え方
 意識(consciousness)は
――多様な解釈がありますが、次のように定義します――人間にとっては<動物的な意識>と<言語的・理性的な意識>に区分します。前者は直接的感覚刺激(対象)に対する認識・判断に限定されますが,後者は直接的対象だけでなく,自我との関係において言語的に問題とされ(興味関心の対象となる―WHAT・HOW疑問―何がどうあり,どうするか),それにもとづいて構成された文化的社会的創造的世界に対する認識・判断(言語的・理性的判断)をおこないます。一般に人間にとっての意識的な判断・行動とは,自我(エス、超自我を含む認識主体)によって自己と世界が合理化(言語的に問題を整理・意味付けする―WHAT・HOW解明―ことが理性的判断と言える)され、自覚されている判断・行動をいいます。

 基本的には,坂野登が言う「意識化される対象や自己は,言語的裏付けを与えられることによって,その特質に新たな規定が加わるのである」(坂野登『意識とはなにか: フロイト=ユング批判』1985.p18)という立場と同じです。人間的な意識とは言語的な意識であり現実適応的ですが,情動的自動反応に従う認識や行動は,催眠・夢遊状態のように言語的表出があっても現実的・統合的な問題意識を欠いており無意識の状態となります。

 無意識(unconsciousness)的状態は,現実適応的な人間的言語的問題意識に対する概念であり,習慣的自動的行動のように自我の意識が現実を統一的に認識・判断する必要がないか,夢や催眠・夢遊状態のようにその能力を低下又は喪失した状態です。

 ここで問題になるのは,意識的自我の関与しない催眠や夢遊状態,夢における脳内の無意識的情動反応だけではありません。心的外傷体験や克服しがたい不快な否定的情動反応を無意識的に抑圧又は忌避し,広場や尖端,特定の動物,不潔状態等の対象(表象・刺激)に対して不快な条件反応を形成して,神経症的に処理することが起こります。不快情動の原因が転嫁されたり(恐怖症やヒステリー),強迫的行動によって真の原因情報を忌避して不快情動の生起を防いだり(強迫症),退行して現実的適応ができないなどがそれにあたります。

 フロイトの無意識論は,神経症患者の病因と治療の研究から確立されました。しかし,神経症の病因論においては,H.J.アイゼンクの「神経症反応を条件づけられた情動反応」(Eysenck,H.J. 1977.邦訳 P103)と考える方が,科学的分析に近いのです。無意識とは,情動の無意識的条件反応と考えるべきであり,神経症は,否定的情動反応による適応障害と考えるべきなのです(フロイトの非科学性は、脳科学における情動・感情反応の意義を理解していないことにある。)

7.自我について
 
自我(ego)については多様な解釈がありますが、われわれは次のように定義します。自我とは、自己(self)の生物個体を、言語によって現実的世界の中に統一的に位置づける主体である。「言語によって位置づける」とは,自己の存在を言語化された世界の中に合理化(言語化)することであり,アイデンティティー(identity―自分は~である)を確立することなのです。また「現実的世界」とは,自己だけの主観的夢想的世界でなく,他人と共有し相互交流できる客観的世界のことです。現実的世界を言語化し,自己をその中に位置づけるためには一定の社会的学習経験を必要とします。

 自我は,言語をもつ人間にのみ想定され,意欲,意志,感情,価値,知識などをもち言語によって自己と環境の関係を認識・判断します。従って,自我は善悪,利害得失,利己・利他,良心・悪意等すべてを言語化する主体です。人間の言語は,情動や感情に彩られた概念・イメージを含み(concept← concieve),人間の存在や行動を合理化し方向づけます。合理化とはものの見方・考え方,すなわち価値観や行動様式そのものを言語化することによって,自我を言語世界(人間世界)に位置づけるのです。自己が言語的に方向づけられ,自己への認識が定まる(自己概念をもつ,自己を言語表現する)と,自我が形成されたことになります。

8.おわりに ―中庸をめざす―
 以上,繰り返し述べたところもありますが,フロイト学派の精神分析的自我心理学と行動主義心理学を念頭におき,さらに言語の役割を加味してまとめてみました。ここで<快と不快の作用>を付加的に説明しておきます。主体は,個体と種族の維持を求める欲求が実現すると快,危機にさらされると不快の情動が起こり,両者は拮抗的に働きます。例えば,適当な食事で快を得ても,それが過度になると不快を生じます。このことは動物が単純に快を求め不快を避けるように行動するのではなく,快を求めても不快になることがあるし,また不快を避けても快に到るということがあることを示しています。むしろ自然の状態は,快と不快の拮抗的中庸において成立していると考えるべきなのです。アリストテレスはこれをよく見抜き,徳のあり方を「中庸」に置いていました。

