日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食・醤油文化

 1章:寿司の歴史/熟れずしから江戸前握り鮨の誕生まで


すしの歴史


 生魚を米と一緒に発酵されることで旨味が生まれ、保存も可能となる「すし」は古来より日本各地で作られてきた。現在、すしといえば、握りずしを指すことが多い。「握りずし」は江戸で生まれた。
すし自体は古代からあった。古代のすしは滋賀県の名物「ふなずし」のように飯の中に魚を漬け込んで発酵させた保存食で、食べられるようになるまで何年もかかる。江戸時代の初め頃には漬け込む期間を短くした「生なれ」と呼ばれるすしが作られるようになった。

 さらに、江戸時代になると酢の普及にともない、酢を混ぜた酢飯で作る「早ずし」と呼ばれる形態が考え出された。早ずしは早く食べられるよう飯に米酢を混ぜて魚の切り身を飯の上に乗せて落し蓋をし、重石を置いて押した「押しずし」や「切りずし」として盛んに作られるようになった。現在、俗に「大阪ずし」と呼ばれるすしである。

こうした早ずしが江戸で売られるようになるのは元文から延享年間(1736~1748)の頃とされている。宝暦年間(1751~1764)の頃になると、屋台で早ずしが売られるようになる。早ずしと言われる押しずしは、酢飯と上に乗せる魚の切り身とをなじませるのに少し時間がかかった。早ずしは、今のように酢を混ぜ込むのではなく、上から米酢を振りかける方法だったという。

その後、酢を混ぜた飯を笹で巻いて重しを乗せた「笹巻ずし」ができ、文政年間(1818~1830)には、手で握った酢飯の上に味付けをした魚の切り身を乗せた即席の押しずしの「握りずし」が登場した。



 握りずしは「江戸前」の魚介で、酢で締めたり、醤油に漬けたり、茹でて煮詰めをかけたりと具材の鮮度をによらない工夫がほどこされていた。これだと作ったその場で握りずしがすぐに食べられる。当時の握りずしは、屋台で売られており、安くて早い庶民的な江戸っ子たちの気風に合った食べ物であった。

屋台の握りずしは、現在のものより2倍ほど大きく、粕酢の影響で赤みがかかっており、たくさん食べるのでなく、2つ3つ、つまむ程度だったらしい。江戸前でとれた新鮮な魚介を、時間をかけずに手軽に味わう握りずしは、江戸の町が生んだ郷土料理の「江戸前鮨」で、白魚、コハダ、エビ、アナゴ、赤貝などが鮨ネタとして提供されていた。

 この握りずしの考案者とされているのが華屋与兵衛と言われている。文政7年(1824)に華屋与兵衛は両国回向院前(墨田区)に寿司屋「華屋」を開き、コハダやエビの握りずしを出した。与兵衛は、それまで寿司の主流だった押しずしを握りずしとして、素早く、食べやすくして客に提供した。握りずしは、まず、江戸の屋台で広まった。次第にすし専門の居店も誕生し、気軽なものから高級なものまで幅広く多くの人に愛されるようになった。


