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 西成郡難波村とネギ

 江戸時代の難波一帯はネギの産地であったので、大坂ではネギのことを「なんば」と言い、そのためにネギを使った料理のことも「なんば」と称したとされる。いかにもわかりやすい説明なのでついそのように思いこんでしまう。
たしかに大坂には、例えばサツマイモと青ネギを炊いて醤油で味付けする料理があり、これを「いもなんば」と言ったのもこの例だという。

 江戸時代の難波村は大坂近郊の畑場八ヶ村のひとつであり、稲作には不向きであったが多くの野菜類が穫れた。
当時、米市場は堂島で、魚市場は雑喉場にあった。 青物市場の場合は天満だが、これ以外の野菜産地でも野市的なものが発生していて、例えば堀江の青物市とか難波村百姓市などがあったことからも難波は有数の野菜産地であったことがわかる。
元禄14年(1701)刊行の「摂陽群談」でも大坂の有名な青物類について、産地別の名産を列記しているが西成郡難波村のネギについての記載はない。
 摂津西成郡難波村の様子について、「浪花茶里八景」では「土肥へ地栄へにんじん大根のよきはいふに不及」とあり、「摂陽奇観」でも「難波のにんじん」の名産振りを紹介している。ほかには染め物の藍や麦も盛んで、畑作による野菜だけに止まらず代表する作物はかなり多岐に渡っていたこともわかる。
 享保10年(1725)に難波百姓市である青物の立ち売りが禁止された際、難波村が大坂町奉行所にたいして「乍恐御訴訟申上候」と訴えを出している。
おおよその内容は「難波村は畑地であり、冬春は麦を六分作り、菜・大根・ねぶか・わけぎ・かりぎなどで四分、夏秋には藍・木綿がおよそ六分で、茄子・干瓢・白瓜・冬瓜などを作っていて年中青物が絶えない」とある。
このようにみていくと、大坂の難波という地名がネギの代名詞になるほどネギが多く栽培されていたとは考えにくいのである。
勿論、難波村でもネギが収穫されていたのはたしかであるがそれが難波村の作物全体に占める割合や、ましてや野菜供給地である大坂近郊八ヶ村から供給されるネギ全体からみると「難波のネギ」として特記されるだけの存在ではなかったと考えられる。そしてなおかつ、江戸時代から明治の初期に至るまでの大坂近郊で収穫された野菜類の記録のなかで、ネギの代名詞として「なんば」と称したり「難波」の字が当てられている例には出くわさないのである。
 さらに今ひとつ、良質の品種が産してそこの地名が付けられた例はネギに多い。例えば、九条ネギ、岩槻ネギ、それに千住、深谷、加賀、下仁田・・と言った具合であるが、それに類する記録の痕跡なども見あたらないのである。

 従って、一部の料理書やそば関係の書物で、大坂・難波がネギの産地であったので、大阪ではネギのことを「なんば」という、とする説の根拠がわからない。


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追記 次のような主旨の情報をメールでいただいた。大阪の固有品種に関する情報でもあり掲載させて頂いた。

「明治三十六年の大阪府農業地理案内に難波葱がある。ただし、難波が主たる産地だったわけでなく品種名のひとつとみられる。ちなみに明治期における葱の産地は「市内南区、木津、今宮、難波と西成郡今宮、津守の両郡」との内容であった。
                       09年5月31日
    From  NPO法人 浪速魚菜の会様