日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食文化 資料

 日本料理の種類と歴史


1.本膳料理/会席料理/懐石料理


■知っておきたい和食の知識
歴史的に今の日本料理の基礎が出来上がったのは、鎌倉・室町時代といわれています。室町以前も公家などの間では刀などで魚をさばいていましたが、庶民にも包丁や鍋などが行き渡るようになったのは室町時代でした。その頃から魚を包丁でさばくなど、日本独自の調理法が生まれ、一般家庭でも日本料理の原形が確立しました。この頃、公式料理をつくる作法を受け継いでいる一派として知られる四条流から「四条流包丁書」という包丁に関する作法の伝書が出ています。その流れの中で、日本式の礼法を整える過程で誕生したのが本膳料理でした。

本膳料理は、約束ごとにのっとってつくられた料理を脚付きの角膳に並べたものです。位の高さやもてなしによって膳の数が増えたり、料理の品数が増えたりするのが特徴です。この本膳料理が、江戸時代になって約束ごとなどが緩やかになり、気楽にお酒を飲むための膳になったのが「会席」料理です。
一方の懐石料理は、茶道の創始者である千利休が安土・桃山時代に茶道を確立していく中で、茶を美味しくいただくために作った料理です。「懐石」の由来は、修業中の禅僧があたためた石を懐にいれて空腹をしのいだという逸話によるものです。
このように会席料理は、お酒の席を楽しくする「宴」での料理のことで、懐石は茶を美味しくいただくための茶事の流れの中で生まれた料理です。(出展:知っておきたい和食の知識)


<料理献立集>
江戸初期の料理書『料理献立集』は、江戸時代に刊行された献立集の中ではもっとも古いものであり、初版は寛文11年(1671)で、元禄頃までに再三刊行されている。
多くの異板があるが、寛文12年刊行のものは松会板(しょうかいばん)といわている。松会版とは江戸で最初に活躍した書肆(しょし)のひとり松会市郎兵衛(まつえいちろべえ)が刊行した本をいう。料理献立集には正月から12月まで、月ごとに材料と取り合わせ例を列記し、所々に簡単な料理法や調理風景の挿絵が記されている。


『料理献立集』寛文12年(1672)より、祝言の本膳料理
献立:本膳…膾(魚・大根・生姜・栗)、汁(なまこ・あわび・ごぼう・大根・椎茸)、焼き物、煮物、飯、香の物、あえ物/二の膳…貝焼き、すまし汁(鳥・きのこ・麩)、蛸(たこ)、かまぼこ、すし、くらげ/三の膳…鴫(しぎ)の羽盛り、汁(何でも時の物)、螺(にし)、えび船盛


江戸後期:料理本「料理早指南 初編」

「料理早指南」全4編1冊、著者:醍醐山人、享和元年(1801)

「料理早指南」初編には本膳・会席・精進料理の献立、二編には「時節見舞の重詰」「華見の重詰」などの弁当に関する重箱料理などについて書かれている。さらに三編には塩物魚、干し魚類の調理法と黄檗料理・卓袱料理について、四編は汁物、酢の物、煎酒などの各料理方法についてそれぞれ書かれている。


■料理様式の成立
平安時代以降、「料理を一定のしきたりに従って配膳し供する形式」、いわゆる料理様式が成立していった。中世に入り、禅宗系の僧侶より中国で発達した精進料理の料理法が伝来した。これにより、それまで粗食として捉えられていた精進料理の体系化が進んだ。このような精進料理は主にその伝来の契機となった寺院にて食されていた。
主に寺内で発展を遂げてきた精進料理が庶民レベルにまで精進料理が広まったのは近世以降であると考えられる。近世になると『当流節用料理大全』などの料理書に精進料理の献立が記されるようになった。食材、調味料などの名称が記されるほか、図が多用され、頭注に各用語の解説も見られるなど具体性に富む史料である。