「すし」の名前の由来
〇「すし」の語源
「すし」の語源は江戸時代中期、元禄12年(1699年)に編まれた『日本釈名(にほんせきめい)』や享保2年(1717年)『東雅』の語源辞書で、その味が酸っぱいから「酸し(すし)」であるとした説が有力とされている。また、「酢飯(すめし)」の「め」が抜け落ちて、「すし」になったとする説もある。
「すし」は「鮨」の字があてられるが、近畿では「鮓」が使用される。「鮨」というのは「魚が旨い」ということに由来しており、「鮓」というのは、魚を塩や糠などに漬け込んで保存するといったこと|こ由来していると云われる。
現在よく見かける「寿司」の字は、江戸時代末期の当て字で、「寿司」は「寿(ことぶき)に司(つかさど)る」にかけた意味。また、賀寿(長寿)の祝いの言葉を意味する「寿詞(じゅし)」に由来するとの説もある。
また、すしの漢字には、「鮓」「鮨」「寿司(寿し)」がある。
明治期に執筆された小泉清三郎『家庭 鮨のつけかた』(大蔵書店、1910年)には、「当今では重(おも)に、鮓と鮨の二つが一般に行はれて、又 中には気取って、壽司などゝアテ字を看板に書く鮓屋などもあります。しかし、 此の壽司と云ふ文字は、無暗(むやみ)に縁喜(えんぎ)をかつぐ水商売の常套手段の名稱で、別段深い意味のあるものではないのです。」という説明がある。
つまり、江戸期に作り出された江戸前すしは「鮨」、それ以外あるいはそれ以前のすしは「鮓」、そして明治期以降、日本で一般化したすしは「寿司」の文字を使うとしている。
〇平安時代のすしの記述(参考文献:国立民族学博物館・日本大百科全書・他)
寿司は紀元前4世紀頃の東南アジアで誕生したといわれており、日本へ伝わったのは平安時代と考えられている。平安時代の『延喜式(えんぎしき)』(927年)の「巻第二十四 主計式」には諸国からの貢納品が記されており、鮒鮨、年魚鮓、阿米魚(あめのうお=アマゴ)鮓(熟れずし)などの字が見られる。
延喜式には「酢」、「鮨」の文字が158件出現するが、そのうち原料が記されているものとしては、フナ・アワビ・イガイ・ホヤ・アユ・アメノウオ・サケ・オオイワシ・タコブネ・雑魚の魚介類のほかに、イノシシ(猪鮓=いすし)・シカ(鹿鮓=しかすし)の哺乳類のスシと雑鮨、手綱鮨(たづなずし)がある。
これらの古代のナレズシの中で「延喜式」の雑鮨、手綱鮨、平城京の出土木簡にある煮汗酢の実態は不明である。フナズシは「延喜式」では、河内,摂津,近江,筑後,筑前から貢納されている。 これらのすしの原料の内で、鮎では大和と紀伊が、猪、鹿では紀伊の名がみられる。
『延喜式』(主計寮式)には諸国からの貢納品が記されている。鮓を貢納する諸国の食材は淡水魚が中心で、地域的には九州北部(筑後,筑前)・四国北部・畿内(河内,摂津,近江)などの西日本がほとんどを占め、それ以外では北陸の一部(現在の富山あたり)だけである。
東海から関東、甲信越や北陸では貢納する諸国の名が見当たらない。当時の詳しい製法を知る資料には乏しいが、魚(または肉)を塩と発酵用の素材であった飯で漬け込み熟成させ、食べるときには飯を除いて食べる、「なれずし=ホンナレ(本成れ)」の寿司と考えられている。
(註)ナレズシには馴酢,熟酢,馴鮨,熟鮨の漢字があてられる。平安時代の《延喜式》には、どういうわけか鮓の字の使用が少なく、もっぱら鮨の字が使われている。
〇すしにおける3つの表記「寿司・鮨・鮓」のまとめ
すしの漢字表記といえば「寿司」が最も一般的であるが、寿司屋の看板などで「鮓」や「鮨」という字を見かけることがある。「鮓」と「鮨」の字は、昔はそれぞれ魚料理の「漬魚=つけうお」と「魚醤=うおびしお」を意味していた。そこに「すし」という読みがなを当てた。
「鮓」は塩や糟などに漬けた魚を発酵させてつくる鮒鮓(ふな寿司)などの馴れずしを指し、「鮨」は〝鮓〟以外の握り鮨、押し寿司、棒寿司を指すとも言われている。「寿司」は、「寿を司る(つかさどる)」という縁起担ぎの意味の当て字を使ったもので、朝廷に〝鮓〟を献上する際に使われていた。
今日では、寿司の字は、いろんな〝すし〟の総称として用いられている。寿司が庶民の口にも入るようになった江戸時代、江戸では「鮨」、大坂では「鮓」が使用されていた。「すし」という読み方の起源は、江戸時代、シャリの酸っぱさから「酸し」と呼ばれるようになったことと言われている。
  • 「鮨」の漢字が多く使われるのは東京で、江戸で生まれた江戸前の「握りずし」を指して使われた事が由来とされている。江戸前すし自体を指す意味も併せ持っている。
  • 「鮓」の漢字が多く使われるのは大阪である。もともと「鮓」という漢字は発酵した魚を指す字で、8世紀ごろ大阪に伝わった「なれずし」を指して使われた事が由来とされている。「鮓」は最古の表記で、「酸し(=酸っぱい)」という、すしの語源を継承したもの。
  • 「寿司」の漢字が多く使われるのは京都である。かつて京都ではスシを献上品として朝廷に納めており、「めでたい」という事でこの当て字が使われたとされている。「ことぶきをつかさどる」と書く寿司は縁起がよいもの、祝いの席で食べるものという意味がある。ネタや種類に関係なく使うことができるため、一般的に広く用いられている。