 「徳は情念と行為に関わるものであるが,これらにおいて,過超ならびに不足は過つに反して,「中」は称賛されただしきを得るのであって,称賛されるとかただしきを得るということはしかるにいずれも徳の存在を予想する。徳とはそれゆえ,何らか中庸ともいうべきもの――まさしく「中」を目指すものという意味において――にほかならない。」
(アリストテレス『ニコマコス倫理学』高田三郎訳 河出書房 p46)

 快・不快の情動は,欲求実現行動の結果としての反応でありますが,学習によって,快情動そのものを求め不快情動を避けること自体が行動の目的(欲求・動因)となることがあります。これは欲求の分類でいえば,安全保持における苦痛回避・快楽追求の欲求であり,自己表出の欲求をも含むものです。例えば,満腹時でも食後のアイスクリームのデザート(もはや食欲を満たすものではなく,おいしさ(冷たさ、甘さ)という快情動をもたらす観念的人間的対象です)を口と喉と観念は求めても(快情動への欲求),結果として食べ過ぎて気分を悪くすることがあります(過剰摂取)。

 また,空腹時でも人参・ピーマン等特定の食物に好き嫌いがあって食べられない(不快・苦痛回避欲求)場合です。これは神経系における快・不快反応が,欲求充足行動の過程(アイスクリームを快<おいしい>と判断し,人参・ピーマンを不快<おいしくない>と判断する過程)として学習・記憶され,条件反応として構造化されているからです。条件反応の過程は,パブロフによれば臭覚や味覚による直接的欲求充足物(肉片)を動因とするが,やがて学習によって聴覚(ベル音)が間接的に快情動反応を引き起こすようになります。

 人間の場合は,生理的快・不快にとどまらず,意欲や意図の実現に関わる精神的快・不快を考慮しなければなりません。従って,人間における精神の構造,とりわけ無意識的行動を分析する場合,欲求と情動を区分するだけでなく,より高次の人間的欲求を分析するために,情動から感情を分離独立させる必要も生じてきます。感情は,人間の思考過程,創造・想起過程など高次中枢過程とも関係し,快適な情動(感情)自体を追求する文化的領域(宗教、思想、科学、芸術,スポーツ,レジャー等)が広がる半面,快を追求する競争が激化して無意識的な不快抑圧の機会が増大してきます。資本主義的競争を前提とする豊かな社会の中で人間の欲望の肥大化(虚飾化),選択の機会の増大は,快のみを増大させるものではありません。「中庸」を求めることの正しさは,時代をこえる真実と言えます。

 人間の欲求充足の多くは無意識的におこなわれ,無意識の過程に情動による推進・抑制・判断が働いて行動をコントロールしています。人間の認識・思考・判断は,無意識的条件反応的に学習された情動(感情)反応の快・不快を追認するにすぎない場合が多いのです。人間は動物であり,常に理性的に行動しているのではなく,その時々の快・不快が行動をコントロールしているのです。

 社会的に形成された個人のもつ情動(感情)的判断(例えば惻隠・羞悪・辞譲・是非の情からそれぞれ仁・義・礼・智の道徳的判断が形成される等)が<自然に>行われ,道徳的に評価される人物のパーソナリティであれば,孔子のいう「心の欲するところにしたがいて,矩(ノリ)を踰(コ)えず」ということも可能となります。また「孔子」という名を聞いて,無意識的に快反応(快という条件反応)をする人もおれば,反対に不快を感じる(不快という条件反応)人もいるのです。それらの無意識的反応にもとづいて,理由づけはどのようにでもすることができます。重要なのは幼少期に教育環境によって形成される無意識的情動反応です。「三つ子の魂百まで」というのは至言です。

■フロイト理論の具体的批判(自我と無意識について)

 フロイトの創始した精神分析学は,人間の心に「無意識的なもの」が存在することを明らかにし,人間精神の理解に革新的な影響を与えました。しかし,彼の汎性欲説や思弁的な心的装置論は多くの批判を受け,ユングやアドラーが離反し,彼の理論の修正をおこなう新フロイト派などが成立しました。ここではそれらの理論のすべてについて述べることはできません。人間の心の理解のために、人間の心と行動に重要な役割を果たす「感情・情動とは何か」について解明する契機となり,それによって今まで定義困難であった「無意識」と「自我」の新たな考え方が可能となれば目的が達成されたことにします。
 まず意識と無意識の区別から始めます。

 「心的なものを意識的なものと無意識的なものに分けることは精神分析の大前提であり,この区別こそは,精神生活にひんぱんに現れる重要な病的過程を理解し,それを科学の枠組みの中に組み入れる可能性を精神分析に与える。」
(フロイト,S.小此木訳『自我とエス』1970 p264)

