日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食・醤油文化

 2章:すしの歴史/江戸の握り寿司文化と華屋与兵衛


1章【寿司の歴史/熟れずしから江戸前握り鮨の誕生まで】に戻る


1.江戸前握りずしの誕生

江戸時代初期の寿司は全てが「なれ鮨」であったが、江戸中期には醸造酢を用いてつくる寿司が開発され、即席で寿司ができるようになったので、これを「早ずし」といった。
「早ずし」は一晩で出来上がることから、「一夜漬けずし」、「当座ずし」などともいった。アユ、サバ、アジなどの姿ずし、枠に入れて圧力を加える押しずしなどもできてきた。酢を使った「早ずし」の登場は、押しずしや握りずしへと発展していった。

江戸前の握り寿司が登場したのは江戸時代の後期、18世紀に入った頃の江戸で、新鮮なネタで寿司を客の前で即席で握るという発想で生まれた。この「握ったすし」を「江戸前寿司」と言ったという。

庶民の食文化が発達した江戸時代、醤油、味噌とともに〝酢〟も庶民の食生活に普及した。この時代、江戸の町には屋台を中心とする外食産業が普及し、その中で「握りずし」が世に登場する。元禄のころには酢を使うことが一般的になり、その後、文政年間(1818〜1830)に酢飯と生魚を合わせて握る「握りずし」が生まれた。

それ以前は寿司といえば、関西が発祥の「押し寿司」だけであったが、町人文化が栄えたこの時期、江戸の町に多く見られた屋台で、江戸前浜の海で獲れた魚介類と海苔を寿司ネタとして使った。この江戸発祥の寿司を「江戸前寿司」という。

寿司屋の屋台は、間口6尺で奥行き3尺。移動することはなく、町場なら路地の入口、寄席や見せ物小屋近くなどの人が集まる場所に据え付けて商った。図の屋台の右にどんぶりが見える。このどんぶりには醤油が注いであり、共有で使っていた。つけ台(握ったすしを直接置く台)の裏側には半畳ほどの畳があり、職人はそこに座ってすしを握っていた。

江戸前の海の多用な魚貝を「握りずし」として成立させるために、江戸の後背地、利根川や江戸川の海運によって成長した野田や銚子の「濃口醤油」や「酢」の醸造場の発展もあった。濃口醤油(関東地廻り醤油)は、これまでの上方の下り醤油とは異なり、小麦を使うことにより香りの高い醤油となり、江戸前の魚料理に合う醤油であった。

江戸の町には早ずし等と言われ屋台の握り鮨屋が既にあったとされている。その中から財を蓄えた商人や宵越しの銭を持たない江戸っ子気質に後押しされ高級を売り物にする鮨店が店を構えるようになった。
江戸の両国・回向院門前(両国広小路)にあった「興兵衛ずし」もその一軒であった。江戸風の握りずしは「興兵衛ずし」の華屋与兵衛(はなや よへえ)により、店を出した数年後に創作されたといわれる。

1830年ごろ作られた握りずしは、庶民に広がり1849年の『守貞謾稿』に、「江戸ハ酢店甚ダ多ク毎町三戸蕎麦屋三町ニー戸アリ」とあるように急速に江戸の町に広がった。『守貞謾稿』によれば「握りずし」が誕生すると、たちまち江戸っ子にもてはやされて市中にあふれ、江戸のみならず、文政末には大坂の戎橋南で〝松ノ鮓〟が江戸風の握りずしを売り始めた。


喜多川守貞「守貞謾稿」の江戸寿司と押しずし(箱寿司)
〔白魚は現代の握りではあまり見かけないが、江戸時代は佃島のあたりで“江戸前”の白魚漁が盛んであった。〕



2.握りずしの始祖「華屋与兵衛」

握り寿司の発明
現在の握り寿司の原型である江戸前寿司の発祥については多くの書籍に記載され、文政年間(1818〜1830)に「与兵衛鮓」の華屋与兵衛が考案したという説が有力である。
一方、喜多村信節が江戸時代後期の風俗習慣、歌舞音曲などについて書いた随筆『嬉遊笑覧』(きゆうしょうらん)文政13年 (1830年) には「松の鮓」の堺屋松五郎であるとされるなど諸説ある。

華屋与兵衛は早ずしの開発を試行錯誤する中で尾州半田の「粕酢」と出会い、粕酢を飯に混ぜ、酢飯にすることで今までの発酵させるなどの手間がなくなり、現在の江戸前寿司がこの世に誕生したと言われている。さらに与兵衛は酢飯とネタの間に「ワサビ」を入れる工夫をしている。
江戸後期江戸で「寿司」といえば、もともと押し寿司であったが、1800年代初め以降、握り寿司が考案されると徐々に広まり安政の頃(1854年頃)には、江戸で寿司といえば握り寿司だと『守貞謾稿』にある。
『守貞謾稿』によれば、安政の頃(1854年頃)の江戸は、『握りずしのみ』、『鶏卵焼・車海老・海老そぼろ・白魚・まぐろさしみ・こはだ・あなご甘煮の長いまま』、『値段は大体八文。玉子巻は十六文』、『すし店がとても多く、毎町に一、二戸』、『名のある店は、松の鮓、与兵衛鮓、毛抜鮓、小松鮓』などと記されている。
さらに、この喜田川守貞とほぼ同じ時期の嘉永三年・1850年頃に、大阪生まれの歌舞伎作者、西沢一鳳(にしざわいっぽう)はその著書「皇都午睡(みやこのひるね)」で、『江戸のすしは皆握り鮓であった』などと書いていて、文政、天保、弘化を経て、嘉永年間(1848年〜1854年)には江戸は握りずし一色になっていたことが分かり、前述の喜田川守貞の記述とも呼応する。(西沢一鳳『皇都午睡』)