江戸時代、すし屋の概要
伝統食「すし」の変貌とグローバル化(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第24号、並松信久)より、以下を引用する。
「現在に続く江戸前鮨が誕生したのは、約200年前の江戸期・文政年間(1818~1830年)であったとされる(すしの起源については諸説あるが、とりあえず江戸前鮨を対象にする)、江戸風俗文化の研究家である三田村鳶魚(えんぎょ)(1870-1952)によれば「鮨が盛んになったのは、往来の屋台店で食物を売るようになってからのことで、これは天明の飢饉から始まったのだが、それがだんだんに(中略)屋台店の種類が殖えてきて、それがために、鮨の立食いが始まったのである」という。
握り鮨の定着とともに、すし屋の数が急速に増えた。握り鮨誕生前の1811(文化8)年では、すし屋の数は217軒であった(『類集撰要』)。この時のそば屋の数は718軒であったので、すし屋の数はそば屋の3分の1ほどであった。
ところが、握り鮨が誕生した後、すし屋の数がそば屋の数を上回るようになり「江戸は鮓店はなはだ多く、毎町一、二戸。蕎麦屋一、二町に一戸あ り。鮓屋、名あるは屋体見世を置かず、普通の見世は専らこれを置く。また 屋たいみせのみにて売るも多し」という状況になった。
すし屋の場合、屋台店は高級店ではなく、その屋台店には屋台専門の店と、一般店(内店)が屋台を店舗の傍らに出していたものがあった。『守貞謾稿』が刊行された1853(嘉永6)年には、すし屋の数がそば屋を上回っていたとすれば、1811(文化8)年から1853(嘉永6)年までの約40年間で、すし屋の数は217軒から700軒以上に増えたことになる。すし屋は握り鮨を出すようになって、その数を増やし、会席料理屋のメニューにも握り鮨が加えられるようになった。」




発酵食品、ふなずし(熟れずし)が寿司の原点
◇寿司の原点となる「熟れ鮨(なれずし)」は米や麦などの穀物を炊き上げて、その中に魚などを詰め込乳酸菌の力で乳酸発酵させた発酵食品の一種である。熟れ鮨の「ズシ」の字を見て判るように、昔は寿司を「鮨」もしくは「鮓」と書いていた。
『魚へんに旨い』、『魚へんに酢っぱい』と書いていた。乳酸発酵によって、米などの穀物が持つでんぷんや糖質は分解されてドロドロになる。この時乳酸菌は酢酸などを生成し、ビタミンと酸っぱさを加えていく。この酸っぱさが魚と米を結びつけ、美味にすることを知った日本人は鮨・鮓を寿司へと昇華させていった。