「精進料理」は、中世に伝来した禅宗の寺院で、僧侶たちが修行生活の中でとった食事様式で、食は人格形成、仏道成就に通じるという食哲学を反映したものであった。その基本は、①五法(生食、煮る、焼く、揚げる、蒸すの調理法)、 ②五味(塩味、甘味、酸味、苦味、辛味)、 ③五色(赤、緑、黄、黒、白の素材) を組合わせた季節感あふれるものであった。

武士の権力が増大していった室町時代後期以降、食事の礼儀作法を尊ぶ「本膳料理」が武家階層の正式なもてなし料理として完成していった。これは、室町幕府が京都に置かれ、加えて将軍が大臣に昇り得る高い家格の貴族として朝廷から認識され、武家の庖丁流派が成立していった時代と重なる。
特徴としては、高足膳を使用して、調味した焼物・煮物・汁物が出されたことである。式の膳と饗の膳とがあり、膳組みは奇数であるが、膳の数や内容は儀式の規模や料理の流派によって異なる物であった。
式三献の儀礼である酒の献酬のあと、朱塗りの足つき膳と食器で料理が出された。本膳には飯、本汁、膾(なます)、坪、香の物、二の膳には二の汁、平(ひら)、猪口(ちょく)、そして、焼き物膳、台引などが配置された。膳の数、料理の数などで武士の権威を示す意味もあった。


■「料理早指南」の本膳料理

江戸時代の料理書「料理早指南」初編に紹介された本膳料理
朱塗りの足つきの本膳には、飯、汁、膾(なます)、坪(煮物・和え物)、手塩皿(香の物)。二の膳には汁、刺身、平(ひら)皿、刺身、長皿(焼物)、吸い物、大猪口が配膳されている。

江戸文化の欄塾期といわれる文化・文政の時代となると、太平の世を反映した町人文化の中で「会席料理」が発達した。形式的で煩雑な本膳料理を簡略したもので、折敷(おしき)の膳を用い、飯、汁、膾、附合、手塩皿を中心に、平皿、大猪口、茶碗、重引(じゅうびき)などが配膳された。
会席料理は料理の味付けに重点を置いた実質的な料理儀式として発達し、近代になって、民間の婚礼や祭りなどの儀礼食として広まり、もてなし料理の基本となった。現代では酒盃と前菜(お通し・つき出し)で始まり、順次、向付、椀、口取り、鉢肴、煮物、小丼が出され、最後に止椀(みそ汁)と飯と香の物が供されしめくくられる。

以下は『客膳形態の変遷と現代の様相』谷口歌子より引用したものである。
「江戸時代の民間の本膳の形は町民社会の一般的なものとしてみられるが、近代の本膳と比較するとやや異なるものがある。膳の形式は本膳、二の膳、脇膳の三であるが、献立様式にみてみると、二の膳の刺身は近代の様式では猪口であり、刺身としては脇膳に組む。これは武家の本膳の形である。
長皿は武家の脇膳の場合には、現代の鉢肴または中皿の如き内容であったが、ここでは焼物皿としてあったものではなかろうか。吸物はこの時代には、武家の向詰、引而につづく吸物の形をならっていたものとみられる。このような点から考察して近代の本膳の形が定まったのは明治維新後、武家と町民の別が除かれてからのことではなかろうか。」


■「料理早指南」の会席料理

江戸時代の料理書「料理早指南」初編に紹介された会席料理
折敷(おしき)の膳には、飯、汁、膾、附合(つけあわせ)、手塩皿(香の物)が、膳の外に平皿、大猪口、茶碗、重引(じゅうびき)が配膳されている。
『料理早指南大全』 には、「会席、一飯、二汁、三膾、四附合、五手塩皿、六平皿、七大ちよく、八茶碗 」という会席料理の基本的なスタイルが書き示されており、また、享和元(1801)年に刊行した『料理早指南』では、季節ごとの会席料理の献立が記されるなど、会席料理のかなり詳細な内容が紹介されていた。
茶屋で会席料理が楽しまれるようになり、加えて会席料理に関する書物が相次いて刊行されたことで、会席料理は当時の社会に定着化をしていた。さらに江戸時代後期になり、一般庶民(特に都市部)の間で、酒宴や会席料理を楽しむ余裕が生まれ、そういった層に向けて懐石料理を受け継ぎながらも気軽に楽しめる会席料理が流行した。