■華屋与兵衛の「与兵衛鮓」
江戸の町に初めて寿司屋が登場したのは貞享年間(1684~1687年)のことであった。この頃の寿司は、まだ関西風の「箱ずし」・「押ずし」で、上方から伝えられたものである。その後に登場するが手で握る「早ずし」で、これが改良されて江戸式の「握りずし」が登場したのが江戸時代後期の文政年間(1818~1830年)であった。
「押し寿司」は、四角い木の枠にすし飯を詰め、具を乗せたあと、手で押さえてご飯と具材を密着させる。 大阪や京都では「箱寿司」とも呼ばれた。
『守貞漫稿』(嘉永2年{1849}は、幕末の握りずしのうち、刺身(マグロ)とコハダを乗せる時のみ"ワサビ"をはさむと注釈している。ともに生の魚で、他のすしダネが魚と言えど加熱加工してあったことを考えると、ワサビには生魚には毒消しとしての作用が担わされていたことが憶測される。



江戸前寿司は、白米であるシャリの上に魚の切り身をのせた「握りずし」で、考案したのは本所元町のすし屋『華屋与兵衛』(はなやよへい)といわれている。「握るすし」というのは華屋与兵衛以前にもあった。しかし、それは、小さく握った飯の上に魚を貼り付け、箱の中で笹の葉(熊笹)で仕切りをして押しをかける「箱ずし」であった。

華屋与兵衛は、この手間と押し付けることで魚の脂分が抜け出てしまうのをきらった。与兵衛は、その場で「握り早漬け」という、握った酢飯に、下ごしらえした魚の切り身をのせただけで、すぐに食べられる「握り寿司」を編み出した。当初は、岡持ちを持って岡場所(私娼窟)を夜明け頃まで街中を歩き売りしていたが、人気が出て繁盛すると、文化七年(1810)に江戸本所横綱(現在の墨田区両国)に屋台見世を出して、客の目の前で寿司を握って商売を始めた。

その後、文政七年(1824)、江戸の尾上町(両国回向院前)に「華屋」という店を構え、与兵衛はコハダやエビの握りずしを「与兵衛鮓(すし)」として売り出した。また、「与兵衛鮓」はタネ(マグロ,コハダ)と酢飯のあいだに “ワサビ” を挟ませた。これが評判を呼んで、他にも握り寿司を出す店が江戸中に広がった。
【華屋与兵衛は、いろいろ試みた末に、酢でしめた握り飯の上に江戸前で取れる新鮮な魚の切身をのせ、それを掌で握りしめて客に出した。華屋与兵衛の用いた酢は、今までの「米酢」ではなく風味ある濃厚な色の酢で「粕酢」である。魚を下ごしらえした上で、酢飯にのせることや、“ワサビ”を挟むやり方も与兵衛の考案になるという。
しかし、当時ワサビを入れるのはマグロ(守貞漫稿ではマグロ刺身という)とコハダだけだったようである。 こうして誕生した握りずしは、手軽な屋台料理として粕酢とワサビの風味が江戸っ子にもてはやされ、瞬く間に江戸市中に鮨の立食いが拡がった。】
当時の握りずしは大きく、今の握りが一口で食べられるのに対し、当時の握りは「一口半」から「二口」もあり、口にほうばるぐらいの大きさがあったという。握りずしの屋台では、ツケ台に大きな握りずしを並べて置いてあり、江戸っ子は2個、3個を買い、立って食べるという立ち食い形式が一般的であった。後に、その大きさでは食べにくいと言うことで二つに切って供したのが、二貫ずつ出す寿司のはじまりと言われている。


『偲ぶ与兵衛の鮓』の絵/小泉清三郎著
 
『偲ぶ与兵衛の鮓』の絵では左上から、小鯛、その下がミル貝、キス、イカの輪切り(胴体にシャリを詰めて輪切りにした寿司)。小鯛の横が白魚、その下の赤いのがマス、コハダ、下にアジ、海苔細巻き、赤貝。右上が鮎の姿寿司、その下が厚焼き玉子と海苔太巻き、下に車エビ、サバの押し寿司。



『偲ぶ与兵衛の鮓』の絵を元に江戸前寿司を再現 (東京 日本すし学院 川澄 健)
再現江戸前寿司の左上から、小鯛、白魚煮付け、しめさば、稚鮎の姿酢じめ、白ぎす酢じめ、づけ鮪、車海老(塩茹でにして酢に漬けシャリには海苔が入っている)、煮いか(シャリには、シイタケ、海苔、エビのおぼろの混ぜご飯である)、小あじ、赤貝、サバずし、である。