 フロイトは,意識的なものは「ある時意識された表象は,次の瞬間にはもはや存在しない。しかしそれは容易に作られるある条件のもとで再び意識される」(同上P264)とし,それを「前意識的なもの」と名づけ,容易に意識されない抑圧された精神の過程あるいは表象(情報)を,力学的な意味で「無意識的なもの」と名づける。前意識的なものは,「潜在的な記憶」とも表現され,前項で述べた習慣的自動的な思考や行動における無意識的過程がこれに含まれるでしよう。しかし,精神分析療法家であるフロイトにとって重要なのは,外傷体験等による不快な情動のために「抑圧」され,想起に「抵抗」が起こる表象とその過程であり,「無意識的なもの」をこれに限っています。

 前述のように無意識的過程を人間にとって自然なものと考えるわれわれの立場から言えば,前意識無意識を「自動的無意識」と「抑圧的無意識」に分けるほうがわかりやすい。その上でフロイトの問題意識である「どのように無意識的なもの(否定的感情反応体験)が意識されるか?」という彼自身の問い(言語的対象化)が必要なのです。すなわち,記憶された否定的体験の表象や情報(事象)を脳内の思考操作によって想起するのは人間の特質であり(高等動物では,外的刺激によって情報の想起が起こりますが,言語による内的自己操作とその刺激による想起はない),その情報操作は,人間が言語によって「何が,どのようにあり,どうするか」という疑問に答える様式で想起し再構成されるのです。これが「意識的な想起」や認識の本質であり次に述べる「自我」とも密接に関わっています。

 しかし,無意識的なもののうち,記憶に存在すれば容易に想起される習慣的無意識(フロイトによれば前意識)ではなく,抑圧的無意識(フロイトのいう否定的情動中心の無意識、思い出せないようなイヤなこと)は,適応的な認識や判断の障害になり,病的な反応や行動(不安や恐怖を伴う神経症)をとらせてしまいます。そこで抑圧的無意識の本質とは何かが問題となります。フロイトにおいては,無意識的なものは「抑圧された表象と情緒」すなわちコンプレックス(否定的で不快な表象・情動複合体)であり,それ以上の分析は困難です。

 「無意識の表象は,抑圧されたのちにも,真の像として「無意識」の体系に残っているが,無意識の情緒にとっては,その体系の中で,実際には発芽しない萌芽の可能性があるだけである。言葉の使い方は非難すべきではないが,厳密にいうと,無意識の表象と同じ意味では,無意識の情緒なるものは存在しない。しかし,「無意識」の体系には,他のものと同じように意識されうる情緒形成が行われるだろう。これらの区別はすべて,表象は充当――根本的には記憶の痕跡の――であるのに,一方情緒と感情は放出過程に相応するのであって,末端のあらわれが,感じとして知覚されるという点からきている。情緒と感情について,われわれの現在の知識では,これ以上この区別を明瞭に表現することはできない。」
(フロイト,S. 井村訳『無意識について』1970 p96下線は引用者)

 フロイトは,表象と情緒(情動・感情)を首尾よく分離していますが,彼自身認めているように明確でなく,しかも表象と情緒のそれぞれの機能の説明は正しくありません。引用文にある「充当」(カテクシス cathexis―情動保持のエネルギー、特定事象への感情的執着)は,表象の中にもありますが,表象はあくまで刺激情報(否定的経験)であり,本来のエネルギーは情動反応としてあらわれるものだからです。情動と感情は単なる「放出過程」ではなく,行動そのものを推進し持続させるエネルギーなのです。

 また「抑圧のさいに,情緒がその表象から分離して,その後はそれぞれ別の運命をたどる」(同上 p97 下線引用者)という主張は,両者が抑圧以前から,刺激と反応という様式で分離しているのだから,両者の関係を正しく捉えていません。さらに「抑圧された表象」は「充当」された不快エネルギーを保持していると考えていることからも,両者の分離が不完全であることがわかります。だから,表象の次元で行われる判断・思考は,情動によって推進されることはあっても,情動によって冷静かつ適応的になされることはまれなのです。そこで 精神分析療法では、「 転移」 という 分析者(治療者)への依存や反発を利用(制御)することによって、無意識に存在する否定的エネルギーを低下(発散)させ、現実に戻して自己理解を進めようとするのです。「情緒の発散」は「意識された代理表象」(不快情動が他の表象に置換されて意識可能となる――例えば,父への恐怖が馬への恐れとなる等)によってなされるとしているのは,現象の観察からは正しいがその理由は示されていません。前述したわれわれの立場からは次のようになります。