以下は『客膳形態の変遷と現代の様相』谷口歌子より引用したものである。
<『古事類苑』飲食部「会席料理」に「本膳を用いざる略式の料理を会席と称す。会席料理は茶会に用いし料理にて後終に一般に流行するに至れり。固より本膳とその器具を異にし、菜数も数種に止まり、二膳以下を羞ることなし」とあり、江戸時代に於ける会席のあり方をうかがうことが出来る。同時代に於て、現代の懐石と会席の区別は殆どなく、懐石即会席として文献にみられる。このような形を一応のきまりとして、江戸時代の料理茶屋の献立表には、さまざまな形がみられるが、いずれもその様式は懐石に拠ったものである。これによって江戸時代の会席料理は懐石様式で行なわれていたとみることが出来る。>

参考:管理栄養士養成『調理学 第二版』青木三恵子、『客膳形態の変遷と現代の様相』谷口歌子、「京都府立大学学術報告 第71号」井上真美・鎌谷かおる



本膳料理
「本膳料理は「多人数の宴会、祝宴などに使う正式な日本料理の膳立て」という定義がなされて いる。この本膳料理は、室町時代に武家の礼法故実をもとに確立したとされる。これは、室町殿の幕府が京都に置かれ、加えて将軍が大臣に昇り得る高い家格の貴族として朝廷から認識され、武家の庖丁流派が成立していった時代と重なる。
さらに、宮中の大饗料理から饗応料理としての形式も取り入れられ、さらに神事・仏事の食事形式が加味され、次第に様式が整えられたと考えられる。特徴としては、高足膳を使用して、調味した焼物・煮物・汁物が出された。式の膳と饗の膳とがあり、膳組みは奇数であるが、膳の数や内容は儀式の規模や料理の流派によって異なる物であった。」・・・京都府立大学学術報告 第71号(2019年)/美馬弘

本膳料理とは、室町幕府の将軍家を中心として行われた七五三膳や五五三膳と呼ばれた複雑な饗膳の様式をもととして、これを要約、改良して定められた江戸幕府に始まる饗膳の様式です。
本膳料理は「儀式」としての意味合いが強いのが特徴で、日本料理の最も本格的なもてなしの料理です。献立内容、食べ方、服装などの作法も細かく決められています。料理が並べられた脚付きの膳が5膳出るのが最高級とされています。現在では一部の日本料理店を除き、あまり見られなくなりました。

 