◇千年以上の歴史を誇る、わが国のすしの原型といわれているのが近江(現在の滋賀県)の鮒寿しです。滋賀県の琵琶湖一円、ことに湖東と湖北に多い熟れずしで、今日各地に伝わるすしは、この近江の鮒寿しを起源として分化していったものと考えられている。(全国すし商生活衛生同業組合連合会より)
以下は『多彩なる魚介の発酵』藤井建夫(東京家政大学生活科学研究所所長)より引用。
熟れずし(なれずし)とは、塩漬けした魚介類を米飯に漬け込み、自然発酵させた発酵食品の総称である。ふなずし、さばなれずし、いずしなど、日本各地に地方色も豊かに多種類伝わっている。中でも、最も古い形態を残しているのが平安時代から存在する「ふなずし」である。
作り方は、まずえらを取り、そこから 内臓を除去する。魚卵は体内に残したまま腹腔ヘ食塩を詰め込み、それを桶中に何層にも重ねた状態で重石をして塩漬けにする。そのまま約1年ねかせたら、塩を全部洗い出し、次に米飯に漬け込み、さらに約1年間熟成させる。
米飯漬け作業は夏の土用の頃に行い、急激に乳酸発酵をさせることで腐敗菌や食中毒菌の増殖を抑える。この発酵過程は嫌気性であるので、重石をして、さらに押し板の上を水で満たして気密を保つようにする。こうした手間ひまを経て、乳酸発酵によるにおいと酸味の強い個性的な発酵食品、ふなずしが出来上がる。
室町時代になると、もう少しにおいが弱く、できあがるまでの日数も短い、いわゆる「生成れずし」が作られるようになった。これも乳酸発酵を利用しているが、熟れずしより米飯が形をとどめ、この米飯も魚とともに食するのが一般的である。 和歌山のさば熟れずしなどがそれで、今日でもまだ各地に残っている。
その後、東北や北海道では麹を用いるいずしが考案された。麹を用いるのは寒冷地で発酵を早めるための工夫といわれるが、それでも発酵が不十分だと生臭みが残るため香辛料や野菜が一緒に用いられる。
いずれも魚と 米飯を一緒に乳酸発酵させるのが基本である。元禄時代になると、「早ずし」といって、米を乳酸発酵させずに、酢を用いた米飯(酢飯)と魚をともに食すようになり、それが現在の「握りずし」へと変遷していった。




すしの原型ナレズシから箱ずしへ
すしというのは、そもそもは「米と魚を発酵させた保存食(熟れずし)」であった。奈良時代以前に、寿司の源流となる塩漬けにした魚を米飯に漬け、乳酸発酵させて一年以上かけてつくる「なれずし(熟れずし)」が日本に登場したが、当時は「魚の保存食」であった。こうして漬けられた魚(熟れずし)は神撰用であった。
次に「なれずし」から「生成れ(ナマナレ)」すしへの変化が始まる。 室町時代になると、酢を一部加えて発酵を早めた押しずしの一種、いわゆる「生成れ」ずしが出現した。



鎌倉時代から室町時代、公家や武家の残した諸記録、日記類に数多く見られる寿司は、生成れのすしである。生成れのすしでも多いのが、フナずし、アユずしを主要にフナ生なれ、コイ生なれ等の記録である。
室町時代の書物『蜷川親元(にながわちかもと)日記』(1473-1486年)によれば「生成れ」、または「半なれ(半熟れ)」ともよぶ寿司が登場している。「生成れ(ナマナレ)」は、漬け込む期間を短くし、魚の発酵を浅く止め、これまで除かれていた飯も共に食した寿司のことである。生成れ(ナマナレ)が寿司の呼び名として分かるのが日本耶蘇会の刊行した『日葡辞書』(1603年)に「ナマナリスシ」と出てくるのが最初である。


■現在の寿司の原型『早ずし』の誕生
江戸時代中期1700年代前半頃に「酢」を用いた例が散見されるようになる。「酢」よってすしは大きく変わったといい、熟れずしから押しずしという「ご飯も一緒に食ぺるすし」へと変貌していく。それと同時に、川魚から海の魚へとネタも変わっていった。

寿司に酢が使われ、酢の醸造技術も進んできて、魚を自然発酵させずに飯に酢を混ぜ、魚の他、野菜や乾物などを用いて食する現在の“握りずし”の原型となった「早ずし」が誕生する。すしに酢(米酢)を用いた「早ずし」を広めたのは江戸の医者で4代将軍綱吉の御典医になった松本善甫ともいわれている。

この「早ずし」は、飯に酢と塩で味付けした酢飯を箱に敷き詰め、すしダネを並べて落し蓋を落とし、発酵を待たずに重しをかけて1日で食べられるように作る「押しずし」のこと。この押しずしは、四角い箱に詰めて押しかためたところから、「箱ずし」ともよばれた。

早すし

江戸初期の頃までは室町時代のすし形「生成れ」を受け継いでいる。江戸に上方の「押しずし」(早ずし)が京都から伝えられ、押しずしが江戸で売られるようになるのは元文から延享年間(1736~1748年)の頃とされている。

