暮らしと蕎麦  < 次へ < サイトへ

蕎麦とのかかわり

 ソバはタデ科に属する植物で、原産地については、1990年に中国・雲南省でソバの野生祖先種が発見され、その後も、四川省、雲南省、チベット自冶区の境界地域や東チベットの地域などでも発見されたことにより、中国の西南部の比較的狭い地域だとするのが有力となっている。それまでの説では中国東北部(旧満州)・モンゴルなどのアムール川流域説や、中国南部またはチベット・ヒマラヤ説などがある。
日本では縄文早期の遺跡からも花粉や種子が出土し、弥生遺跡ではコメ・オオムギ・コムギ・アワ・ヒエ・キビなどと共に栽培穀物として出土していることからも、大古の昔からわたしたちの生活と深いかかわりを持つ植物であったことがわかる。
日本の食風土記 市川健夫 白水社】では、ワシントン大学の塚田松雄教授によると、島根県飯石郡頓原町から一万年前のソバの花粉が発見され、高知県高岡郡佐川町では九千三百年前、更に北海道でも五千年前のソバ花粉が出ているとある。
 ソバの実(玄そば)は長期間保存する事ができるし、種を蒔いてから収穫するまでの期間を「蕎麦75日」とも言って、早い場合には60日くらいで収穫することができる。
したがって、刈り入れの時期から逆算して種を蒔き、一週間ほどで芽が出そろい、ひと月もすると開花する。しかも水はけさえ良ければ痩せた土地でもよくて肥料もほとんど要らず、連作もいとわないし、場所によっては年三回も収穫出来るなど極めて丈夫な作物である。
「蕎麦は土地の肥痩(ひせき)を論ぜず 一候七十五日にして実熟し 凶荒の備えには便利なり」と言われて、旱害対策用の救荒作物または備荒作物としての役割も果たし、アワ・ヒエ・キビなどとともに主要穀物として栽培されてきた。

 通常、ソバは五穀の中には入らず雑穀とされているが、米の収穫が困難な地域では五穀のひとつとされていた例もみられる。
五穀とは、米・麦・粟・豆とキビまたは稗とするのが一般的であるが、稲作が不適な高冷地や寒冷地では五穀から米が外されて、代わりにソバが入ることがあるのはしごく自然の理でもあった。
例えば、長野県木曽開田村に遺る江戸期の「開田村誌」には、享保9年(1724)に行われた地検で水田の記載がない。ここでは米の栽培が出来ずヒエ・豆・粟・キビ・ソバが五穀であり、同じ信州の川上や戸隠などの山村では、ソバが五穀の筆頭であった時代もある。
 戸隠の修験者は山中の五穀断ちで、わずかな野菜とソバの実を持ち歩いて粉にすりつぶし水でかいて食したと伝わる。また、天台宗比叡山の「千日回峰」の籠山の行中は五穀と塩を断って、主食はソバ粉だけだと言われる。
「蕎麦は六根清浄にて峰々を廻りし後に岩清水にて溶かし、これを食す」のである。

 ソバは、山間や山麓など昼夜の気温差が大きくて、冷涼とか寒冷といわれる地域や地形が適している。現在みられる栽培地や収穫高では圧倒的に東日本が多い現状にあるが、北海道の幌加内や音威子府など最低気温が−40℃付近を記録するような寒冷地から、福島・長野・栃木・茨城などとともに西日本でも高知や鹿児島・宮崎などが産地として広く分布している。
 古くは、全国どの地域の山あいでもソバが栽培されて明治の頃あたりまでは続いたが、次第に国内での栽培地が少なくなって海外からの輸入に傾斜し、自給率から見た限りでは一時期2割に満たないという現状になってしまった。
もっとも、ソバ栽培の途絶えてしまっていた地域でも、休耕田の転用や地域興しの一環として復活する例がみられるようになって自給率2割までに回復して来たのは喜ばしい。

 現在、ソバの栽培とは縁のない大阪の周辺でも古くはソバが栽培されていた。
例えば、享和元年(1801)刊行の「河内名所図会」では、 河内国一之宮である牧岡神社の粥卜(かゆうら)という占穀の祭事を行う図があって「御粥占祝詞」の中に、赤ごま、まめ、いも、もちきび、などとともにそばも記録されている。東大阪でもソバが穫れたことがわかる。
下は現在の枚岡神社で、いまも1月11日には御粥占神事がおこなわれて、農作物の豊凶のなかに「そば」も含まれている。
   

       

 蕎麦の地名で後述する大阪府貝塚市の蕎原(そぶら)はかつて蕎麦が産した名残であり、また、その近くにあって江戸時代には熊取谷と呼ばれた地域の畑作物のなかに、アワ・キビ・ヒエとともにソバも栽培されていた。
   「熊取の民俗」(熊取町教育委員会)。
 嘉永4年(1851)発兌(はつだ:印刷発売の意)の紀伊国名所図絵後編巻之五の日高郡川上荘には「産物蕎麦」について記している。
「山野村四川郷等の山鼻、多く蕎麦を植えて府下に出だす。味よし。花の時は、この辺の曠野に満ちて、時ならザル霜雪を望むが如し」とある。
 和歌山の紀ノ川流域にある岩橋村でも承応元年(1652)から寛文元年(1661)の頃の穀類として、米・はだか麦・小麦・蕎麦を産したとある。【和歌山県の歴史 安藤精一著 山川出版社】