本膳……飯、汁、香の物、煮物、なます
二の膳…汁、猪口(ちょく)、煮物
三の膳…汁、椀、刺身
与の膳…焼き物
 (四の膳は「与の膳」とよぶ)
五の膳…引き物


織田信長が徳川家康をもてなした本膳料理(1582(天正10)年5月15日)の再現模型
奥村彪生監修〔御食国若狭おぱま食文化館蔵}



懐石料理
懐石とは茶の湯の発展の中で生まれた独自の料理の形式で、茶会の中で供されるものである。初期には「懐石」の文字は使われず、文献の上ではじめて見えるのは、元禄三年(1690)に成立した『南方録』である。茶の湯料理が懐石とのちに呼ばれるようになったのは、茶の湯の理念の影響であった。
わびの美意識は茶の湯料理の種々の面に表現される。その一つは膳である。『天王寺屋会記』永禄12年(1569)11月23日の献立に「平折敷」とあり、同三年(1560)6月8日に「赤折敷」とあるように、茶の湯料理の膳は今日でも折敷が基本である。
16世紀末くらいまでは、まだ茶の湯料理の様式が固まっていなかったので、膳も折敷以外に足打など頻繁に用いられているが、のちには膳の中で最も格式の低い、いわば家庭の食の象徴でもある折敷が懐石の定型となった。17世紀には茶の湯料理独自の心得として、食べられない骨などを除いた魚鳥の料理を出す(食後の膳腕をきれいに拭いきれるために)とか、季節に合った食材を用いるなど、さまざまの心得が生まれた(『茶湯献立指南』『古田織部正殿聞書』)。こうして懐石と呼ばれる茶の湯料理の形式が完成した。

写真:茶懐石「點心」

懐石料理…茶懐石ともいう。安土桃山期に千利休により完成された茶の湯に伴って懐石料理が誕生し、江戸期には茶道の交流により大いに発展し、末期には懐石料理として確立されました。懐石とは、茶事や茶会の席で出す料理をいいます。懐石料理はお茶をおいしくいただくための「茶会の席」(茶懐石料理)で、料理は一品ずつ出て、ゆっくりと落ち着いて食べるのが特徴です。
料理や雰囲気も会席のときほどのにぎやかさはなく、どちらかといえば落ち着いてゆっくり食べる雰囲気があります。 一般的に、ご飯や吸い物が出てきた後にお酒が出てきます。
懐石料理の献立は、折敷膳(向付、ご飯、味噌汁)、煮物、焼き物、強肴(しいざかな。炊き合わせなど)、吸い物、八寸(海山の幸の盛り合わせ)、湯桶(お湯とおこげなど)、香の物、菓子、抹茶の流れで出されます。



会席料理
会席料理とは、本膳料理を簡略化したものであり、酒宴や寄り合い向きの料理である。料理の 傾向は本膳料理と似ているものの、全ての料理を一度に配膳する本膳料理とは異なり、一品ずつ 盛って膳に出すスタイルが特徴である。また、江戸時代以前からの魚鳥料理と精進料理を組み合 わせ酒宴に相応しい献立で調理されたため、懐石料理に比べ魚鳥料理が主となっている。

写真:日本料理「慈こう」

本膳料理を簡素化されたものとして台頭してきたのが「会席料理」です。また、会席料理には、本膳形式と茶懐石の流れを汲むものがあります。
会席料理はお酒をおいしくいただくための「宴会の席」であり、お酒が最初に出てきて、次にご飯や吸い物が出てくる場合が多く、旅館や料亭などで出される日本料理といえば、ほとんどが会席料理です。(一品ずつのときもあれば、最初から並べられている場合もあります)
会席料理の献立は、一汁三菜(吸い物、刺身、焼き物、煮物)が基本でこれにお通し、揚げ物、蒸し物、和え物、酢の物などの肴が加えられます。最後にご飯と味噌汁、香の物が出されます。




2.精進料理と普茶料理

『普茶料理抄』には、 普茶料理を座敷机の上で食する図が描かれている。 机には更紗風の意匠をもつ袱紗がかかり、たくさんの器物が載せられるなかで、中央には深鉢の「大菜陶」が配されている。深鉢のとなりに仙盞瓶の酒次が描かれている。

『普茶料理抄』(ふちゃりょうりしょう) 2巻 西村未達 明和九年(1772)
江戸時代の普茶料理の食事風景。座卓にはテーブルクロスがかけられている。普茶料理とは、黄檗(おうばく)宗の僧が江戸初期に伝えた中国風の精進料理。ごま豆腐・巻繊((けんちん)などがある。上巻は「普茶料理仕様」で、巻繊から唐揚まで52項目。下巻は「卓子料理仕様」で、牡蠣鍋など中国風日本料理が38項目ある。上巻に普茶様式の挿絵を掲載する。