 すなわち,記憶された表象(情報)が,不快な情動を生起させるものであれば,その原因となった不快な表象(情報)は,快を求める欲求によって抑圧され想起が困難となります(無意識的な不快の回避)。しかし,不快(な表象)を避けられず快欲求の充足が不可能な場合(不快な環境条件にある場合)は,中枢神経は適応的認識・判断が不可能となります。「嫌なことは思い出したくないし,忘れてしまいたい」のは,人間の自然であり意識的に不快情動の原因(不快表象・情報・刺激)を避けたり,克服したりする(適応機制)ことによって忘却をすることも多いです。しかし,それ(不快刺激の回避や不快表象の想記)が不可能な状況に追い込まれたとき、無意識的過程を通じて抑圧や忘却が行われ,それが日常の不快情報・刺激(広場や対人場面等)に直面するごとに病的な症状(広場恐怖,対人恐怖等)となってあらわれます。何度も指摘するように幼少の子どもにとっては,意識的・合理的に不快情報・刺激を避けることは困難であるために,それが心的外傷となって抑圧による無意識的忘却,もしくは想起障害,そして思考や情動・行動異常が起こるのです。

「情動や欲求が抑圧されたように見えるがそうではなくて,抑圧され無意識化されるのは,情動や欲求の意識への代表物であり表象である。」
(坂野登 1985,P208~9)

 フロイトの「無意識的なもの」の分析の不十分さは,情動・感情理解の不十分さであり,神経症を生じさせる環境,すなわち不快な情動を生じさせる表象・情報・刺激の改善(環境調整、家族療法の必要性)よりも,神経症者本人にのみ苦痛を強いる精神分析療法の不十分さにつながるのです。つまり フロイトの無意識解釈の誤りは、「意識化しにくい人間の欲求や感情」を無意識過程の中に位置付けることができなかったために、無意識過程自体を神秘化、すなわち心の構造自体を否定的感情面に矮小化してしまった ことにあるのです(「心とは何か」参照)。

■ 自我と抑圧・抵抗について。

 「意識は,この自我に結合しており,運動機能への通路,すなわち,外界に亢奮が排出される通路を支配している。それは精神の法廷であり精神のあらゆる部分過程の調節を行い,夜になると眠りにおちるが,それでも絶えず,夢の検閲を続けている。抑圧もこの自我から生じ,それによって精神のある傾向は,意識から閉め出されるだけでなく,他の種の価値や活動からも閉め出されるに違いない。このように抑圧によって排除されたものは,分析のさいには自我に対立している。そのため精神分析には,自我が抑圧されたものと一緒にはたらくのに反対してあらわす抵抗を,止揚するという課題が課せられる。」
(フロイト,S. 前出 邦訳 p267~8.下線は引用者)

 この引用で,「意識と結合する自我」と「それから分離され抑圧されたもの」の対立が考えられていますが,自我がすべて意識的とは限りません。抑圧するのも自我なら,自我にも無意識があるというのです。・・・ここでフロイトに混乱が起こります。彼によれば,「意識は自我に結合」しており,夢の中(無意識状態)で検閲をしたり,無意識的な「抑圧も自我から生じ」るように,自我も無意識的に働くのです。この混乱の解決は,無意識から「情動・感情」の働きを抽出しなければなりません。「情動・感情」は反応ですから,情動・感情をコントロールするには,反応を起こす現実の状況や認識され記憶された表象(これらは中枢に集積する情報であり,情動・感情を反応させる刺激である)を,自我によって理性的にコントロールしなければならないのです。

 しかし,現実に状況がこれを許さない(複雑で否定的な人間関係を忌避できない)なら,不快な刺激が起こらないか、または認識されない方法が考えられねばなりません(環境調整)。家族の問題であれば,別居,離婚,旅行,趣味等いろいろありますが,それらの工夫ののち,もし意識的な解決が困難なら病的な状態(適応的判断力の喪失ないし異常反応)になることが予想されます。人間の中枢神経は,ある場合(問題解決が困難な場合など)には無意識的に,自我や理性・思考という意識的な機能の助けを借りないで否定的状況を抑圧することになってしまうのです。

 情動反応のメカニズムについてはすでに述べました。不快刺激に対して,それを避ける緊張情動として不安,抑鬱,悲哀,怒り,恐怖等がありますが,これら(刺激情報)が持続すると適応的な判断力・思考力が低下し,理性的認識・判断は困難となり,攻撃や代償,退行等の防衛機制を行うようになったり,さらには病的状態に陥ります。そして,不快刺激(表象・情報)そのものの想起を抑圧し忌避することが常態化します。