宝暦年間(1751年)頃になると、立ち売り屋台で四角い箱に並べた「押しずし」が売られるようになる。そして、押しずしを作る時間を短縮するために即席の押しずしとして生まれたのが「握りずし」である。
「握りずし」の大成者とされる「与兵衛鮓」の華屋与兵衛(寛政11年・1799年〜安政5年・1858年)の曾孫にあたる、小泉清三郎著『家庭鮨のつけかた』では、握り寿司の考案者は「与兵衛鮓」の華屋与兵衛であるとされる。


■江戸の握りずし
江戸の街は『握りずし』が誕生する前は大阪で生まれた「箱ずし」が人気であった。米酢が一般化した江戸時代中期には、発酵させる必要のない「早ずし」が誕生した。さらに、江戸前寿司の"その場で握って食べる"という「握りずし」は、江戸時代後期の1800年代前半頃に江戸の街で誕生したが、おむすび並みの大きさ(現在の寿司のおよそ2~3倍の大きさ)であったため、切り分けて食べられていた。1皿に2貫盛る現代のスタイルは、当時の名残でもある。

江戸前のすしとは、江戸湊(湾)とその近海で獲れた魚を酢飯にのせて握った“握りずし”にしたもので、江戸時代後期の文政年間(1818~1830年)に、『与兵衛鮓』の主人、初代華屋与兵衛(はなやよへい)が考案したという説が有力である。華屋与兵衛が生み出した寿司を「江戸前寿司」という。
華屋与兵衛は早漬けずし(早ずし)の開発を試行錯誤する中で尾州半田の「粕酢」と出会い、ワサビを用い、コハダを主とする当時「握り早漬け」と呼ぶ客の目の前で握って即座に食べられる握りずしを作った。こうして、現在の握り鮨の原型である江戸前寿司が誕生したと言われている。

花屋与兵衛の用いた酢は今までの米酢ではなく風味ある濃厚な色の酢で粕酢である。粕酢醸造図(中埜酢店蔵)によると、粕酢が創業されたのは文化元年(1804年)のことで、尾張の半田村の中埜酢店の初代中埜叉衛門が、当時利用のすべのなかった酒粕からの酢作りを発想したものである。花屋与兵衛の“握りずし”は、この粕酢と解毒剤の働きのワサビの風味が江戸の人々に受けて江戸の名物となった。


『東都名所 高輪廿六夜待遊興之図』歌川広重、天保12-13年頃(1841-42)のすしの屋台の様子が描かれている。当時の「握りずし」は、江戸前で獲れた魚貝を下処理したタネと、お酢と塩で味付けしたすし飯で握られていた。


■すしというもの
参考文献:『家庭鮓のつけかた』1910,小泉迂外/『寿司の変遷と酢の力』2021,赤野裕文/『なれずしから握りずしの変遷』1999,越尾淑子・猪俣美知子/他
○鮨
寿司には、酢飯の上にネタの具材をのせて握った「握り寿司」の他に、「ちらし寿司」や酢飯とネタを上から押して形作る「押し寿司」、ネタを酢飯と海苔で巻いた「巻き寿司」など色々な種類がある。
【すしとは飯に酢をうちたるを鮓にそえ、また蔬菜(そさい)を煮て加えたるものをいう。其のままなるを、ちらしといい、はこに入れておしかためて切るを、おしずしといい、握りまろむるを、にぎりずしという。
さてすし飯は普通の飯と大に異なり、よほど水を減じて仕掛け、たきたる後も、むらし方を短かくし、手早く木鉢の類にうつし、すぐ飯杓子を以てうけながら、酢(一升に上等酢一合、塩、盃一杯の割合にて、前以て混和し置くべし)を一様にふりかけ、団扇にてあおぎながら、飯杓子にてかきまぜ、全くひえたる後、随意のすしに裂するなり。
若しあおぎ足らざる時は飯に水気あまりて風味を損い、且つつやを発せず。すし種は季節により多少異なり、春は白魚、ひらめ、さより、鯵、ます、小鯛、あなご、おぼろ等を主とし、夏は車海老、鮑、きす、あじ等を主とし、秋は、さば、鮎、こはだ等を主とし、冬は赤貝、いか、鳥貝、海苔、たまご等を主とす。但し海苔巻たまご巻は四季に通じてよし。】
注:すし種:「すしダネ」または「タネ」というが、地域やお店によっては「ネタ」という言い方もされる。

