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プリュミエの航海の謎

voyages of C. Plumier

プリュミエの航海

現在、フクシアについて初めて記載したヨーロッパ人はフランス人Charles Plumier (シャルル・プリュミエ、以下プリュミエ) とされています。
また彼は、難破により貴重な標本を失ったものの、書類は別船で本国に送っていたのでフクシアの図版を作成できた … というのがよく聞く話です。
しかしこの通説を確認しようとするとき、私たちは謎に突き当たります。
 

記載というのは、植物の特徴を詳細に観察して文章で記述するという意味です。
結論から書きますと、フクシアを発見した年とその周辺情報は資料によりまちまちです。
ネットや市販の書籍を見ると、同じ文書内ではつじつまが合うのですが、異なる資料間で対照したときには年代の食い違いに出くわして戸惑います。

プリュミエはいつフクシアを発見したのか? それは何回目の航海だったのか?
どうもよくわからないのです。

けれども、食い違いがあるのを知るだけでも意味があるかもしれません。
そんな思いから、プリュミエの航海とフクシアの発見について書いてみることにしました。

情報はできるだけ整理したつもりですが、わかりづらい箇所もあると思います。
ここから先は、どうぞお時間のあるときにのんびりとご覧になってください。

(途中でイヤになるかもしれません …)

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2冊の本

まずは手元の本を開いて見ましょう。原文の引用と訳文の繰り返しですので、読むのに根気が必要かもしれませんがどうかお付き合いください。

最初に紹介するのは、育種で有名な Edwin Goulding による FUCHSIAS The Complete Guide です 1)
この本は、フクシアの発見について次のように述べています。青字は管理人YoYoによるものです。
The first recorded fuchsia was discovered by Père Plumier, a French Catholic priest, from the order of Minims. Unfortunately, all his plant specimens were lost in a shipwreck in 1695. Drawings of the plant, however, appeared in his Nova Plantarum Americanum Genera (1703), and were labelled ' Fuchsia triphylla flore coccinea.'
「記録に残されている最初のフクシアは、ミニム会のフランス人カトリック僧、プリュミエ神父より発見された。残念ながら1695年の難破ですべての植物標本を失ったが、フクシアの絵は彼の Nova Plantarum Americanum Genera (1703年) に掲載されて、 'Fuchsia triphylla flore coccinea' (訳注:赤い花を咲かせる3枚葉のフクシア) と命名された」 (訳文は管理人)

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これだけを読みますと、「ふむふむ。プリュミエは1695年かそれより前にフクシアを発見したのだな」 と思えます。

次に紹介するのは、イギリスフクシア協会元会長 Leo Boullemier による The Checklist of Species, Hybrids and Cultivars of The Genus Fuchsia (以下、The Checklist) です 2)。青字は YoYo によるものです。
Plumier was able to exploit his now excellent knowledge of botany when Michel Begon, the Ex-Governor of Saint-Dominico, and at this time the Intendent (sic) de la Marine at Marseilles, decided, with Royal consent, that a full botanical survey of the Antilles should be made in order to find new drugs and herbs to combat diseases, and to open up the Colonies. (中略) He made further journeys in 1693 and 1695, to both the West Indies and the French possessions in America, to carry out more detailed studies of the flora. It was on his return from the second of these expeditions that Plumier was shipwrecked, and all the specimens that he had collected were lost.
「こうして獲得した高度な植物学的知識をプリュミエが発揮できたのは、サン・ドミニコ (Saint-Dominico) *後述元総督で当時マルセイユの Intendent 〔ママ〕 de la Marine (海軍監督官?) だったミシェル・ベゴン (Michel Bégon) が、病気と闘うために新たな薬品および薬草を発見し、植民地を開拓するには、アンティル諸島の植物を詳細に調査すべきだと王の同意の下に決定したときだった。(中略) プリュミエは、その後1693年と1695年にも、西インド諸島およびアメリカ大陸フランス領に赴き植物相をさらに詳しく調査した。彼は2回目の探検の帰路で難破し、収集した標本をすべて失った」 (訳文は管理人)

