父と「さざなみ」 〜機関紙300号を記念して〜
高 野 靖 人

 「吉永先生を囲む、若い国語教師の会ができるのだけれど、参加するか。」
 父(高野倖生・当時「滋賀児童文化協会」「近江の子ども」事務局長)から尋ねられたのは、昭和56年の秋、教職2年目のことであった。
 翌57年3月の準備会を経て、4月に初めての定例会、そして機関紙第1号の発行。
 「さざなみ国語教室」誕生の仕掛け人だった父は、会が発足した後は、機関紙の編集長・定例会のご意見番そして夕食会のシェフでもあった。

 吉永先生を囲む30歳までの国語教師の会として発足した本会のルールは次の通り。
@毎月の機関紙発行(教室の実践を毎月全員が書き残す)。
A約束(原稿の締め切り等)は必ず守る。
B定例会は、夕食や夕食後の交流も含める(酒が飲めるように、車での参加は避ける)。

 当時の様子を思い浮かべると、原稿は、締め切りまでにそれぞれが父の元に持参する。専用の原稿用紙に手書きしていた。すぐにチェックされ、合格しなければ、その場で書き直し。判定基準は、「子どもの顔が見えてくるかどうか」合格すれば、父が和文タイプライターで打ち込み、オフセット印刷して完成。

 今と同じ事務局の2階で行う定例会では、父は夕食(全員分の手作り弁当)の準備をしながら、研究協議会に参加して、厳しく指摘。教職経験はなかったが、滋賀の児童作文集「近江の子ども」を昭和35年から発行し続けている眼は鋭かった。「それは、子どものためになっているのか」という判断基準は、明確だった。

 父が病に倒れて、編集長は常諾先生に代わり、夕食は手作り弁当から私の注文する宅配弁当に替わった。父は、二度の入院を経て、平成2年11月に他界した。
 翌12月号の機関誌(第105号)は、父の追悼号だった。第1号と同じ倉澤先生の巻頭言、同人14名全員の追悼原稿、父自身が「さざなみ」について語った随筆等が掲載されている。

 昨年、父の17回忌を済ませた。追悼原稿を書いてから、16年の歳月が流れた。機関誌も300号の記念号を迎えた。しかし、今も、父の遺影が置かれた二階の座敷で定例会を行っている。会の終わりには、全員で仏壇に手を合わせて、冥福を祈っているのだが、半数近い同人は生前の父と面識がない。
 手を合わせながら、私は時々遺影の父から声を聞くことがある。
「それは、子どものためになっているのか」
「子どもの顔が見える実践なのか」と。
(大津市立仰木の里小)