■精進料理
「江戸時代に記された料理書 『和漢精進料理抄』では「誠に精進は魚肉を除き」とあり、肉魚を除いた料理であるとされている。 江戸時代 から明治時代に記された辞書『倭訓栞』には「野菜海藻の類を精進物といふハ古き語なり朝野群 載御斎会加供ノ解文に精進物と書し青苔曳干和布曳干海松昆布なと見えたり、酷食といふも精進のことなり(中略)精進の語ハもと美食せざるをいへり今魚肉を食さすこととするハ仏氏の意な り」とある。
つまり、精進料理とは酷食であり、肉魚を食べない事は仏教的な意味であるとされる。日本においてこのような精進物が食されるようになったのは、肉食を禁じた大乗仏教の伝来を契機としている。

近世に入ると、「雉焼き」や「たぬき汁」と言った具体的な料理名を付されたもどき料理の例を見る事が出来るようになる。もどき料理の調理方法についても、近世には料理書に示されるようになっていた。このことから、広く一般にも知られるようになっていたと考えられる。
また、『嬉遊笑覧』では「素菜を肉菜にならひて作ることあり」として、様々な史料に見られるもどき料理に関する記載を引用している。豆腐やこんにゃく、茄子と言った精進物を使ってもどき料理を作っている様子が見て取れる。近世にて広まりを見せていたもどき料理は、その普及の一助となったと言えるのではないだろうか。

以上のように、野菜や穀物類を精進物と食していた所から中世に転機を迎え、精進料理の体系化は進められた。古代、中世においては、主に寺内や公家、武家の史料の中に、近世では主に料理書の中に精進料理に関するものが見て取れる。肉や魚に似せたもどき料理は幅広い史料の中にその例が見られ、精進料理の広まりに一助をなしていた事が伺える。」・・・京都府立大学学術報告 第71号(2019年)/井上真美


■普茶料理
「普茶料理について、江戸時代後期の辞書である『倭訓栞』では「卓袱」の項の解説の中の一つとして「精進の料理を普茶といふ」と記されている。また、『普茶料理抄』の凡例文中にも「精進の卓子を普茶といふ」とあり、「卓子」つまり卓袱料理の精進が普茶料理であるとして説明されており、精進料理であることが明記されている。
この料理については、料理は精進だが、その様式は銘々膳ではなく、卓袱料理と同様に机を使用すること、料理は大皿に盛られ複数人で食べる食事様式であることが特徴としてあげられる。様式について、『和漢精進料理抄』に「普茶図」として料理や食具などの配置が簡略な図で示されており、四人の席で、銘々に箸や菓子、生菜を並べ、机の中央にも生菜を置く図が示されている。」・・・京都府立大学学術報告 第71号(2019年)/竹貫友佳子


■精進料理と普茶料理の違い
精進料理とは、仏教では僧は戒律五戒で殺生が禁じられており、大乗仏教で肉食も禁止されたため、僧への布施として野菜や豆類、穀類を工夫して調理した料理のことです。
普茶料理とは、京都宇治に黄蘗(おうばく)山万福寺を開山した隠元禅師が江戸初期に伝えた中国風の精進料理です。「普茶」とは「普く(あまねく) 衆人に茶をほどこす」の意で、料理を仲立ちとして親睦を深め、その日の労をねぎらうといった意味合いを含んでいます。18世紀末頃になると大皿を載せたテーブルを囲む中華風の卓袱(しっぽく)料理や、卓袱を精進料理にした普茶(ふちゃ)料理が流行しました。

普茶料理とは、精進料理と違って、一人一膳の木器ではなく、四人が一つの長方形の卓に向かい合って座り、大皿に盛られたものを各自とりわけて食事をすることです。料理の前には、まず煎茶が出されます。そして小皿または丼に盛られる小菜類、大皿に盛られる大菜類が順に運ばれ、陶器の大皿に盛ってある料理を取り箸もなく、直き箸(自分の箸)で、銘々が取り皿に取り回して食事は進んで行きます。
料理には、麻腐(まふ:胡麻豆腐)をはじめ、涼伴(和え物)、雲片(うんぺん:油で炒めた野菜の葛煮)、笋羮(しゅんかん:煮野菜の盛り合わせ)、油茲(ゆじ:野菜の味付け天麩羅)、素汁(すまし汁)、行堂(ご飯またはお粥)などがあります。