○握りずし
握り寿司が文献で登場するのは「俳風柳多留」(1827年刊)で、この中に「妖術という身で握る鮓の飯」とある。これは、握り寿司は忍術使いが握ったような格好で作られていたことを表している。この握り寿司を考案した人物は諸説あり定かではないが、握り寿司を大成したのは華屋与兵衛だと考えられている。
【すし飯をよき程ににぎり、魚肉をそぎて、すぐ其のままあるいは煮、あるいは酢につけて置きたるを、あるいは焼たまごを其の飯の上にのせて製す。皿にくま笹などを敷き、まきずしにまぜて体裁よく盛るべし。また、すしには総べてしようがを添うべし。しようがは薄くへがすか、せんに打ちて水につけ、酢塩に浸しおきて酢を切り用いるべし。
さて魚肉の調理は種々あるべけれど、まず、たい及びまぐろは生にて用い、おろしわさびを肉との問に少しづつ入れ置き、醤油をつけて食す。こはだ、さより、きす、赤貝などは酢につけ、いか、たこ、鮑等は煮て、たれ(醤油に砂糖あるいは味醂を加え、葛粉少しを水にときで加え煮つめたもの)を肉の上に塗り、やきたまごは薄く短冊形に切りて用いる。】

○江戸発祥の海苔巻きずし
元々「なれずし」から始まった寿司は、歴史的に見て上方から始まり、江戸に入って花開き、握りずしが大成した。海苔巻ずしは握りずしと同様に江戸が元祖のようである。
巻鮓(まきずし)の文字が初めてでくるのは、1750年に刊行された料理本『料理山海郷』である。この中では現在のように酢飯は巻かれておらず、魚の身と大根おろしを巻いたものである。
酢飯を巻いた巻き寿司は『新撰献立部類集』(1776年刊)に、浅草海苔 「すぐの皮叉は紙をすだれに敷きて飯を重ね、魚をならべ、右のすだれ木口(簾の両端に付いている棒)よりかたく絞め巻きにして四角な内に入れよく重しかけ置くなり」、「すだれに浅草海苔、フグの皮、または網を敷いて上に飯を置き、魚を並べて、すだれごと巻く」、「紙に敷いた場合には紙を取り、小口から切る」とある。
そして、江戸時代の風物が紹介されている『守貞漫稿』(1837年刊)には「海苔巻」として、かんぴょうの細巻が紹介されている。 【乾海苔をあぷり、又たまごを薄く焼き、いずれにても竹簀(たけす)の上にのべ、手に酢をつけて、其の上にすし飯をかたよらぬように押しひろげ、煮たる干瓢(かんぴょう)三、四本を中心に入れて簀ながら巻き、これを小口より厚さ四、五分に切るなり、但し庖丁に酢をつけながら切れば、飯のつきて切り悪きことなし。】 海苔巻は現在普通に売られているものと異なり、「の」の字に巻かれている。


〇関西と関東の巻きずし
すしの巻もの全般を江戸前では「海苔巻」関西では「巻ずし」と呼ぶのが一般的になっている。また、江戸前の巻ものは焼き海苔で巻いて香りとパリッとした歯ざわりを出すのに対し、関西では海苔を生のまま使っている。
同じ海苔を使ったすしでありながら、関西と関東では名前の呼び方や素材の扱い方に違いが見られる。まず、関西では「巻きずし」、関東では「海苔巻き」。その中身も昔関西には細巻きはなかったので、すべて「巻きずし」と呼んだ。
 江戸の巻きずしは「細巻き」でそれに対し、一枚巻き以上の太い海苔巻きを「大巻き」(フトマキ)と呼んだ。この江戸の大巻きは、海苔も1枚半が一般的で2~3枚使い巻き上げたものである。具は時によりいろいろ異なるが、たまご、オボロ(デンブ)カンピョウ、シイタケなどは欠かせない材料である。海苔の扱い方では関西は焼かない海苔で巻き、関東は焼いた海苔を使って巻いて作られる。
ちなみに、関西で刊行された書物の『新撰献立部類集』(1776年刊)や『名飯部類』(1802年刊)には、複数の具材を巻く太巻きが紹介されている。この頃から関西では豪華な太巻が好まれ、江戸では具材をたくさん巻くのは粋ではないとすっきりした細巻が好まれていたようである。