 「抑圧」や「抵抗」は,フロイトの言うような自我のはたらきではなく、否定的刺激表象への無意識的な否定的情動反応なのです。抵抗を起こす不快「情報(刺激)」はコントロールできるが,無意識的に反応する情動そのものをコントロールすることは難しいのです。愛する人と別れるとき涙をこらえようとしますが,その状況を「自分のこと」として想起する限り悲しみは去りません。情動の生起を理性的意図的に我慢したり抑制することは,その原因となった状況(情報・刺激)を,知覚や記憶から遠ざけない限り困難です。人間は,不快情動の生起を避けるために,その情動を引き起こす情報(知覚対象や記憶表象)を避けるか,その情報を想起することに抵抗をするのです。

 フロイトは,情動を情報・表象から厳密に区別することはできず,無意識的表象は,言語化されずに不快な情動と共に抑圧されていると考えています。さらに無意識的表象が認識されるためには,前意識的表象になる必要があり,前意識的表象の特徴は,言語表象との結合であり,それゆえコントロール可能であるとしています。「勉強のことばかり言うお母さんは嫌だ」のように,その反応(嫌な思い―情動)の対象化と言語化が,刺激情報への自覚的意識的対象化につながります。つまり,神経症患者において不快を起こす無意識的表象は,分析家に助けられて不快情動を克服し,それとともに言語化されなければならないのです。

 「何か〔無意識的事象〕が,いかにして意識されるかという問題は,より目的にかなった形で述べれば,何かが,いかにして前意識的になるかということである。その答えは,それに対する言語表象との結合によって,となるであろう。」
(フロイト,S. 前出 邦訳 P270.下線は引用者)

 ここでフロイトは,人間の意識や自我が言語と深いつながりがあることに気づいており,言語の役割を,精神分析の「前意識的な仲介者」にしています。しかし,無意識の意識化は言語が必要ですが,それは分析家にのみ可能なのではなく,分析家はその条件を与えるにすぎません。真に意識化するのは適応的判断力を獲得した患者本人です。人間は安定した精神状態の中でこそ,自らの無意識状態を言語化し,現実生活の中に位置づけることができます。

 次に心的装置としての「自我」の批判的考察に移ります。フロイトにとって自我とは,快感原則に支配されたエスから分化し,知覚体系に由来する精神過程であり,理性又は分別と名づけるものを代表します。従って,自我は情熱的なエスの味方であるとともに,エスを知覚体系から得られる現実原則に従わせようとします。彼は自我は奔馬を操る騎手であると考えています。

 「騎手はこれ[奔馬の統御]を自分の力で行うが,自我はかくれた力で行う,という相違がある。この比較を続けると,騎手が馬から落ちたくなければ,しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように,自我もエスの意志を,あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように,実行に移すことがよくある。」
(フロイト,S. 前出 邦訳 P274)

 そして自我は幼少時の父又は母への同一視や置き換え(愛憎を伴う)を通じて超自我(良心・理想自我)を形成します。超自我は,エスの代理人として全体的に自我と対立します。自我,エス,超自我の関係について彼は次のように述べています。

 「エスは遺伝されたもの,超自我は本質的には他者からうけついだものである。しかるに一方の自我は自ら体験したもの,とりもなおさず偶然的であり現実的であるものによって規定されているのである。」
(フロイト,S. 前出 邦訳 P276)

 彼は,良心や道徳(超自我)の起源が幼少時のエディプスコンプレックス(両親への複雑な感情)と深い関係があると考えます。しかし,良心や道徳は,情動的な条件反応と考えるわれわれの立場からみると,彼の解釈は事実を反映している面があるとはいえ,父母の養育態度と子どもの学習を文学的に表現したにすぎません。すなわち,良心や道徳の形成には,両親と子どもの間の葛藤はありうるとしても,必然的なものではありません。むしろフロイトの思弁は,ヨーロッパ的家父長制度における男女差別の葛藤の所産にすぎません。成長する子どもと社会的規範を教育する養育者との葛藤,そして子どもの養育者からの自立は,養育者が誰であれ不可避の過程なのです。動物の例をみても,雌雄の親からの子どもの自立は,独り立ちさせるための厳しさとともに,優しさや思いやり,和の精神も本性的にもっているのです。

 それでは,自我とは何か。フロイトはヒントをつかんでいます。それはいくつかの防衛機制の中の一つである「合理化(言語的意味づけ)」です。
「できることなら,自我はエスとのよい間柄をたもとうとし,エスの無意識的な命令を自我の前意識的な合理化でおおい,たとえエスが頑固でゆずらないときでも,現実の警告にたいしてエスが従順なようにみせかける。自我はエスと現実との葛藤,できることなら超自我との葛藤をももみ消してしまおうとする。」
フロイト,S. 前出 邦訳 P297 下線は引用者)