3.握りずし

握りずしの普及
握り寿司は、押し寿司から派生し、文政年間(1818-30)に江戸に広まったと言われる。
握りずしは、関西での寿司の「なれずし」(甘酢で味付けした米飯に開いた生魚を載せて一晩寝かせ発酵させ出したもの)とは違い、飯に酢を混ぜ、魚だけでなく野菜・乾物などを用いて江戸独自の手法で作られた寿司である。すぐに食べられる事から、"当時は握りずしは「早ずし(はやずし)」「握り早漬け」と呼んだ"という。

当時、拳ぐらいの大きさがあった握りずしが庶民に広まったのは江戸時代後期である。握りずしが普及したのは、米酢よりも値段が安く、酒粕を利用した三河の粕酢(かすず)の甘味や旨みがすし飯に合うことがきっかけとなったという。
「粕酢」は、それまでの米酢とは異なった、こくのある風味と濃厚な色を備えた酢で、大坂ずしのようにみりんや砂糖を加えなくても塩と酢のみの調味でおいしいすし飯ができ、生魚の味を引き立て、この味は江戸っ子の好みに合致していた。

 
『江戸名所道戯尽(えどめいしょどうけづくし) 両国米沢町』より一部分、歌川広景、安政六年頃(1859)


守貞謾稿の江戸の握りずしについての記述
『守貞漫稿』(嘉永6年、喜多川守貞著)には、
「すしのこと、(略)三都とも押鮓なりしが、江戸はいつ比よりか押したる筥(はこ)鮓廃し、握り鮓のみとなる。(中略)筥鮓の廃せしは五、六十年以来やうやくに廃すとなり。江戸、今製は握り鮓なり。鶏卵焼、車海老、海老そぼろ、白魚、まぐろさしみ、こはだ、あなご甘煮長のままなり。以上、大略、価八文鮓なり、その中、玉子巻は十六文ばかり也。これに添ふるに新生姜(しんしょうが)の酢漬、姫蓼(ひめたで)等なり。」とある。
握り鮓のマグロについての説明には、「(マグロ)刺身及びこはだ等には、飯の上、肉の下に山葵を入る」とある。刺身用マグロの握りや寿司に付合せの「ガリ」を添えること、酢飯にワサビを載せ、その上に具(タネ)のせていたことがわかり、ほとんど現代の握り鮨と同じである。


江戸時代の握りずしを復元した「早すし」
 
ふつうの握り寿司(手前)の2倍の大きさの早すし。
「早すし」は大きく、1個に使う握りずしに使うシャリは、今の時代は米が20グラムぐらいに対して、江戸時代のは50グラムぐらいの大きさとなる。江戸時代は酒粕から作る粕酢(赤酢)をシャリに混ぜているので酢飯は赤みがある。また、酢飯には粕酢の味も付いており、また、ネタの魚貝類にも酢締めや、醤油漬け、火を通すなど処理を施すなどでネタに味が付いており、醤油をつけずに食べていたとも云われている。


4.江戸三鮨

「江戸三鮨」の有名なすし屋は、屋台ではなく店構えであった。「江戸三鮨(えどさんすし)」と謳われたのが、両国東の「與兵衛ずし」、深川安宅六軒堀の堺屋松五郎の「安宅(あたけ) の松が鮓」、竈河岸(へっついがし)の「笹巻毛抜鮨(ささまきけぬきすし)」である。

「與兵衛(よへえ)鮓」華屋与兵衛
華屋与兵衛は福井藩の出身である。九歳の時に江戸・蔵前の札差「板倉屋清兵衛」方に下男奉公に入り、十数年間勤め上げ、二十数歳で板倉屋を退いた。その後は古道具屋、干菓子屋等々と何度かの商売を変えた末に「握りずし」を考案したと伝えられている。



与兵衛は文政年間(1818年~1830年)に当時住んでいた本所横綱の近くで毎夜、松井町界隈の岡場所を夜明けごろまで握りすしを売り歩き、尾上町(両国回向院前)に小さな店を構え「與兵衛ずし」の看板を上げたという。
この店が「松が鮓」と同じく武家屋敷からの注文も多く 『こみあいて 待ちくたびれる与兵衛鮨 客も諸とも手を握りけり』(安政3年・1856年『武総両岸図抄』-「与兵衛鮨」)という狂歌があるくらい江戸中の評判となった。また、天保7年・1836年『江戸名物詩初編(江戸名物狂詩選)』に書かれた「與兵衞鮓」には、以下のように記されている。
『流行鮓屋町々在 此頃新開两國東 路地奥名與兵衛 客来争坐二間中』・・・「江戸の町々に、はやりのすし屋があるが、最近、両国東の路地奥に与兵衛鮓というのが出来て、 二間(ふたま) ほどの店だが客が席を争っている」。

笹巻毛抜鮨(ささまきけぬきすし)
元禄15年(1702)に初代の松崎喜右衛門が竈河岸(へっついがし : 現在の日本橋人形町付近)で創業。笹の葉で巻いた押し寿司の一種で、保存食とするため飯を強めの酢でしめてあるのが特徴で、寿司だねも塩漬けで1日、酸味の強い酢(一番酢)で1日、次に酸味の弱い酢(二番酢) で 3日から4日漬ける。巻き寿司や握り寿司に比べて歴史が古く、巻いた笹を外すと握り寿司と同じ姿が現れる。