巻ずしに関する記述として、『名部類、付録』(1802年10月)に、
「巻きずし(叉紫菜(のり)=海苔の古名=のりずし)浅草紫菜を板状にひろげて、前の如きこけらずし(箱ずしのこと)の飯を置き、加料(かぐ)には鯛、あわび、椎茸、野蜀葵(みつば)、芽紫蘇(めじそ)、の類を用い堅く巻、布を水にしめし上に覆い、しばらくして切る。紀州・加太の〆巻きずし(わかめで巻いたもの)」
とあり、海苔巻きで上方の海苔巻きずしを巻すしといい、これは1枚巻きで今に続く関西流巻きずしの原形といえる。

○稲荷ずし
稲荷寿司(いなりずし)は玉子や海苔の巻寿司のように油揚で巻いた寿司として生まれ、稲荷信仰とからみ、独自の屋台や振り売りで売られた。稲荷寿司の語源というのは、稲荷神の使いであるキツネの好物である「油揚げ」を使用することから名づけられたとされている。地域によっては「信田鮨」、「信太鮨」と呼ばれている。

いなり寿司は、江戸時代より食べられており、庶民の食べ物として親しまれてきた。見世物小屋等が立ち並ぶ歓楽街で、小腹がすいた人向けに箸で、若しくは素手で簡単に食べられることから広まっていったファストフード的な寿司である。
【天保4年(1833年)11代将軍家斉のとき諸国に飢饅が起こった。それから天保7~8年と飢饅があった。このころの名古屋で油揚げの中に鮨飯を詰める稲荷鮨が考えられた。飢饅で米が不作となり、最初は甘く煮た油揚げを袋状に開いてた中にオカラを詰めて作られた。天保の末年(1844年)には「稲荷寿司」を売り歩く「振売り」も現れたという。
稲荷ずしについては不明な点が多く、『天言筆記』に「...さる巳年(1845年)10月頃より 稲荷ずし流行せしり。本家は平永町(現在の神田須田町1丁目)にて筋違(須田町の北、昌平橋と泉橋の間)の内に出る。其の後所々へ出る。此のすしは、豆腐の油揚げに、飯、豆腐のカラ、色々のものを入れ、一つ8文なり。甚下直にて、わさび醤油にて喰するなり、暮時より夜をかけて往来のしげき辻々に出て商うなり。弘化3年(1846年)の春になりても・益々大繁盛なれば...」
 そのころ、稲荷ずしのような下直な食べ物を山葵醤油を使用したもので食べさせたとある。(中略)『守貞護稿』に「天保の頃(1830~1844年末)、江戸ニ油アゲ豆腐ノー方ヲサキ袋状ニシ、 木茸、干瓢等ヲ刻ミ交ヘタル飯ヲ納テ鮨トシテ売巡ル。日夜売ㇾ之ドモ、夜ヲ専ラトシ、行灯ニ華表ヲ画キ、号テ稲荷鮨、アルイハ、篠田鮨ト云い、トモニキッネニ因アル名ニテ、野干(狐の異名)ハ油揚ヲ好ム者故ニ名トス。最モ賊価鮨也。尾(尾張)ノ名古屋等従来有ㇾ之。江戸モ天保前ヨリ店売ニハ有ㇾ之興。蓋両国等田舎人ノミト専ラトスル鮨店ニ、従来有ㇾ之興也」とあり、これが稲荷ずしの発祥から店売りまでの唯一のよりどころである。】

稲荷ずしの再現屋台
稲荷ずしは、天保の末年(1844年)には、屋台や稲荷鮨を売り歩く振売りなどを通じて江戸の市民にも親しまれた。稲荷ずしの名前については、油揚げを狐が好むといわれているところから、キッネを霊獣とする稲荷信仰と関連させて、稲荷ずしと呼ばれるようになった。


2章【すしの歴史/江戸の握り寿司文化と華屋与兵衛】へ進む






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