また、「食の文化誌 河村和男著 食文化研究会」によると、明治10年(1877)の「物産取調書」では奈良県・十津川支流沿いの滝川でも米・麦の他に粟や稗とともに蕎麦も産している。
松尾芭蕉の句からは伊賀上野のあたりでも栽培されていたことが分かる。
 「高知県安芸市川北の歴史」というサイトによると、安政4年川北村風土取縮差出諜の中の「庄屋仙頭勘八による録上」に記されている川北村の農作物は、米・麦・小麦・蕎麦・大豆・小豆・大角豆・粟・高黍・小黍・稗・・・・と記されている中で米麦に次いで蕎麦が記されている。

 中国地方では島根県の古い記録があり、松江藩の寛文2年(1662)「田法記」では「…七夕前土用を懸て蕎麦、菜、大根蒔べし…」とあり「麦跡には茄子、たばこ、大小豆、蕎麦、稗、あい、胡麻の類也」とある。さらに畑壱反に必要な種用には壱斗五升之位を見積もるようにとある。 また、元文元年(1736)の「出雲国産物帳(出雲国産物名疏)」のなかで「蕎麦」について「蕎麦 イラタカ大ソハ共申候 小ソハシナソハ共申候 カドソハ 餅ソハ 米ソハ シナノ ハナタカ」とあり蕎麦はイラタカ(大粒)と小粒蕎麦が主たる産出品種だったことがわかる。
更に、「隠岐国産物帳」には隠岐国の蕎麦として「わせ(早生)そば」と 「おくて(晩生)そば」があり、現在でいうところの夏型の品種と秋型の品種であり、これを組み合わせることによって収穫期を変えていたことがわかる。
 九州の宮崎・鹿児島はソバの品種に独自の鹿屋在来種があり、大分には波野在来種、長崎の対馬には対馬在来種の対州そばがある。熊本でもソバの栽培地がある。さらに調べると、佐賀県唐津市の「唐津市史 近世」(復刻版)によると、享保6年(1746)唐津藩で伝わる松浦雑記のなかに松浦名物があげられていて、そのなかの農産物に「鹿家 蕎麦」と書かれ、この地域でもソバが栽培され特産になっていたことが窺える。
福岡県北部の宮田町と若宮町は遠賀川にそそぐ犬鳴川流域にあって、江戸時代後期から明治前期にはほとんどの村で蕎麦が産したと記録されている。これは「若宮田川づくり交流会のサイト・犬鳴川流域における農水産物史考」のなかで記されている。(両町は06年2月から若宮市に)

 滋賀県・伊吹山のソバは有名で本朝文選(1706年)では、彦根藩士森川許六は「伊吹ソバ天下にかくれなければ、からみ大根また此山を極上と定む」と述べている。
寛文8年(1668)の伊吹山絵図でも八合目付近までソバ畑が広がっており、明治の物産誌によると、(伊吹山中腹にあった)伊吹村太平寺では耕地の半分がソバ畑で24石4斗5升を産出したとある。(伊吹町史 通史編より)
 注:)森川許六は松尾芭蕉十哲の一人でもあり、同じ「本朝文選」(後に「風俗文選」)の中で、「蕎麦切りといふはもと信濃の国本山宿より出て 普く国々にもてはやされける」という雲鈴の説を紹介して「そば切り信州発祥説」を書き残したことでも有名である。(当HPの目次 U-1参照)

 京都の河道屋が明治28年に刊行した江戸時代からのそばの調査研究書の「蕎麦志」に諸国の蕎麦産地があって、当時の蕎麦の産地があり、東日本では 信濃国(長野)、武蔵(東京・埼玉など)、上総(千葉)、常陸(茨城)、下総(千葉北部・茨城の一部)、下野(栃木)があげられている。
 西日本については、少し詳しく紹介すると 近江国(滋賀)では伊吹山下産が良いとされ、山城国(京都南部)の愛宕郡柊野が最上で宇治郡山科も良いなどと記されている。続いて丹波(京都)、河内(大阪北部・中・南河内)、摂津(大阪一部・兵庫一部)。紀伊(和歌山)は上記にある紀ノ川沿いで日高産が良いとされ、阿波(徳島)は産出量が多く、米蕎麦を出すとあって国人甚だ之を好むとある。名物郷土料理の蕎麦米汁のこてであろうか。
さらに、石見(島根南部)、備後(広島東部)。九州では、薩摩(鹿児島西部)には鬼蕎麦が多く穫れるとあり、対馬国(長崎・島)では対州そばの産出が多くて朝鮮地方に輸出していたとさえある。
注:( )内は旧国名をおおよその都府県名で記した。
江戸時代に対州と呼ばれた対馬では、「対州そば」の歴史があり、生粉打ちそばを甑(こしき・大せいろ)に盛って重ね、温水をかけてそば櫛で整えたという。
 沖縄にのみ蕎麦を産したという記録はないが、それ以外の日本各所で蕎麦が産したのである。

【 Top 】      【  Next 】