毛抜鮓〔笹巻けぬきすし〕の調理方法が『守貞謾稿』に記載されている。すしダネを酢飯にのせて笹で巻き、桶(おけ)に入れて上から重しの石を置く。仕込みの段階で「毛抜き」を使い、魚の小骨を丁ねいに抜いてたことから「毛抜すし」と呼ばれた。


写真:創業元禄十五年「笹巻けぬきすし総本店」 (笹巻毛抜鮨とは、すしダネの鯛、コハダ、海老、白魚、さより等の魚を1週間ほど塩に漬け、さらに酢でしめた後、毛抜きで魚の小骨を抜き、酢の利いた飯と一緒に熊笹の葉で巻いたものである。)
幕末に書かれた喜田川守貞の近世風俗志「守貞謾稿 巻之六」(嘉永6年-1853刊)に、笹巻毛抜鮨について以下のように書かれている。
『毛ぬきずしと云ふは、握りずしを一つづゝくま笹に巻きて押したり。値一[つ]六文ばかり。毛ぬきずしの他は貴価のもの多く、鮨一つ値四文より五、六十文に至る。天保府命の時、貴価の鮨を売る者二百余人を捕へて手鎖(てぐさり)にす。その後、皆四文・八文のみ。府命弛(ゆる)みて、近年二、三十文の鮨を製すものあり』


安宅の松が鮓
文政13年(1830)に大阪から進出して深川安宅六間堀(現在の江東区)で開業した「いさごずし」は、付近の名勝「安宅(あたか)の松」にちなんで通称「松が鮓」「松の鮓」「安宅の鮓」などと呼ばれた。

関西泉州境生まれの堺屋松五郎が「松が鮨」を構えたのは、華屋与兵衛の「與兵衛ずし」から6年遅れての文政13年(1830)である。地名から安宅の鮓(あたかのすし)とも呼ばれたが、「松が鮨」、「安宅松が鮨」、「松の鮨」ともいわれている。やがて、「松が鮨」は江戸中で、「玉子は金のようで、魚は水晶のようだ」と美しさをたたえられる贅沢寿司となり、「松ヶ鮓 一分ぺろりと 猫が食い」とも川柳にも詠まれている。(一分とは銀一分=一両の四分の一。高価な鮨である。猫とは本所回向院前の岡場所の遊女の意味=金猫銀猫)

安宅松が鮨について『守貞謾稿』には、「江戸鮓に名あるは本所阿武蔵の“阿武松のすし”、上略して“松の寿司”と云ふ。天保以来は店を浅草第六天前に遷す。また呉服橋外に同店を出す。」と書かれている。
その他にも、「松が鮨」の高級すし屋を表わす記述がある。『甲子夜話』には、「近頃、大川の東、安宅に、松鮓と呼ぶ新製あり。松とは売る人の名なり。これよい味、一時、最賞用す。この鮓の価、ことに貴く、その量、五寸の器、二重に盛て、小判三両に換えるとぞ。これを制するもの、鮓、成て、これを試食し、その味、意に適はざれば、即ち、棄てて顧みずと云う。この如く貴価の品、今に行はるるも、また世風を観るべし」とある。





5.天保の改革と高級すし

江戸の贅沢すし
江戸前寿司の店舗の形態は「高級すし屋」「すし屋(内店)」「屋台」「岡持(振売り)」の大きく4つに分かれており、現在のようにその場で江戸前寿司を食べることができたのは主に屋台であった。当時は、まだ「屋台の寿司」が中心で庶民の胃袋を支えた。


江戸後期の歌川広重「鮨 団扇絵」


鮨屋店 「与兵衛鮓」や「安宅の松が鮓」のように立派な店舗を構え、職人を多く抱えた寿司屋は主に富裕層を相手にした高級すし店であった。高級すし店の寿司は、町民などの庶民が食べられるような値段ではなく、寿司一人前が2両とも3両とも言われる値段で、豪商や幕府の高官などが食事や土産物として利用していたという。
「安宅の松が鮓」の逸話には、 松が鮓の寿司が5人前で本漆の高級漆器込みで3両もしたこと。また、 「心つけ給えと言って鮓の中に壱朱銀などを入れおきしなり・・・・」とあように寿司飯の中に壱朱銀(250文)を入れていたようである。

『守貞謾稿』には握りずしの平均的な値段が出てくる。車エビやマグロなどは一つ8文程度。しかし、『江戸たべもの歳時記』(浜田義一郎著)によると、「松がすし」は一つ250文もしたという記述がある。
第12代将軍、徳川家慶の老中・水野忠邦が行った質素・倹約を命じた「天保の改革」(1841~43年)の一連の奢侈(しゃし)禁止令で、贅沢品を販売したことで衣類の仕立屋、下駄屋、小間物屋等がおとがめになり、寿司屋も見栄えの派手さに力を入れている店が多く競い合いが起きて、これが贅沢品と見なされ、握りずしも取締りの対象となった。
高価な寿司を売った寿司職人200人余りが召し捕えられた。江戸の「江戸三鮨」と呼ばれた鮨屋店の華屋与兵衛の「与兵衛鮓」、堺屋松五郎の「松が鮓」、松崎喜右衛門の「笹巻き毛抜鮨」 の中では、華屋与兵衛、堺屋松五郎の両名共に捕縛され手鎖(てぐさり)の刑に処せられている。