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2回目の航海とは1693年の航海のことですね。
Goulding は 「1695年の難破」 と書いていますから、Goulding と Boullemier の話を組み合わせると、「プリュミエの2回目の航海は1693年に始まり、帰路の1695年に難破して標本をすべて失った(らしい)」 となります。

上記の引用にはありませんが、Boullemier は彼の別著 FUCHSIAS に次のように書いているところから 3)、プリュミエが1回目の航海に出発したのは1689年としていることがわかります。
Between 1689 and 1697 Father Carole Plumier, a Minim monk and one of the eminent botanists of the day, was looking for cinchona trees - the trees are a source of quinine, used in the treatment of malaria. In the foothills of Santo Domingo he found an unusual plant with scarlet flowers and coppery-bronze foliage.
1689〜1697年にかけて、ミニム会の僧であり当代きっての植物学者でもあったシャルル・プリュミエは、マラリアの治療薬キニーネの原料となるキナノキを探していた。彼は、サント・ドミンゴの丘陵地帯で深紅の花と銅葉を持つ見慣れぬ植物を発見した」(訳文は管理人)

ええ〜っと、もう一度書きますが、「プリュミエは1693年に始まった2回目の航海でフクシアを発見して、帰路の1695年に難破した (らしい)」 というところまでたどり着きました。
ところが、そうは問屋が卸さないのです …。


"Plumier" と "1696"をキーワードにして検索してみてください。

「1696年頃にフクシアを発見した」 とか 「1696/1697年にフクシアを発見した」とするサイトや書籍がヒットするはずです。

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プリュミエの航海年とフクシアの発見年

フランスのロシュフォールに CONSERVATOIRE DU BÉGONIAS という施設があります。
詳細は承知していませんが、ベゴニアに特化した植物園で、住所は "1, rue Charles Plumiers" (シャルル・プリュミエ通り 1)。
プリュミエはベゴニアを欧州に紹介した人物でもあり、この植物園のサイトにはプリュミエに関する解説があります 4)
解説を読むと、Histoire des Sciences naturelles (自然科学の歴史、1843年) では 「第1回目の航海を1689〜1690年、2回目を1693年、3回目は1696〜1697年」としていることがわかります。

「あれれ?Boullemier は3回目の航海の始まりを1695年としていたはずなのに …Histoire des Sciences naturelles では1696年になってるよ」 となります。それに 「Histoire des Sciences naturelles では、2回目の航海が1693年内に行って帰ってきたように書かれているじゃない」 ともなります。

さらに、「1696/1697年にフクシアを発見したのなら、それは2回目の航海ではなくて3回目の航海で発見したことになるじゃない?」 と疑問が湧きます。
また 「Goulding が言っている1695年の難破はフクシアを発見する前のことだから、この難破でフクシアの標本を失うはずがないのでは?」 となります。


このように、フクシア発見の話について複数の資料を読むと、頭がこんがらがるのです。

管理人は誰かに 「フクシアをヨーロッパ人が発見したのはいつ?」 と尋ねられたときは、「1690年代のもようです 」 と言うことにしています。

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ちょっと横道 - アンティル諸島とミシェル・ベゴン

ここから先はちょっと横道にそれて、上の引用文にも登場する地名について書かせてください。
プリュミエの航海をたどるためには重要な地名です。下に地図を示します。

まずアンティル諸島とは、カリブ海に浮かぶ大アンティル諸島と小アンティル諸島の総称です。
大アンティル諸島は、主にキューバ島、イスパニューラ島、ジャマイカ島、プエルトリコ島で構成されます。小アンティル諸島は、南東部に連なる小さな島々で構成されます。
イスパニョーラ島について Wikipedia で調べた結果をまとめると、 「 」 内のようになります。