料理本『江戸流行料理通』4編・普茶卓袱(ふちゃしっぽく)料理、天保六年(1833)刊
料亭「八百膳」の四代目主人栗山善四郎が書いた普茶料理の挿絵で、「賓主一礼して席に着く図」と書かれている。襖をあけて挨拶しているのが主賓である。


■『客膳形態の変遷と現代の様相』谷口歌子著には、普茶料理として以下の記述がなされている。
「四代将軍家綱の承応三年(1654年)中国から隠元禅師が来朝し、宇治に黄檗宗本山万福寺を開基している。こめ隠元禅師によって、ひろめられた中国風の精進料理が普茶料理である。 …略… 客膳の形式は客四人を一卓とし、予め菓子と小菜、箸と単票(匙)、皿、飯茶碗などを卓上に並べておき、客を招じ、着席をまって茶をすすめる。菓子、小菜とともに茶を喫して後、茶碗を下げると引替に酒瓶をはこぶ。つづいて煮菜二,三種、菜包の類を二,三種出し、献立の中ばで飯を出し、そのあと一種ずつ菜をすすめる。献立の軽重は菜の数により、四椀(煮菜四椀、小菜四椀)から十二椀の形式まで多様である。」

■『和漢精進料理抄』より「会席普茶料理略式」の記述
普茶といふは、唐風の調味にて、精進の卓子なり、長崎の禅寺、宇治の黄檗(おうばく)などにて、客を迎るには、必ず普茶料理にて饗應す事常例なり、近来上方にて専ら流行して、会席に略してする様になれり、客四人を一脚と唱へて、客七人なれば卓子台を二脚とし、主人も其中に加りて供に相伴する事なり、
原來酒を多く進る料にあらざれば、下戸口にあふ調味ながら、大菜小菜の中に上戸の意に叶ふ品を調ふべき事なり、まづ煎茶を出して、座附吸物といふ処から、直に卓子台を持出すなり、小菜八品、大菜十二品にて、皆長の數なり、
次第は図に出せり、引合せて見給ふべし、卓子料理の内にも、当時の清風と、おらんだ流とて、大に異なれども、尤それは長崎に於て、通詞衆の宅などにて催す事なれば、白煮の猪(ぶた)の蹄、丸煮の鶏、焼羊の属、日本にて調味しがたき物は、その時々魚鳥に更て庖丁す、
世に普茶卓子などいへば、諸事費多く驕奢の沙汰に聞ゆれども左にあらず、その仕様に依て、有合の物到来の品にても済事なり、唯器物の次第、席上に持出して物々敷盛並る故に、目新しく一入の興になりて、客の歓ぶものなれば、其略式に倣ひて試み給ふべきなり

■『和漢精進料理抄』より「普茶卓子略式心得」の記述
一、卓子料理は、清風(からふう)の茶の会席に斉しく、貴賤のへだてなく、懇意を結び交りを厚くするの一なり、器の中へ與に箸を入て食する物なれど、正客より順に賞翫すべし。
一、こつぷ酒鍾(さかづき)は、銘々ひかへあれど、酒たけなはにおよびて、各互ひに盃をとりかへて飮事なり。
一、台上に汁をこぼす事なかれ、若あやまちてこぼす時は拭ひとるべし、箸に挾みて喰物は、碟兒(こざら)にとりて食べし、湯匙(ちりれんげ)は左の手に持べし、骨ある物は皿子に残し置、直に渣斗(ほねはき)に入れるなり。
一、席中都て雅言を用ゆ、小皿を碟兒(てうじ)とよび、皿子(べいし)といふ、盃を爵といひ、又單提といひ、盃猪口を十景套盃(じつきんぱい)、また石(いし)ともいふ、吸物椀を蓋碗といひ、銚子を酎瓶(ちうびん)といひ、散蓮華(ちりれんげ)を湯匙(たんすう)といふ、土瓶を茶瓶(さびん)といひ、箸を牙筋(げちよ)といふ、箸紙に差て細き朱唐紙にてまき、福禄寿などの目出度文字をかく。
一、大菜小菜とて、別に器のかはる事なし、常々の皿丼(どんぶり)大平台重鍋なども遣ふべし、只名目のからめきたるのみにて、異様の調味すべからず、客の上戸下戸を窺ひ、腹をうがち、臨機応変見はからひに有べし。