水野忠邦の「天保の改革」の記述書『守貞謾稿』と『きゝのまにまに』には、
『守貞謾稿』の記述には「毛ぬきずしの他は貴価のもの多く・・・天保府命の時、貴価の鮨を売る者二百余人を捕へて手鎖にす。」とある。
また、喜多村筠庭『きゝのまにまに』天保十三年四月の条には「(上略)又此頃照降町に種々当世向之高価なる衣類を仕立て商ふ店あり、あざなをゼイタクヤと呼り、又乗物町河岸に六門屋と云下踏草履を售る、高価なる品多し、時好に叶ひて行はれぬ、又本町辺には丸利と云小間物屋流行て、種々高貴のもの多し、これら皆召捕われ、土蔵に封印付て御改め有、又油町新道鼈甲細工商ふ上総屋并に同所但馬や、又横山町の上総屋と云呉服屋、大橋安宅の松が鮨、両国元町の与兵衛が鮓、是らも被召捕たり
とあるように、わさび入り寿司の「与兵衛鮓」と「松が鮓」は豪華な、そして高価な鮨だったようで、それにより水野忠邦による天保の改革では、華美で贅沢として倹約令に触れ、処罰されるほどであった。
高級な店は、天保の改革時に質素倹約令に触れて処罰され、これにより江戸の町から握り寿司が消えることになってしまうが、天保の改革を主導していた水野忠邦が失脚した後に江戸の町で再び握り寿司が復活した。


高級寿司の「安宅の松が鮓」
江戸で一番豪華な寿司といわれた堺屋松五郎の「松が鮓」が考案して売り世した寿司は豪華絢爛で、江戸名物詩と言う書籍には『卵は金の如く魚は水の如し』と書かれ、大判錦絵にも描かれるなど評判を呼ぶが、「天保の改革」の倹約令に触れて堺屋松五郎も処罰を受けた。
『松の鮓』の人気は、天保7年・1836年に方外道人(木下梅庵)が書いた『江戸名物詩』にも登場し、「他に並ぶものもなかった」と記されている。
◇『江戸名物詩初編(江戸名物狂詩選)』天保7年(1836)
「本所一番安宅鮓 高名當時莫可并 權家進物三重折 玉子如金魚水晶」・・・「本所一番安宅のすしは、名が高く当時他に並ぶものもなかった。当時の権勢のある家が進物に使うのは「松のずし」の三重の折り詰めで、玉子は金のようで、魚は水晶のようであった」。
◇『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』
明和2年から天保11年(1765-1840)に書かれた「安宅松鮓」について、江戸時代中期から幕末までの川柳・狂歌集には、『おはしたの口へはいらぬ松の鲊』の1句がある。安宅(あたけ) の松が鮓は、使用人は口にすることができないくらい高価だったということである。

◇江戸深川、堺屋松五郎の「松の鮓」(屋号は「砂子鮨(いさごずし)」)について、次のような記録がある。
『近頃、大川の東、安宅に、松鮓と呼ぶ新製あり。松とは売る人の名なり。これよい味、一時、最賞用す。この鮓の価、ことに貴く、その量、五寸の器、二重に盛て、小判三両に換えるとぞ。これを制するもの、鮓、成て、これを試食し、その味、意に適はざれば、即ち、棄てて顧みずと云う。この如く貴価の品、今に行はるるも、また世風を観るべし』(松浦静山(1760~1841)『甲子夜話』)
◇「阿たけまつ本店」歌川豊国 錦絵。
上の錦絵は、堺屋松五郎が創業した安宅の松のすし本店の錦絵で、桶に入った押し寿司と折箱に詰められた握り寿司が描かれている。「阿たけまつ本店」歌川豊国絵の説明、「店の前にすし桶を持つ女性が立ち、左手の天水桶には浅草平右衛門町とあって、山形に松の字が大きく書かれています。また上の方に見えるのれんには本店とありますから、松のすし本店前の光景です。女性の持っているすし桶には押し蓋がありますから、中に入っているのは押しずしで、上にのせた折箱に握りずしが入っているようです。松のすしでは握りずしだけでなく、押しずしもつくっていたことがこの絵からもわかります」 … 『江戸食文化紀行-江戸の美味探訪-』より引用。

◇『江戸名物酒飯手引草』嘉永元年(1848)刊

安宅の松の鮨は『守貞護稿』にも名のある店として紹介されている。文化文政のころの狂歌に「伊豆わさび/隠しに入れて/人までも/泣かす安宅の/丸漬けのすし」というのがある。「安宅」とは江戸深川の地名で、そのあたりにあった「いさごずし」のこと。(浄瑠璃の「安宅の松」と店主松五郎の名にちなんで「松が鮨」と通称された)