「イスパニョーラ島のことを、当時のスペイン人はサント・ドミンゴ (Santo Domingo) と呼んでいました。この島はコロンブスの上陸 (1492年) 以来スペインの支配下にありました 5)
しかし1697年に締結されたレイスウェイク (Rijswijck) 条約により 6)、西側 (地図では紫で表示) がフランスに割譲されます。フランスはこの自領をサン・ドマング (Saint-Domingue) と呼ぶようになり (後のハイチ共和国)、スペインは自領を引き続きサント・ドミンゴと呼びました (後のドミニカ共和国) 」

つまり、サント・ドミンゴという地名は、スペイン領時代のイスパニョーラ島を指す場合と、割譲後のスペイン領 (後のドミニカ共和国) を指す場合があるということですね。

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The Checklist に登場する 「サン・ドミニコ (Saint-Dominico) の元総督であるミシェル・ベゴン」 という記述は誤りと思われます。
すでに書いたとおり、サント・ドミンゴ はスペイン領ですから、フランス人のミシェル・ベゴンが総督に就任できるはずはないですよね?

ではフランスに割譲されたサン・ドマングを指すのかといえばこれも矛盾します。
サン・ドマングは、1697年のレイスウェイク条約によりフランス領となった地域です。プリュミエは1689年に最初の航海に出たのですから、 のちのサン・ドマングはまだスペイン領です。その時点でベゴンがサン・ドマングの元総督だったという話はつじつまが合いません。

The Checklist の「サン・ドミニコ」 がサント・ドミンゴのことであれサン・ドマングのことであれおかしいということになります。

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ミシェル・ベゴンは、イスパニョーラ島ではなくフランス領西インド諸島全体の総督であったことを示す記事が、 CONSERVATOIRE DU BÉGONIA のサイト 7) にあります。
Patrick Rose によるこの記事 (1998年) は、「サント・ドミンゴやサン・ドマングの総督というのは間違い」であり、「多くの記事がこの誤った情報を伝えている原因は、サン・ドマングについて解釈を誤ったからだ」 と指摘しています。

記事の年表によると、ベゴンは1682年〜1684年にかけて小アンティル諸島のマルティニク島やグアドループ島 (いずれもフランス領) に滞在しています。
そして在任期間の最後1684年の8月にイスパニョーラ島に移動して、翌年に帰国するまで滞在しています。

思うに、この部分で誤解が発生し、「サント・ドミンゴやサン・ドマングの総督を務めた」 という話になってしまったのでしょう。

Rose の記事は、主に Yvonne Bezard による "Fonctionnaires maritimes et coloniaux sous Louis XIV, les Bégons" (1932) に基づいているとのことです。

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フクシアはどの国で発見されたのか?

ところで、プリュミエがF. triphylla を発見した場所ですが、Goulding の Fuchsias The Complete Guide ではドミニカ共和国となっています。
Bartlett の Fuchsias : Colour Guide ではハイチ共和国になっています。

現在のドミニカ共和国で発見したなら、プリュミエは当時のスペイン領に入国して発見したことになります。現在のハイチ共和国で発見した場合、レイスウェイク条約(1697年締結)が発効する前ならスペイン領で発見し、後なら自国 (フランス領) で発見したことになりますね。

ハイチ側は、後にフランスに割譲されるぐらいですから、レイスウェイク条約締結前からスペインの実効支配が薄れていたのでしょう (管理人の想像です)。
フランス人のプリュミエがドミニカ側 (スペイン側) を自由に探検して植物を採取できたのでしょうか? 実際にフクシアを発見したのはイスパニョーラ島のどちら側なのでしょうか?
手元の書籍は疑問に答えてくれません。
プリュミエによるフクシア発見の経緯は私にとって謎に満ちております。

(2009年11月12日)

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参考 (数字をクリックするとページ内のリンク先へジャンプします):

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