 しかし,「合理化」の本質は,エスの無意識的な命令(衝動)によって生じるエスや厳しい生活の現実,さらに超自我に対する自我の葛藤を合理化することによって,もみ消して(誤魔化して)しまうことにあるのではありません。「合理化」とは,主に否定的な情動を生起させる様々の情報(表象・事象)を言語化し,それらを相対化して情動そのものの否定性・不快性を解消(ないし無害化)しようとするだけでなく不快情動の生起そのものを刺激しないようにするものです。情報の言語化は,不快の由来(原因の情報)そのものを,ある場合には自己中心的・防衛的に意味づけ,情動反応の方向転換をさせることができるのです。イソップの「酸っぱいぶどう」の寓話は,言語による情報の操作(再構成、言い訳)によって,情動(不快情動―欲求不満の情動)をも操作する力をもつことを示しています。

 そして,この言語の力が,自己主体を世界の中に言語化し意味づける決定的な役割を果たし,その結果構成された「私」ないし「私は~である」という確信(情動的安定や自信)が「自我の本質」となるのです。さらに仮説として付加すれば,自我とは「言語による自己の意味づけと情動との複合体」であると言えるでしょう。自我は,適応的な言語的判断力・思考力を有する場合には,自己を世界の中に意味づけ適応的行動をとることを可能とするのです。

 別稿の「心の構造」分類した意志的・肯定的・否定的の3つの情動のうち,意志的情動とそのエネルギーに支えられて人間が獲得した「言語によって自己を世界へ位置づけること」こそが,自我の本質です。自我という言語的思考力と意志の主体は,否定的情動において不安定なばかりでなく,肯定的情動においても安定しているのではありません(肯定と否定は相対的なものが多い)。生存への意志(的情動)に支えられてこそ両者の均衡の上に安定的な自我となりうるのです。人間は,喜怒哀楽,否定と肯定,不快と快のような相対立する両価値的情動と,好奇心,成長,自己表出等の生存への意志的情動のエネルギーによって行動し,その行動様式を学習しながら言語によって世界の中に自己を位置づける(合理化する)のであり,その言語的主体を「自我」とするべきなのです。

■ フロイトの誤りの背景

 以上フロイトの無意識と自我の捉え方とその誤りについて批判をしました。では彼はなぜこのような誤りをすることになったのか。2つの点についてまとめます。

 まず《第一に》,無意識の領域に属するエス,欲動,情動(感情)という概念の曖昧さが問題となります。おそらく彼は,欲動(Trieb,本能)ないし情動(Affekte,感情)と,それらの本能的エネルギーに結合した表象(情報,刺激)を,曖昧なままで「無意識的なもの」と考えたのでしょう。しかし,すでに述べたように,ドイツ語の欲動に比すべき英語の欲求(desire)は,個体と種族維持に関わる生得的活動や目的(安全,食欲,性欲等)を実現する動因(英語 drive,ドイツ語 Trieb)であり,神経的レベルでの内的情報処理基準にすぎません。そしてその欲求充足を基準として外的行動の直接的推進力となるのが情動なのです。従って,欲求は日常的に充足されているとき情動の変化はほとんどなく,脳内の情報処理にとどまります。しかし、欲求が制止されたり,内的外的変化の強い刺激を受けるときに情動(快・不快)の生起があり、快を求め不快を避ける行動が生起します。愛されることは快楽であり嫌われることは不快になるのです。不快な情動とそれを引き起こす事象は、解消できなければ(欲求不満)抑圧されやすく、通常の判断力を歪めます(適応機制)。このような心のメカニズムを理解せず、「幼児性欲」や「エディプスコンプレックス」のような物語を創って、抑圧された過去の否定的事象を連想・想起させ、そこに意味を見いだして「無意識の意識化」やカタルシス効果(序反応)などを活用しようとしたのです。欲求と情動・感情を明確に分離しないでことからフロイトの混乱が起こっているのです。

 <欲求>にも充足のための判断の基準として強弱があり,欲求自体も刺激エネルギー(情報処理的エネルギー、動因)です。しかし問題を解決するには、<情動>のもたらす追加的エネルギー(行動的エネルギー、特に否定的情動、ストレス、欲求不満)が必要となります。情動は刺激に対する反応であり,特定の欲求(安心や安全欲求)を充足するために特定の内的外的刺激(危険)が存在し,それに対して特定の情動反応(危険回避)が起きます。情動の生起によって行動が推進され,その結果(欲求が充足されたかどうか、快か不快か)に応じて欲求を充足するための反応・行動がおこり、神経レベルの情報処理的・経験的学習がおこなわれます。