歌川国芳 『縞揃女弁慶』/天保15年(1844)
画中に添えた狂歌は、梅屋『をさな子も ねだる安宅の松の鮓 あふぎづけなる袖にすがりて』である。
当時流行の「弁慶縞(べんけいじま)」の衣装を身にまとう女性が、酢で〆たコハダの押しずしに、卵巻きずし(海苔ではなく厚焼き卵で巻いた太巻き)をのせ、上に海老の握りずしをのせた小皿を手にしている。折箱には「あたけ 松のすし」と書いてあり、これは当時の立派な寿司店「安宅(あたけ)の松が鮓」である。
「押しずし」から始まった『松の鮓』も、天保15年・1844年に描かれた錦絵『縞揃女弁慶』には、「安宅の松の鮓」の文字とともに「握りずし」が描かれており、この頃には『松の鮓』を始め、江戸のすし屋が『握りずし』の時代に入っていた。



6.江戸時代の寿司ネタ

江戸時代、寿司ネタの嗜好
握り寿司といえば、現在ではマグロで、それも脂ののった大トロが好まれるが、江戸時代は新鮮なマグロは冷凍設備がないことからマグロは醤油漬け(ヅケ)にして握られていた。嗜好的に淡泊な味を好んで脂肪分の多い魚を敬遠し、江戸前で採れる新鮮な近海魚であるコハダやアジが好まれた。

マグロは安価なイワシなどと同様に下魚(げぎょ)として取引され、あまり人気のある魚ではなかった。脂肪分の多いトロの部分は何でも食べる猫でさえ、またいで避ける「猫またぎ」という蔑称で呼ばれて大衆受けされず捨てられていた。このため、マグロの脂肪の少ない赤身(守貞漫稿ではマグロ刺身という)を醤油漬けして「ヅケ」と呼んで握られていた。
「江戸前寿司」は、〆る蒸す漬けるなどの仕事をネタにほどこして江戸前を名乗る寿司であって、マグロのトロなどは、〆るにも蒸すにも漬けるにもその「脂」が邪魔になった。

天保(1830~44)以前はマグロは全然用いられていなかった。1836~1837年(天保7~8)ごろ江戸近海でマグロの大漁があり、処分に困ってすし屋に使用を勧めたが、みな断り、日本橋馬喰(ばくろ)町の屋台店「恵比寿鮨(えびすずし)」が醤油漬け「ヅケ」の調理方法を試みたところ、江戸ッ子の気風にあって、たちまちマグロは握りずしの代表的ネタになったという。(元来マグロのヅケとは切ったネタを、醤油、酢などで洗い醤油漬けしたもの)


寿司ネタ
日本調理科学会誌 Vol.41No.3 [赤野裕文] より以下を記す。
寿司ネタは、保存の関係上、江戸湾で獲れた魚が中心であ り、外洋の魚は用いられなかった。 またマグロやタコは、魚としての評価が低かったこともあり、当初は用いられなかったようである。季節ごとの代表的な寿司ネタを下記に記載した。
  • 〈春:2~4月 〉 穴子,さより,玉子巻,おぼろ,白魚,ひらめ,かすご鯛,玉子,真鯛
  • 〈夏:5~7月 〉 穴子,きす,小鯛,あわび,車海老,いぼ鯛,小鯵
  • 〈秋:8~10月 〉 穴子,小鰭(コハダ),細巻,鮎,玉子,いぼ鯛,玉子巻
  • 〈冬:11~1月 〉 赤貝,おぼろ,玉子巻,いか,小鰭(コハダ),はまぐり,大巻玉子

江戸前寿司の「ネタの下仕事」
日本調理科学会誌 Vol.41No.3 [赤野裕文] より以下を記す。 
握り寿司は、塩や酢で〆る、蒸す、煮る、タレを塗る、漬ける...といったさまざまな工夫(下仕事)がネタに施されている。江戸前寿司のネタは生ではなく、下仕事がなされていた 。 ネタの下仕事は下記の5種に大きく分けることができる。
  • ① 酢に漬ける … いか、いぽ鯛、かすご鯛、きす、小鯵(小アジ)、小鯛、小鰭(コハダ)、さより、ひらめ、真鯛
  • ② 醤油にくぐらせる …ひらめ、真鯛
  • ③ 火を通す(焼く/茄でる/蒸す) …穴子(焼物)、あわび(塩蒸)、車海老(茹物)、玉子(焼物)
  • ④ 醤油,味醂, あく引きなどで煮る …穴子、あわび、いか、大巻(干瓢・椎茸・木耳・おぼろ)、おぼろ、白魚、細巻(干瓢)
  • ⑤ その他 … 赤貝:握る直前に二杯酢にさっとくぐらせる、鮎:酢に漬けてから押しずしにする、はまぐり:味醂,あく引き,醤油,酒でつくった調味液に浸す

寿司ネタの酢締め・醤油ヅケ
この時代の握りずしのネタはだいたいが塩漬けしたあとに酢漬けにしたものである。冷蔵保存技術のない江戸時代でもあり、寿司ネタの鮮度維持のため、「酢でしめる」、「茹でる」、「炙る」といったネタに手を加え、日もちするように工夫がなされた。酢締めは、コハダやサバなどの青魚特有の生臭味を取るため、また穴子やタコなどはそれぞれに合う味付けで「茹でる」といった手間をかけた。