3.現在の和食と一汁三菜

■和食のイメージと特色
原田信男著『和食とはなにか,旨みの文化をさぐる』から以下引用する。
「和食とは日本人の食事の総称であり、一般的なイメージとしては、米のご飯に汁と漬物がセットとなっている。これに主菜と二つ程度の副菜がついて、いわゆる一汁三菜が基本となる。(中略)こうしたした一汁三菜というスタイルは、日本の歴史のなかでつくりあげられた独自の食文化とみなすことができる。
そして汁や菜の調味にいわゆる出汁を用い、独自の展開を遂げた味噌や醤油で香りや風味を引き立てながら、自然の素材を生かした料理をつくりあげたところに、和食の最大の特色がある。(中略)また日本では、歴史的に肉食を排除してきたところから、ご飯のもっとも中心的な菜とされてきたのは魚介類であった。さらに、さまざまな野菜や根菜が用いられるところから、それぞれの食材ごとに提供される季節が異なり、旬ということが重要視される。(中略)季節という自然の循環のなかで、和食が育まれてきた結果であった。こうした和食のイメージと特色は、長い日本の歴史のなかでつくりあげられたものである。」


■和食の基本的な味
江戸時代の代表的な料理である天ぷら・そば・うどん・蒲焼・佃煮や寿司などは、良質な日本醤油ができて以後に普及し始めて今日にいたっている。また近代に入っては、肉料理(すき焼き、焼き鳥など)にも、醤油が味付けの主役となっている。一般の人々のさまざまな日常の料理である野菜・豆・芋の煮物・魚の煮付け・漬物などにも醤油が生かされ、私たちの食生活を豊かにしてきた。
一方、鰹節・昆布・煮干し・椎茸等で“出汁”を取るのは、日本独自の調味である。欧米の料理では蛋白質や脂肪の多い肉類を使うので、そこから濃厚な味が出るが、肉を使わずに比較的淡白な食材を使う和食では、出汁の旨味が決め手となる。また、和食ほど“砂糖をよく使う料理は珍しいと言われる。”旨煮・甘露煮・佃煮 等々“ 醤油に砂糖を合わせた濃厚な味”は江戸っ子の好みだったようで、和食の基本的な味である。


■現在の和食
日本には主食と副食という考え方がある。形としては飯、汁、御菜、香の物という四つの部分から日本の料理はでき上がっている。
日本の食事は、味がほとんどない御飯が主体で、味噌汁という味の濃いスープ、御飯を食べるときに一緒に食べるいろいろな種類の肉や魚、野菜の煮たもの、いわゆる御菜があって、香の物があるというのが日本料理の基本形である。


和食の基本的な献立に一汁三菜がある。一汁三菜とはご飯、味噌汁、香の物に、三つのおかずのことをいう。
この場合は焼き魚(右奥)と、煮物(左奥)と、小松菜のおひたし(中央)の“三つの菜(おかず)”で構成される。
向かって手前左に「ご飯」を、手前右には「味噌汁」を、その間に「香の物」をそれぞれ置くという決まりになっている。
ご飯と漬物(香の物)は和食の前提として省かれている。






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