 フロイトは、神経症の原因となる抑圧的・否定的(不快・ネガティブ)情動が,情報処理レベルの認識能力に与える「抑圧」の否定的病的影響を主に分析し(半知半解だが方向は正しい)、精神分析による根本的治療を試みました。しかし,否定的情動の生じる主な要因が性衝動と関係している(とりわけエディプス期におけるペニスをめぐる心的外傷)と考えたために,幼少時の人格形成期における自己中心的行動に対する人間社会・人間関係・家族関係・親子関係(における性忌避の価値観)そのものの抑圧的性格をみぬけませんでした。また「無意識的なもの」における「欲求」「情動(感情)」「欲求・情動と結合した情報(表象・事象)」の三者を明確に分離することができなかったために,「自我,超自我,エス」という,今日の脳生理学では検証不可能な心的構造を描くことになってしまいました。このことの限界をフロイト自身は自覚していたと思われます。

「自我とエスとに前意識と無意識との質を区別することと並行的であるが,心的装置を局在論的に分解することをなしおえ,この性質とは単なる区別の徴表にすぎないものであり,その本質をなすものではないのだとするとすれば,いったい,エスにおいては無意識の性質,自我においては前意識の性質をとおして明らかにされる状態の本性はどこに成立するのか,この二つの差異はどこにあるということになるのであろうか。いまは,この点についてはなにもわからないし,この無知の真暗い背景に対してはわれわれの貧弱な洞察しかない点は情けないことだが,きわめてきわだってみえる。」
(フロイト,S.『精神分析概論』懸田訳 P289 下線は引用者)

 しかし,フロイトの後継者は自我とエスとの区別の本質に対して「貧弱な洞察しかない」という心的装置論そのものの限界を覆い隠し,精神分析の治療的かつ記述的積極面を永続させるために,「自我心理学」として精神分析理論の「適応」を図ったのです。

 そこで次にフロイトの誤りの《第2に》,彼の後継者が確立したとされる自我心理学とも関連する「言語理解の不十分さ」についてまとめます。彼は,前にも引用した論文「自我とエス」において,無意識的なものの意識化は,無意識的なものと言語表象との結合によってなされ,「自我の前意識的な合理化」が超自我との葛藤をもみ消してしまおうとすることを分析しています。また晩年の『精神分析概論』でも「自我の内的過程に対し意識性の性質を与えるような言語機能の仕業」について述べています。このことから,合理化や意識性における言語の重要性に気づいてはいたと思われますが,最終的には「無知の真暗い背景」として,その考察を断念せざるをえなかったのです。

 さらに後継者であるA.フロイトは,自我と防衛機制について理論化しましたが、次のように言語を知性化の中に解消してしまいました。

 「衝動の知性化,つまり衝動を言葉でいいあらわし,意識的にも処理できるようにし,衝動を自由に支配しようとする試みは,自我の最も一般的で,最も早くからあらわれ,最も必要な学習的習慣である。知性化は自我が営む活動というより,むしろ,自我の欠くべからざる成分であるように思える。
(フロイト,A.『自我と防衛』外林大作訳 p244ー5 下線は引用者)

 実は,A.フロイトによる知性は,言語によって構成された情報(表象・観念)であり,言語刺激が情動を刺激すると同時に,情報を操作することによって情動行動を操作する(関心をそらす)ことができます。しかし,彼女は「知性化」の力動性を分析せずに,父フロイトの三つの心的装置論を基本的に踏襲し,より言語的力動性をもった「合理化」という概念を放棄してしまいました。人間の心を正しく分析するには,言語そのものが情動に与える刺激としての影響を追求する必要があったのです。

 さらに,H.ハルトマンは,「葛藤外自我領域」という概念によって健康な人間には,「知能」や「思考」を含む「適応」の機制があることを理論づけし,A.フロイトの消極的防衛機制から,自我の積極的な適応の働きを強調し自我心理学を確立しました。彼は「精神発達は,単に本能衝動や愛の対象,超自我等との戦いの結果として生じたものではない」(Hartmann,H.1958.邦訳p26)と述べ,フロイトの汎性欲説からの脱皮もはかっています。彼による「思考」と「知識」の概念は「自我の調節原理」を強化しようとするものであり,認識論的発展の可能性をもっています。しかし,フロイト的心的装置論を前提としている上に,「知能」という曖昧な概念で適応を説明しようとしたため、人間心理の本質から遠ざかることになりました。

 「わたくしたちは知能のさまざまの機能,たとえば理解・判断・判断力などを,いつも区別できるわけではない。そしてまたわたくしたちは,それらの機能の発達,それらと知覚との関係,言葉との関係などについても論ずることはできない。」
(ハルトマン,H.『自我の適応』霜田・篠崎訳 p104)

 彼が述べることのできなかった「言葉との関係」は,「思考と言語」のページで解明していますので、是非ご覧下さい。

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■まとめ 「フロイトの心の三層構造論」を克服する意義(要約)」