寛永年間(1640年頃)に、濃口醤油(関東地廻り醤油)が普及してからは、たれに漬け込むといった「醤油漬け(ヅケ)」が行われた。寿司ネタのマグロは、魚体が大きすぎて足の早い(腐りやすい)魚であった。
そのため、マグロ身の鮮度が落ちるのを防ぐ目的で、マグロの脂肪の少ない赤身(守貞漫稿ではマグロ刺身という)を湯引きして、“醤油(味醂との合わせ汁)に漬け込み、醤油の塩分で日持ちさせるといった手間をかけるようになった。

今では高級ネタとなっているマグロの脂身、つまり「トロ」は脂っ気が邪魔して醤油をはじいてしまうので「漬け(ヅケ)」にできずに捨てていた。あまり脂の強いのは「下等」で「下賤」だという日本文化特有の思考もあった。
マグロの「トロ」は、寿司ネタとしては扱われずにネギマ鍋にしたりと、二束三文の下魚として扱われていた。現在のように脂肪の多い部分が好まれ、クロマグロが高級品になるのは関東大震災以後であり、トロに人気が出るようになったのは昭和初期からである。



マグロの絵。
今では国民的人気のマグロは、魚体が大きすぎて保存ができないということで見向きもされなかった。マグロは江戸時代中期までは「シビ」と呼ばれ、カツオと一緒に取れるが縁起の悪い魚として嫌われていた。
鎌倉時代(西暦1192~1333年頃)には、鮪を「宍魚」と書いて「シビ」と読むんだが、「宍」という漢字は「獣の肉」を意味し、マグロの赤身が獣の肉に似ていることからよばれたらしい。鎌倉時代以降、江戸時代(1603~1868年頃)の中期頃までは、マグロは、縁起の悪い魚として忌み嫌われていただけでなく、味の悪い低級魚とされ、とても安い価格で売られていた。


握りずしの寿司ネタと付け合せ
守貞漫稿(『近世風俗志』)には、「江戸、今製は握り鮓なり。・・・その中、玉子巻は十六文ばかりなり。これに添うるに新生蓼の酢漬、姫蓼等なり。また隔て等には熊笹を用い、また鮓折詰などには鮓上に下図のごとく熊笹を斬りて、これを置き飾りとす。京阪にては隔てに、はらんを用い、また添え物には紅生姜と云いて梅酢漬を用う」

当時の握りずしの寿司ネタは、卵焼き・アナゴ・シラウオ・ヒラメ・コハダ・貝類などが使われた。海苔巻き(細巻き)や玉子巻きなども一緒に商われていた。このうち、マグロ刺身(ズケマグロ)とコハダを握る時のみ、間にワサビがはさんであった。
付け合わせは京坂では梅酢に漬けた紅生姜、江戸では酢漬の新生蓼(しんしょうが=ガリ)や姫蓼(ヒメタデ)を添え、笹折に詰めるとき、仕切りに葉蘭(はらん)や熊笹(くまざさ)の葉を用いたという。
 
握り鮨の大きさが拳ぐらいあったので、握り5個と海苔巻き(細巻き)1本の酢飯のボリュームは、米約1合分位あった。



7.現在の握り寿司との違い

■江戸時代の寿司屋
  • 当時、握り寿司は、ちょっとお腹が空いた時に食べたくなるおにぎり感覚の軽食であった。 現代のような小さめの握りではなく、一口では食べられない程の大きさであった。

  • 握りのネタは衛生面のため生の刺身ではなく、一度火を通したものを握っていた。 茹で海老やイカ、タレをつけた穴子などで、イカも茹でていた。マグロはそのままではなく、醤油漬けにしていた。

  • 握り寿司の屋台は、客は立ったままで寿司をつまみ、職人はつけ台(握ったすしを直接置く台)の裏側の半畳ほどの畳に座って寿司を握るといったスタイルである。握り寿司が江戸の人々に浸透してくると、屋台から店を構える寿司屋も登場するが、客は立ち食いで職人は正座をして寿司を握るというのが一般的であった。

  • 江戸時代、屋台店や居店の寿司屋では酒を提供していなかった。寿司屋で酒が提供されるようになったのは、大正の末から昭和の時代に入ってからである。




■江戸前の寿司
江戸時代、江戸っ子が屋台でつまむ握りずしは「一貫一口半」といわれるほど、すし種(タネ)に対してすし飯が格段に大きかったという。「※1:すし飯の大きさは現在の約2倍(約45g)だったと考えられてる。」現在の握りずしは生魚を使い、握りのサイズが「一口」サイズに小さくなったのが明治後期である。

江戸時代の握りずしは「一口半」サイズで、江戸前寿司で用いられるタネも生物を使わず、すし種(タネ)を醤油に漬け込んだ「ヅケ」や塩漬けし酢漬けにしたもの、煮たり焼いたりと食材に調理を加えていた。かつての江戸前寿司は、すし種(タネ)を醤油に浸けたり酢で締めたりとひと手間加え、下味をつけてあるため、「つけ醤油」は不要で、すし飯用合わせ酢の割合は現代のすし飯と比べると、酢の量※2は約半分、塩の量は約3倍と塩辛い味であった。

