蕎麦の南蛮    <  サイトへ

 料理書やそば関係の書物の一部で「大坂の難波がネギの産地であったので、大坂ではネギのことをなんばと言う」とする根拠が希薄であることは既に述べた。
ただ、大坂や上方には古くから南蛮煮という料理があって、角川古語辞典でも「新撰大阪詞大全」や「浪花聞書」などに「ねぶかにて炊いたものを南蛮煮(なんばんに)(なんばに)と云う」とあって、ネギと南蛮煮の関係がわかる。
 一方で、料理早指南・初編では「難波煮 鯛焼きて 春ねぜり(根芹)夏さきずいき(夏先芋茎) 秋はったけ 冬ねぶか」とあって、南蛮煮(難波煮)のことを紹介しているがここでは冬はネギだが、それ以外の季節はそれぞれ旬の野菜と組み合わされていて、ネギ以外のものであっても南蛮煮という名前が付けられているケースがあることもわかる。

 近世末の京坂・江戸の風俗や生活習慣を記録した「守貞謾稿」に「葱を入れた雑炊」について記している。「味噌汁を以て、米に葱を交ゆを、京坂にて、ネブカゾウスイ、江戸にてネギソウスイ」とある。大阪・上方ではネギは単なるネギかネブカであって「なんば」の呼称はでてこない。
 「ねぎま」という料理がある。初見は江戸時代の後期だそうだが、いうまでもなくどちらも日本古来の食べ物である葱とマグロをとり合わせたネギ+マグロの略称である。この魚がマグロと呼ばれるようになったのは江戸時代のことであって元々は鮪と書いて「しび」といったのであるが、それとネギを単純に組み合わせたこの料理を「マグロ南蛮」とか「しび南蛮」とは名付けていないのである。
こうしてみると、ネギが主体的に使われる料理であっても一部料理書で言われるような南蛮という呼称は使われていない。

 国産のカレー粉は大阪の薬の街・道修町で薬用スパイスから考案された。カレーライスが一般に普及するようになったのは明治20年代後半で、それを大阪・谷町の「東京そば」の主人がそばに合うカレー粉に工夫して、カレー南蛮として大阪で売り出したのが明治42年だとされている。
インド風洋食としてのカレー(カリー)には肉と野菜が煮込まれているもののライスカレーは初めて出会ういかにも異国風で刺激的な味であったにもかかわらず、これには南蛮の呼び名は付されずに「ライス+カレー」とされている。
それが十数年を経て、すでにカレーが異風でなくなってから生まれた「蕎麦+カレー」には「カレー南蛮(なんば)」と名付けられたのである。
カレーライスが登場した明治20年代後半は、日本人が好んで玉ネギを食べ始めた時期と一致する。
 泉州地方で栽培されていた玉ネギは、食習慣には合わずなかなか普及しなかったが、明治26年にコレラが発生し、それに玉ネギが効くという風評がたって一挙に普及している。
従って、カレーライスには現在と同じように初めから玉ネギを入れていた可能性が大であり、同42年に登場したそばカレーにも初めの頃は玉ネギが使われた可能性が大きいのである。だとすると当時のカレーそばにはネギが使われていないのに南蛮と名付けられたことになる。
もっとも現在ではカレーうどんには玉ネギが入り、カレー南蛮(そば)には長ネギを入れるのが定法とされている。

 文政13年(1830)に刊行された「嬉遊笑覧」という書物に、そばの「南蛮」についてこう書いている。「昔から異風なるものを南蛮風という」とあり、江戸時代の初めの頃からやたらに使われだした言葉である「南蛮」の通説をそのまま引用し、「葱を入れると南蛮 鴨を入れると鴨南蛮と呼ぶ」というくだりは大阪の料理にある南蛮煮をもって解説しているものと考えられる。
この頃の文化2年(1806)の「酩酊気質」と文政年間に出版された「正本製(しょうほんじたて)」の双方に夜そばの売り声があって「ぶっかけなんばん」が登場し、江戸の末期には穴子南蛮親子南蛮も登場、明治9年には文明開化で流行りだした牛鍋をそばに取り入れた開化南蛮までもが出現している。
こうしてみると、南蛮という名称部分にはさほどの意味合いをもっていないのではないかとさえ感じられるのである。

 明治25年「風俗画報」に、「京都の蕎麦・うどん屋」が屋台を引いて夜の街頭でそば・うどんを売り歩く様子を紹介している。
その売り声は「そば・うどん−−」「あんかけなんば−−」とあり、この頃すでに、上方ではそばまたはうどんに「あん」を掛けた「なんば」が登場し、「あん」をかけたそばまで南蛮(なんば)の呼称が付けられている。
上方では「カレーなんば」よりもっと以前から江戸の呼称「なんばん」ではなく、独自の「なんば」にこだわってきた歴史があったと考えられる。

 このようにみていくと、江戸で「鴨そば」を「鴨南蛮」と呼んだ背景は、昔から上方にあった南蛮煮という料理の呼称をもじって品書きに載せたことがそのまま受け入れられて定着したのであり、一方、大阪や上方の「あんかけ南蛮」や「カレー南蛮」も、江戸とは多少違うが日頃慣れ親しんでいた独自の食文化であった南蛮煮(なんばに)の呼称をとったもので、つまるところどちらも大坂・上方の南蛮煮(なんばんに・なんばに)という料理名をもとに付けられた名前であったのではなかろうか。
そして江戸では、南蛮の字に忠実に「なんばん」としたのに対し、大坂や上方は南蛮煮(なんばんに)(なんばに)の後者の「なんば」を選んで名付けたことが、東西での呼称の違いになったのであろう。
それにしても、それ以降東西それぞれが「なんばん」「なんば」の呼称を守り、いまに使い分けられていることは蕎麦に限らず料理の分野でも特筆されるべき双方のこだわりである。

 東で「なんばん」、西は「なんば」と呼び分けられていることとその語源について、大阪のそば屋で聞いてみたことがある。
いずれも、大阪ではそれなりのそば屋だからちょっと紹介すると
明治40年創業という新世界・通天閣本通商店街の「総本家更科」と、大正13年に蕎麦屋として創業したという「美々卯」本店で聞いた話は大体が共通していて先にも書いた大阪・難波・ネギ説。
もう一つは宗右衛門町東の「出雲そば」の主人の説で、大阪人はとかく言葉の語尾を省略する習慣があり例えば「よろしおま」「まいど」のように語尾が詰まったのが「なんばん」→「なんば」だろうとのことであった。
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