フロイトの「心の三層構造論」における自我と超自我は分離することはできません。できるとしても超自我が、親や社会の規範・道徳から形成される良心のようなものだとすれば、現実原則に従って働く心の調整役としての自我には、超自我を含まなければ自我的思考や調整は働きようがありません。なぜなら、自我は超自我を含みながら成長するものだからです。フロイトの言う超自我は、無意識的な反応様式(欲求の実現や感情的判断)の上に形成された価値観(道徳的価値判断)であり、その無意識的判断は生得的な欲求や感情反応の強弱や緩急・敏鈍等の気質的な要因を基礎に、幼少期の環境によって形成され、自己の欲求や感情などを調整・意味づける自我の基盤・判断基準ともなっているのです。つまり自我の働きは、生育歴(成長)の過程で超自我とともに形成された一体のものなのです。したがって、通常は、自我自体は、超自我から分離・独立して判断・調整する必要はないのです。ただ神経症のように、心や行動が日常的に調整・統制できない場合(ノイローゼ状態)は、心の分断が引き起こされることがあります。それは外的刺激に過剰な感情反応(主に否定的反応;不安、怒り、恐れ、嫌悪、拒否など)をするため、認知や判断機能において自我の統制(や認知)が困難になるためです。

したがって、否定的で過剰な感情反応による自我の混乱(分断)した状態(神経症状態)といえども、また、それによって超自我や無意識(過剰な否定的感情や倫理観・良心)が、自我(平常心)から主観的(独断的)に独立したものとフロイトが判断したとしても、論理的思考や知覚・記憶といった自我の機能が、超自我から独立(分離)したものという三層構造の見解は、「西洋的幻想または臆断・偏見」に過ぎないのです。その意味で、デカルトに始まる西洋近代特有の自我(独: das Ich、英: ego:正常な理性的論理的自己意識・認知判断力)という概念は、通常の人間の判断力を混乱させる過剰な否定的(不快)感情反応と肯定的(快)感情反応を、自我や超自我(価値観)から分離・抽出・意味づけすることに失敗(無視)している点で、大脳生理学的に曖昧で、科学的検証に耐えるものではありません。このようなフロイトの「心の三層構造幻想」等から生じた精神分析療法の権威主義的な発想や独断による治療の失敗が、C.G.ユング、A.アドラー等の盟友の離反や、来談者中心療法を提唱したC.ロジャーズや行動療法を提唱したH.アイゼンクなどの批判することになったのです。

そもそも精神分析の理論においては、快感原則によって自我による調整(規制)のもとに心的なプロセスが自動的に進行することは、自明のこととして想定されています。快感原則は、心的エネルギーの増減によって心的現象を理解しようとする精神分析の基本的な考え方であり、心的な活動は全体として快を求め不快を避けることを目的とするものである(欲動論)とされています。しかし、快や不快の感情反応(!だから無意識)は、生命存続の目的ではなく、「個体と種の存続」という目的(欲求)を実現する判断基準(快を求め不快を避ける)であり、その目的と判断と行動自体は欲求(目的)実現の過程なのです。その意味で、人間の「心の構造」の理解のためには、生育の過程で生得的かつ習得的に、そして「無意識的に」形成される価値観(超自我を含む判断基準・反応様式・生活様式・人格)は、判断基準としての快・不快感情やその強弱、敏鈍、忌避・防衛などの反応基準の明確化のために、また無意識的な欲求や感情の言語的形成過程を理解する上でも、心の構造の一要素として不可欠であり、フロイトの心の三層構造の仮説は(一定の神経症状理解には役立つものの)根底から見直さなければならないのです。そこで、心の真の理解と混乱の予防・治療、さらには永続的幸福の実現のために提案するのが、生命言語説に由来して「心の三要素:欲求・感情・言語」を中心概念とする「心の構造」ということになるのです。
                                   (改正 2025/07/07)

参考<アイゼンクによるフロイト批判>

 「フロイト以前に多くの哲学者、心理学者、それに生理学者までもが無意識を想定していた事実には疑問の余地がありません。フロイトが「無意識」を発見したと考えるのは、全くナンセンスです。無意識の理論に関連して、高名なドイツの心理学者で、記憶の実験的研究をはじめて行ったエビングハウスは、次のような不満を述べています。「無意識の理論で新しい部分は真実ではなく、真実である部分は新しくない。」この言葉はフロイトの無意識の理論ばかりでなく、全ての業績にぴったりと当てはまるうってつけの墓碑銘です。」(『精神分析に別れを告げよう フロイト帝国の衰退と没落』HJ.アイゼンク 宮内勝 他共訳 批評社1988 p36


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