また、すし飯の味付けも酢と塩だけで砂糖を加えないのが一般的であった。当時の寿司は、今よりは味が濃くて砂糖が高価で使えないので塩が多く使われた。酢は粕酢(赤酢)を使用した。「江戸前」寿司と言ったら、マグロの漬け(づけ)や酢で〆たコハダ、煮物など、ひと手間を加えたものが正しいとされている。




※1,※2 : 「にぎり寿司を大成・普及させた酒粕酢」(㈱ミツカングループ本社 広報室)
【酢と塩の割合は、米二升に対し、酢一合、塩一合弱とある。当時の握り寿司は酢と塩だけで合わせたものであった。そのため粕酢の持つ独特の風味がすし飯には最適とされており、多くのすし屋で粕酢が使われていた。
また、この処方によれば現在の処方と比べて、塩分濃度は約3倍もあったと推定できる。塩の量が多い為、合わせ酢にせず、酢と塩を炊き上がった飯に直接振り入れかき混ぜる。握り寿司のすし飯の大きさは、現在の約2.5倍、約45g 程度と推定でき、ちょうど一口半からニ口で食べられる大きさであったようだ。 … 明治期に執筆された小泉清三郎『家庭 鮨のつけかた』(大蔵書店、1910年)より】
 
「静岡県鮨商生活衛生同業組合」から以下を引用した。
【江戸の昔の合わせ酢は シャリ(米)1升(10合)に対し、酢1合(180cc)、塩1合(230g)とある。だだし、1合升での計量仕込みとすれば 酢:塩 ≒ 1:1 の比率となる。いづれにしても、江戸時代の合わせ酢は、酢と塩だけを使っており、酢と塩は同量である。現在の握り寿司の合せ酢の比率は、寿司屋によって違いがある。大まかであるが関東は米1合に対し、酢20cc、砂糖10g、塩5gで、比率は、米酢:砂糖:塩=4:2:1である。】
 

■現在の握り寿司との違い
  1. 江戸前寿司は旬の材料を下処理し、『煎る』『焼く』『煮る』『酢〆』『漬ける』『昆布〆』等昔ながらの方法で、手間、暇をかけた仕事をして、シャリと馴じませた『すし』になる。

  2. 江戸時代は、すし飯自体の味が重要とされ、酢も酸味の強い粕酢(赤酢)を使用しておりシャリ(酢飯)の色は醤油に浸したような薄赤い茶色、塩も多めで塩辛いものであった。

  3. 一口で食べられる今の握り寿司と比べて、江戸時代の握り寿司は今の2~3倍(40㌘~50㌘)と大きかった。おむすび並みの大きさ(※)であった握り寿司は大きく、一口では食べにくいので、包丁で二つに切って供するようになった。これが「2貫づけ」の起源となった。  ※:コンビニのおにぎりが1個80㌘。



  4. 江戸時代は生魚のタネ(ネタとはすし屋は言わない)はなかった。保存技術がなかったこともあり、タネは生ではなく煮たり醤油や酢で漬けたり塩を利かせたりと必ずひと手間加えていた。すしダネにはすべて調味が施しており、「つけ醤油」は不要であった。当時のタネの数はだいたい10種類以内だった。
    (寿司のつけ醤油は、明治中期頃から握りずしに下味をつける手間を省いて、生のままの魚介類を切り身にして、そのまま握るようになった。そこで「つけ醤油」が必要となった)

  5. 江戸では、小鰭(コハダ)や鯵などさっぱりとした淡泊な魚が好まれ、現代では定番のマグロやタコは魚としての評価が低かったため、用いられなかった。現代もっとも人気のあるトロのマグロは脂が多いと嫌われた。江戸町民にとってマグロと言えば赤身であり、トロは犬猫の餌や料理に使っても汁の具(ネギマ汁)程度だった。

  6. 現在、すしダネとしてもっとも人気があるマグロは好まれず、醤油に浸け込んだヅケ(漬けるの略)にして使われた。しかし、適度に醤油を吸った鮪の赤身は独特の旨みがあり、昔の江戸前仕事を続ける一部の寿司屋では変わらず湯引きマグロの漬け「柵づけ」を出しているところがある。




8.すしと醤油

参考文献 「すしの事典」著者 日比野光敏
〇すしの材料としての醤油
すしの材料としての醤油は、混ぜずしの具を煮つける時などに使う場合と、握りずしのつけ醤油として使う場合が考えられる。前者の場合は、ほとんどが家庭料理であるので、品質やブランドはあまり問題にはされないようだ。概して、その家の煮物を使う醤油がそのまま使われる。
〇つけ醤油
握りずし屋では、つけ醤油は客の舌に直接触れるため、相当の気を使う。『家庭 鮓のつけかた』では「亀甲萬・山サ・ヒゲ田・山十」などのメーカー名を挙げている。かっての醤油はカビが生え、そのため使用前にこれを漉して取らねばならなかったが、現在ではまずその要はない。
また、クセが強かったためか、生醤油のままつけさせるよりは、味醂やカツヲのだし汁等ともに煮て醤油の臭みを飛ばした「煮切り」がよく用いられた。






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